尾張国総社と式内社

愛知県稲沢市の尾張大国霊神社の儺追神事、「国府宮はだか祭り」
この歴史をすこし辿ってみようと思いました。                   

儺追神事は神社周囲1里(4km)を神垣と呼び、その外で難負人
を捕らえ、厄を押し付けて放つ。少し卑劣ではありませんか。この
神事の時代背景を知りたかった訳です。                        
はだか祭りの起源は神護景雲元年(西暦767年)全国の国分寺に
出された吉祥天悔過の法の勅命に由来するという。この尾張平野は
今から1230年前どんな姿だったのだろう。古式を伝える祭りの
真相は、この歴史の中でお伝えしないと、誤解を招きかねないと思
ったからです。                                               

    国府宮の神殿脇に磐座(ときわざ)があります。磐座とは狩猟民
族の祭祈の場といわれます。そしてその磐座は本宮山を向いて祭礼を
したように配置されているという。往古、本宮山の麓は邇波縣      
(ニワアガタ)と呼ばれ、豪族丹羽氏が治めたといわれる。ここには
”田県神社豊年祭り”がありこの祭りは、朝廷に近い新興勢力    
”尾張族”との融合を物語るものでないかと思われました。        
3月15日の祭礼に訪ねてみました。                            


本宮山 田県神社豊年祭り

本宮山から戌(いぬ)の方向の小高い山。犬山の語源の一説です。 木曽川南岸の犬山城脇に針綱神社があり、丹羽氏の祖と尾張氏の 祖を合祀しています。4月1日の針綱神社の祭礼”犬山祭り”を 訪ねました。 式内社針綱神社 犬山祭り 神社については無知浅学であります。図書館に足を運びました。 ある時、稲沢市図書館で下記の本に出会いました。 古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社 (愛知の神社をたずねる会、加藤宏 S63年6月) これを道標に神社巡りが始まりました。

国府宮の周りに式内社といわれる古い神社が意外と多いのには 驚きました。国府宮神社から800m北に久多神社があります。 その少し北東に川曲神社があります。 式内社久多神社 式内社川曲神社 稲沢市の西は木曽川まで田園地帯が続きます。新幹線が出来る までは養老山脈まで稲穂の波を一望できました。その新幹線横に 浅井神社があります。すこし南に塩江神社があります。私は仕事 で測量をするのですが。測量基準点は神社境内にあることが多い。 この塩江神社にも来たことはありました。歴史の古い神社と改め て知りました。 式内社浅井神社 式内社鹽江神社 市の南西の坂田地区には氷室という地名があります。氷室は「ひむろ」 と読むことは知識として知っていましたが、麻積は読めませんでした。 仕事でこの地区の道路の設計をしたときはじめて麻積は「おうみ」 と読むと知りました。この氷室と麻積の中間に目比町があり裳咋神社 があります。 式内社裳咋神社 式内社とは延喜式神名帳に記載された歴史の古い神社です。 延喜式は905年に編纂が開始された律令や格の細則であります。 全50巻、神名帳は巻9、10。 祈年祭には幣帛が届けられ大和朝廷との関係が深いとされています。 神名帳には社名と社格しか記載されていません。尾張国中島郡で現 在その所在不明の神社が5社ありますが、次の3社は稲沢市内の 説が有力です 式内社波蘇伎神社 式内社千野神社 式内社見努神社 稲沢市は昭和30年、旧中島郡の4町が合併し、昭和33年に市 となりました。隣接する町村も尾張国中島郡として共有する歴史 が あります。西に隣接する平和町には三宅の地名があり、屯倉社 と伊久波神社があります。これらは国府宮神社前を流れる三宅川の 下流沿いに位置します。 屯倉社 式内社伊久波神社 伊久波神社の少し下流で日光川に合流しますが、ここに賣夫神社が あります。 式内社賣夫神社 6世紀ころ大和朝廷の支配は地方豪族との連帯から直接土地の支配 に進展する。その現れが各地への屯倉の設置です。尾張には入鹿屯倉 と間敷屯倉が置かれたとの記録がある。間敷屯倉は学問的結論は付いて いないようですが平和町三宅の地が有力とされる。 氷室、三宅、麻積、目比 これらの地名からその歴史の古さを直感するのことは軽率とは言えない と思います 。 現在海部郡甚目寺町に属すが、甚目寺町大字石作に石作神社がある。 延喜式神名帳では中島郡に属する。この位置がら稲沢市込野、南麻積、 目比、氷室と結ぶ線はかっての海岸線であり「海部の古道」である 。 ここには古墳時代初期の円墳が点在する。そして、その先で三角縁神 獣鏡を社宝とする奥津神社に続く。 式内社石作神社 二ツ寺神明社美和町) 込野富士社と麻積富士社 奥津神社 稲沢市は平野の真ん中、従来大型の古墳はないとされてきた。確かに 古墳時代後期の壮大な前方後円墳は存在しないが、大和朝廷成立前夜 の地方豪族の墳墓は存在する。古代史にとって、それは重要な資料であ ることが再認識されよう。昭和57年、市中央の三宅川沿いの大塚が 円墳と確認された。 性海寺と三宮神社 春先から始まった神社巡りもすでに夏を迎えた。慣れない歴史の資料に 目を通し、現地をこの目で確認する作業を続けてきた。知らなかった歴史 とその重みを感じています。国府宮神社から北800m の久多神社。 その北の大神社、大神神社を訪問した時、その感を一層深くした。 三宅川は一時木曽川の本流であった。この川沿に、これだけの古社 が点在する。これは深い歴史が在る。そう直感した。 式内社大神社 式内社大神神社 始めに書いたが、「国府宮はだか祭り」の時代背景を探る のが私の目的です。”田県神社豊年祭り”が暗示するようにこの地で 繰り広げられた在地氏族と渡来氏族の融和にそのヒントがあるように思 われます。北に隣接する一宮市に丹羽氏ゆかりの神社、爾波神社があり ます。名古屋市には尾張氏系の島田氏ゆかりの神社、針名神社がありま す。訪ねてみました。 式内社爾波神社 式内社針名神社 たしかに、神社の祭神の系譜を辿ると丹羽氏が祖とする八井耳命系と 尾張氏が祖とする天火明命系の神社の存在が浮かびあがります。しかし、 それは明らかな面的区分でまなく交錯した分布になるように思えます。 それは古代のこの平野の地形に由来するのかもしれません。神社の故事 には沼の存在が多々認められます。洪水の時は川となるが、平時は沼。 そこに島のように点在する土地に人々は暮らし交通は小船だった。その ように想像すると納得できます。このことが、周囲1里を神垣とする祭 りの形式の由来なのかも知れません。ただ、まだ現地を訪ね歩いた私の 直感の域を出ないことはお断りしておきます。 もうひとつ体験的に学んだ事ですが、現在の市域とか県域にこだわると 錯誤を招きかねないという事です。さらに今の川はかってはその姿が大 きく異なっていたことを念頭におかねばらないという事です。現在岐阜 県に村国真墨田神社があります。この村国氏は愛知県江南市村久野をかっ て領有していたといわれます。木曽川は今の大きさと位置と明らかに 違う様相であった可能性があります。尾張国の真墨田神社と美濃国の 真墨田神社との関係はどうであったか。ここから古代木曽川の姿が浮か び上がってきます。尽きない興味ですが、安易に考えていた私の目的 は、なかなか結論だ出そうにありません。 式内社村國神社 (美濃国) 式内社村国真墨田神社 (美濃国) 式内社真墨田神社 すこしづつですが、この目で現地を確かめながら探求をしてゆこう と思います。まずはひと区切り、問題提起として発信いたします。 卑弥呼の邪馬台国論争を受け、今後この地の古代史はクロ−ズアップ されると思います。ご興味のある方のご協力をお待ちします。

2000.8.8
by Kon
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