松尾芭蕉 (まつお ばしょう)
1644〜1694 (正保元年〜元禄7年)
 伊賀上野の郷士、松尾与左衛門の次男、勘七朗として生れる。 10代で藤堂藩に出仕、藤堂家の嫡子良忠(蝉吟)の影響で 俳諧を学んだと言われる。良忠は寛文六年(1666)死去、子の良長が祖父を継いだ。 藤堂高虎が藩祖の津32万石は伊勢伊賀の雄藩。上野藤堂家はこの藤堂高虎家臣団の筆頭 格であった。良忠の早世。この出来事の顛末で芭蕉は故郷 を離れ京都に赴く。芭蕉23歳。 京都では、良忠の師、北村季吟の門人として修行 したといわれる。一説には禅寺学んだとされる。
 寛文十二年(1672)最初の自選集「貝おほひ」を伊賀上野の菅原神社に奉納。 その原稿を携えて伊賀上野を立った。芭蕉29歳
 当時まだ新興の都市づくりの最中にあった江戸で、神田上水の工事に関係する などで生活の資を得ながら活動を続ける。著名人、北村季吟から俳諧伝書の伝授を受けるなどの苦労も重ねるが、才が認められ俳諧宗匠として立机する。芭蕉35歳
 それまで言葉遊びの滑稽趣味であったか俳諧を、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現する蕉風俳諧を打ち立てていく。 幾ばくかの名を得たのだが突如、延宝8年 (1680)江戸市中を捨て深川に隠棲する。 開幕百年もたたぬ当時、深川は草深い湿地帯にすぎなかった。 その深川の芭蕉庵も、生活が日常化すると更科紀行の旅、のざらし紀行の旅へと彷徨する。
 『奥の細道』は、芭蕉46歳の 元禄2年(1689)3月27日 に江戸深川を出発し、8月21 日に岐阜大垣へ到着するまでの 5ヶ月間約600里の旅の記録 である。5年間 をかけて推敲され、元禄7年(1694)春 に完成したが、その年の10月 12日、病没する。芭蕉51歳
 芭蕉が最初に大垣を訪れたのは、貞享元年(1684)、「野ざらし紀行」の旅の途中、俳友・谷木因(ぼくいん)を訪ねた。以後3回来垣する。谷木因と芭蕉とは、京都の北村季吟(きぎん)の相弟子という関係であった。当時大垣では、谷木因の指導のもと、大垣藩士らを中心に俳諧が盛んで、彼の大垣への訪門は俳壇に新風を吹き込み、「蕉風」俳諧を美濃一円に広めることになった。

『奥の細道』
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅
人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて
老いをむかふるものは、日々旅にして旅を栖と
す。古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの
年よりか、片雲の風にさそはれて漂白の思ひや
まず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に
蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞
の空に白川の関こえんと、そぞろ神の物につき
て心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取
もの手につかず、もゝ引の破をつづり、笠の緒
付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心
にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に
移るに、

   草の戸も住替わる代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。
 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月
は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽に
みえて上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそ
し。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗
て送る。千じゆと云う所にて船をあがれば、前途
三千里のおもひ胸にうさがりて、幻のちまたに
離別の泪をそゝぐ。

   行く春や鳥啼魚の目は泪

 是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々
は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見
送なるべし。
 
  (中略)

   夏草や 兵どもが 夢の跡

 (中略)

路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へ
と伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽
良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如
行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外した
しき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふが
ごとく。且悦び、且いたはる。旅の物うさもい
まだやまざるに長月六日になれば、伊勢の遷宮
おがまんと、又舟にのりて、

   蛤のふたみに別行秋ぞ