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江戸から京都への53番目の宿が鵜沼宿でした。 太田宿(美濃加茂市)から二里(約8キロ)、次の加納宿(岐阜市)へは四里十町あった。江戸中期からは、各務原市那加の新加納に「間の宿」(あいのしゅく、休憩所)が出来た。大安寺川の少し東で、宿は東町と西町に分かれていた。 江戸時代は伝馬町(東町)、中町、七間町・片町・林・慶仙寺(西町)と分けて呼んでいたようだ。 |
鵜沼宿は明治24年の濃尾大地震で、壊滅的な打撃を受けた。わずかに残る町屋が面影を伝える。旅籠屋「絹屋武藤平右衛門家」 |
鵜沼宿の宿勢は本陣兼問屋一軒、脇本陣二軒、庄屋三軒、旅籠数は25軒。本陣は桜井家、脇本陣は野口家と坂井家で交代で勤めていた。天保十四年では、旅籠大八軒、中七件、小十軒。人口二四六人、屋敷六八軒であった。 |