各務原台地と鵜沼川


木曽川の平野への出口、犬山。城が濃尾用水のダム湖に影を落とす。その北一帯は各務原台地と呼ばれる。


 この一帯は木曽川によつて作られた扇状地である。木曽川の源流にある御岳山は、9〜3 万年前活発に活動し、大量の火山灰と礫を押流してきた。それが積もって台地が形成された。活動期の終わりに特徴的な泥流を押し流した。灰黒色の遺物はここ各務原台地にも残されている。 人の生活の痕跡は、旧石器時代から、縄文、弥生、古墳時代と多くの遺物が残されている。特に貴重なものは縄文時代の遺跡である。炉畑遺跡がその代表であろう。
 この台地は木曽川の出口部から10キロほどの広がりで周囲 より盛り上がった状態である。その先端は那加の町の西外れ、手力雄神社あたりである。 国道21号線が岐阜からこの台地に向かうと、那加の町の手前から坂を登ることになる。道路に張りついた商店街の南裏には崖がある。21号バイパスから眺めるとこの段差に気付くことができる。台地の四分の一程は航空自衛隊の飛行場となっている。
 国道21号線の旧道はかっての中仙道。加納宿から鵜沼宿まで4里。那加には休憩所として間の宿がおかれた。周囲は畑と林であったと言われる。この台地の南側は伊木山前渡三井山 と連なる岩山がある。北は八木山、愛宕山、各務山、権現山と連なる。この山に囲まれた 一帯が各務原台地ということになる。水田はこの台地の縁辺部にある。したがって 台地では弥生時代の遺物は少ない。各務山の南側に少し認められる。
 各務山の南側には古墳時代の遺物は少ない。一方北側斜面には、弥生時代の遺物はない のだが、古墳時代には爆発的といえる程の古墳群が認められる。この位置に来るには、 犬山橋からJR高山線、名鉄、国道21号線を越して旧街道に入る。二ノ宮神社をとおりこして 苧ヶ瀬池に向かう。すこし開けた平野の真中を境川が流れて いる。市道長森各務原線で西に向かうと蘇原駅前線との信号交差点に来る。この交差点を 北に折れると加佐美神社に突き当たる。神社脇を北に行くと山に登るのだが、東の山間には 飛鳥田神社がある。反対に西に向かうと石川麻呂の墳墓に行ける。実は、今来た道が 「まぼろしの鵜沼川」なのです。少し詳細な地図で辿ってみるといい。
 南流してきた木曽川は、岩山に当たり西に向きを変える。川は直角には曲がらない。 滑らかに曲り対岸の岩山で向きを変え、愛宕山と各務山の間の谷に吸い込まれる。そう考えられる。二ノ宮神社には古墳がある。その西に一輪山古墳、 衣装塚古墳、坊の塚古墳と並ぶ。衣装塚古墳が300年代後半から400年代初頭、坊の塚古墳が 300年代後半から400年代前半、二ノ宮神社古墳は500年代後半のものと言われる。西暦400年頃、ここに住みついた氏族があった。 古墳のような堤防を作る技術を持った集団であろう。苧ヶ瀬池のある谷間を埋めれば、 今まで大河であった跡は平坦な耕地にできる。その事を見抜ける大王をリ−ダ−に持つ 集団であろう。苧ヶ瀬池の位置に水量調節用の堰をまず作ったのではなかろうか。 わずか2m程ではあるが、その痕跡があるという。衣装塚古墳、坊の塚古墳は積極的に 堤防を作り水を制したモニュメントではないだろうか。  645年の大化の改新で右大臣に上りつめる蘇我倉山田臣石川麻呂を朝廷に送った山田臣は 、この集団の子孫ではないだろうか。
 672年、壬申の乱において舎人の一人、村国男依はこの地より兵を動かし勝利させる。 村国男依を祀る神社が苧ヶ瀬池から北に向かい天狗峠を越えるル−トの途中にある。村国氏も 、同じ血を引くのではないだろうか。現在、苧ヶ瀬池には八龍大王が奉られている。 伊木山の麓に八龍神社があった。水と戦う者たちの守り神である。
 水は最短距離で流れ落ちる。それを最小エネルギ−の原理と呼ぶ。神の意向と言ってもよい 。木曽川の水は西に向かい直進しようとしただろう。ただ、そうさせない何か があった。おそらく石頭山だろう。今は核だけとなっているが、以前は岩山に続いていたと想像してよいだろう。川の水は千年単位の時間でこれを打抜いたのだろう。だがしかし、犬山城の建つ岩山と伊木山が立ちはだかった。犬山城の下には「渡り」が あった。「渡し」ではなく「渡り」である。平常の水なら歩いて渡れる所を意味する。いまでも 岩床が点在する。犬山城の建つ岩山と伊木山は岩で繋がっていた。今は コンクリ−トの取水ダムがある。ダムは岩盤の上に作る。愛知用水工事誌の図面で 確認できるし、ダムの上の道路から眺めてみればいい。岩床の上を ダムから吐き出された水が流れている。遮ったものは岩山だろう。そのため、ここには 大きな水の渦が出来ていたと思われる。それを鵜沼還流と呼ぶ。
 石頭山のところうに架かる犬山橋の古い方は大正14年に完成している。 おそらく犬山城の天守閣から撮った記念写真だろうが、それを見ると犬山城と橋の間に半円状の水田地帯がある。松並木の堤防で締め切るってある。今はコンクリ−トの護岸で、旅館街となっている。鵜沼側にも周囲より2m程低い半径1km程の低地がある。これと犬山側を含めた滝壷を木曽川は持っていたのだろう。この滝壷の水は、北で鵜沼 川、南で郷瀬川へ流れ去っていたと想定される。川底が下がるにつれ、この吐け口が だんだん機能しなくなる。滝壷の水位が上がる、長年の水の力で岩間に水の道ができる。 そうして流れは中央突破の時を迎えた。それが下流の尾張国の国府も移転させたろう神護景雲三年の大洪水なのだろう。鵜沼川の流入口を掘開したのだろうが、自然の力には抗しがたかった。 以後、木曽川の主流は尾張国の国府近くを流れ続けたことになる。。
 木曽川が西に直流しだすと、鵜沼還流の低地は必要なくなる。そこは水田とされたのだろう。 現在鵜沼低地の中央に村国真墨田神社がある。社伝によると、かっては伊木山東にあったものを 遷座したという。900年代の「延喜式」に美濃国の一座と掲載されていることより、この低地は 美濃国村国氏が押さえていたことは確かなようである。一方、現在木曽川の南の江南市に村久野 という地名が残る。木曽川流路変更により村国氏が失った土地もあろう。ただ、「延喜式」に 尾張国丹羽郡の山那神社が掲載されており、故地は現木曽川の川の中と伝える。900年代には流路変更といえども、今日のような一本にまとまった大河ではなかったことは確かだ。

2003.5.10
by Kon