岐阜大垣城
岐阜県大垣市郭町


 JR大垣駅を降り立ちメインストリ−トを南に向かうと橋を渡る。 更に行くと、程なくしてメインストリ−トの西側の大垣城への入口に行着く。大垣は「水都」。先ほど越した川は外堀であったことが分かる。大垣はこの外掘に囲まれた町である。
戸田氏十万石の城

天主は昭和11年に国宝に指定されたが、戦災で焼失し。 昭和34年に鉄筋コンクリ−ト造りで再建された。 外観は当時のままにと配慮してある。

開館:AM9:00〜PM5:00
(入城はPM4:30まで)
月曜午後、火曜休館。
大人100円、小人50円。


 西美濃の要衝に位置し、牛屋川(現在の水門川)を外掘りとするこの平城の起源には二説がある。一説は明応9年(1500)2月、竹腰彦五郎尚綱が牛屋郷に築いたものとする。一説には、天文4年(1535)3月宮川吉左衛門尉安定が城郭を構えたとする。
 「竹腰家旧記」に見られる安八郡牛屋村大尻が今の大垣に当たる。牛屋の城と書かれているものを大垣城の起源とする。ここに摂津重直が大垣6万石を領有して在城し、天文13年(1544)織田信秀が攻め落とす。
 一方、「美濃明細記」・「大垣城主歴代記」によれば、室町時代の初期から大垣氏が牛屋東大寺の砦という小さな館を構えていた。天文4年(1535)3月宮川吉左衛門尉安定という土豪がその館近くに安八郡青柳村割田の空城の門や石垣を運んで城郭を構えたとある。それに因み「大尻」を改め「大垣」にしたと伝える。
伝馬町から丸の内に続く外堀。先ほど渡った川である。
ここ、北西の角には八幡神社がある。大祭が大垣祭り。
この地は、正慶・建武時代(1331〜1336)に、美濃国安八郡大井荘と呼び十八郷がらなる奈良東大寺の荘園でした。東大寺の鎮護神は八幡大神。その縁 で八幡神社を勧請したとされる。以後大垣の総社として信仰されてきた。 大祭が五月の大垣祭り
今は水門川と呼ばれる外掘の風景。

南に下れば舟町の燈台に行く。



大垣の町を散策すればわかるのだが、民家の間にはこんな水路が至るところ見受けられる。大きな川や掘はまとめられたが、それでも水捌けには歴史が残る。大垣が水都と呼ばれるのは、ほんとうはこうして刻まれている水路による。
天正とよばれる1500年ころ、揖斐川でさえ幾筋にも分かれた大河であった。洪水の都度 川筋を変えていた。人はそれを知ってここに住んでいた。身を守るために堤防で締め切り輪中とした。沼地を徐々に台地にしていった。狭められた沼地が、最後には この水路となったと見て取れる。それを歴史に学ぶということだと思う。
堤防や護岸が整備された。それでも100年に一度の大雨には勝てない。そのことを 忘れないで欲しい。大垣城の石垣に明治29年の洪水の水位を記録してある。

 芥川龍之介の作品に大垣の町を舞台にした「疑惑」という短編がある。明治24年10月28日の濃尾大地震の様子が書かれている。(「中央公論」1919(大正8)年7月掲載 )


本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町の堤防が崩れた話、
俵町の往来の土が裂けた話――とそれからそれへ話がは
ずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町
とかの備後屋と云う酒屋の女房は、一旦梁の下敷になっ
て、身動きも碌に出来なかったのが、その内に火事が始
って、梁も幸焼け折れたものだから、やっと命だけは拾
ったと、こう云うのでございます。
 水門川を船町の常夜灯まで下ると美濃路の京の口に来る。そこから10曲で北上すると美濃路を辿れば大垣の町を一周したことになる。
途中、9代240年も続く老舗の菓子屋の前も通る。いつかお邪魔したついでに、昔話を聞かせて頂こうかと思っている。この町で続いた旧家には災害を生き延びた知恵が受け継がれているようにおもうのである。
 自然は時に災いをもたらす。だが恵みも与える。自然の恵みを求めて人は集まり、町を築いたはずだ。
 川端に2メートルほどの穴を掘り、そこに竹を刺せば湧水井戸ができたという。渇水期にも水に困ることはなかったといわれる。大垣のおいしい地下水で冷やした水まんじゅうは、独特のつるりとした舌触りが涼しさを誘う。大垣の夏の風物詩とし て人気がある。 散策を終え、駅に戻ったなら大垣名物「金蝶饅頭」の老舗を訪れて みてはいかがだろうか。

観光案内:大垣市ホ-ムペジ
大垣水都20選


2003.5.17 by Kon