蘇我 父の族名 倉 父の母系族名 山田 石川麻呂の母系族名
大化の改新(645)において蘇我入鹿は誅殺され、入鹿の父蘇我蝦夷は自殺、豪族蘇我氏は滅亡する。しかし皇太子 中大兄皇子(後の天智天皇)、内大臣 中臣鎌足。この新政府において石川麻呂は右大臣であった。 誅殺された蘇我入鹿は石川麻呂のいとこに当たる。いとこは誅殺され蘇我家滅亡、しかし石川麻呂本人は大臣。今の感覚では妙であるが、この頃の母系社会の概念からすれば矛盾はないのだろうか。 それとも石川麻呂の娘が中大兄皇子の妃であったからであろうか。 しかし、朝廷の権力闘争は想像以上に悲劇を伴う。四年ほどして異母弟に”中大兄を謀殺しようといている”と密告され、石川麻呂は誅殺されることになる。娘 美濃津子娘(みのつこのいらつめ)も心痛で果てる。 河内郡太子町(磯長谷)には仏陀寺古墳という 蘇我石川麻呂の墓伝承地が在るという。ここにも墓がある。 加佐美神社の近くに山田廃寺跡がある。 ここ一帯が石川麻呂の母、山田氏の治めた土地なのだろうか。 この時代、地方豪族は男子を舎人、女子を畝女として朝廷に差し出す。 身ごもった娘は引きとって養育する。この母系社会では子供は母方の家で育てられたと言う。とすれば石川麻呂にとってこの地は生れ育った故郷なのでしょう。 父に時の権力者蘇我氏を持てば、蘇我一族として朝廷に出向く。右大臣にまで上り詰めた 石川麻呂は、この地に蘇我倉山田臣石川麻呂の墓として手厚く葬られていることに肯けるような気がする。 政権の表舞台での人物像ともうひとつちがった人物像がある。 加佐美神社の標札がそれを物語る。 |