美濃路大垣宿は大垣城下の宿場。天保期の「宿村大概帳」によれば旅籠11軒、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場一箇所、助郷村22ケ村とある。903戸、人口5136人と記された大垣は外堀で囲まれた「水都」。この堀に沿って北東の名古屋口から南西の京口に10曲で続いていた。 三塚の一里塚から西に伝馬町通を進むと東本願寺別院。中町との交差点に 名古屋口御門跡の石柱が立つ。南に折れ、次の辻を西に折れ本町通を下る。 脇本陣跡と田中屋せんべい総本家の前を通り、県道を越す。中町の道標で西 に折れ、竹島町の通りを下る。 |
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突き当たりの所が本陣跡だ。 |
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俵町、つちや 大垣周辺は柿の産地。その柿を干柿にし寒天と砂糖で煮つめたものを、竹の容器に流し込み仕上げる。大垣名産柿羊羹。ここがそのお店。 御菓子つちやは宝暦5年(1755年)、ここで創業。以来、9代240余年にわたってお菓子づくり一筋。 |
多分隣も町屋だったろう。火災の延焼を防ぐために白塗りの壁を設けた。 この壁の屋根の風景を「うだつ」と呼ぶ。隣が空き地になり、防火壁の全体がよく分かる。 |
俳友季吟(きぎん)に迎えられ休息のひととき を大垣で過ごす。元禄2年(1689)8月21日 のことであった。 |
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舟町中組常夜灯。
大垣は水都。 揖斐川や杭瀬川の護岸が整備された今、 忘れられがちであるが、 大垣は輪中であった。 そして港町でもあった。 この水門川は揖斐川に合流し桑名に結んでいた。 水門川は開削された運河というが、 元々沼地を堤防て締め切り人が住みついた。 微高地から埋め立てていったろう。 沼は狭められていくが水の道は残す。 そんな沼跡の低地を少しばかり 改築してやれば運河となる。 自然の残した物を巧みに利用する。 それが、神の恵みを受け取る叡智。 名君と呼ばれる多くは、その 神への感謝と叡智を持ち合わせていた。文武を奨励した大垣 城主、戸田氏は名君だったのだろう。 |