鳥居と狛犬


牌楼
 中国上海近郊の旅から帰り、写真を整理しながら、ふと思った。獅子は一杯見たのだが鳥居は一度も 見なかった。日本の神社の「鳥居」と「しめ縄」と「獅子」の三点セットはどこを起源とするのだろうかと。

 これは杭州の西湖のほとりの廟の古い写真。買い求めた絵葉書の一部。水辺に門があり1対の獅子 が鎮座する。1921年の撮影とある。かっては中国にも門と獅子はセットであったのかも しれない。だが、今は認められない。文化大革命などの為になくなってしまったのだろうか。

 確かに、日本の鳥居のル−ツを中国建築の門、「牌楼」に求める説もある。だが、日本の鳥居は「しめ縄」と セットで考えられる。神聖な神域への境界を示す。僕たちはそのような意識を持って鳥居に接する。 ただ一度の、旅人としての経験でしかないのだが中国江南では、神域、深い森や険しい山といった 自然を対象とした神域には接しなかった。

高麗犬
 日本の神社の獅子は狛犬と呼ばれる。中国では、漢の時代に守護神的に廟所の前に 石彫の獅子が置かれるようになったのが始まりと言われる。 日本では、平安から鎌倉時代にかけて木彫の狛犬がみられ、 石造としての古いものは、奈良東大寺で建久二年(1169)、 石材を宋から輸入し、宋の石工に造らせたものといわれる。
 呼び方の「狛犬」からわかるように、朝鮮半島の高麗経由で伝わったとするのが 定説のようだ。今は必ずと言っていいほど神社の拝殿や本殿前に狛犬が 鎮座するが、「鳥居」と「しめ縄」と「獅子」の神社三点セットの「獅子」、「狛犬」は 時代的には新しいものではないかと思う。この尾張の古社を回って見た感じでは、 石の鳥居の銘文を読んでみると明治末から昭和初期が圧倒的に多い。 この国家神道の完成時期に、いわゆる三点セットとして「狛犬」は全国に普及 したように思える。東大寺とか帰化人の神社、高麗神社とかには古くから あったとは思うが。
 明治維新の神仏分離まで、寺と神社は同じ場所にあった。神社は寺院の 鎮守として、その一角にあったことが多い。神仏分離で御神体と仏像は別々の場所 に移った。例えば、僕の町の尾張大国霊神社では大日如来は遠く離れた万徳寺に 移っている。この時「鳥居」も「狛犬」も万徳寺には移らなかった。つまり、日本の 信仰の魔除け的部分は神社であり「狛犬」も正に魔除けの守護獣であったから であろう。拝殿脇の「狛犬」は明治43年7月の建立。神仏分離以後のもの。だが、社宝として 室町時代作といわれる陶製狛犬一対が本殿に鎮座していることは確かである。
鳥居
 「狛犬」のル−ツは分かったように思う。それでは鳥居のル−ツを知りたくなる。鳥居は日本固有のもの とも言われるが。そうなのだろうか。
「神社と神々」井上順孝著、実業之日本社より

 鳥居といってもこんなに種類があるそうだ。このあたりの神社は神明鳥居が大半なのだが、 多様な文化を摂取してきた日本では、こうなのかもしれない。
 左右の柱に水平の梁の上を笠木、その下を貫(ぬき)と呼ぶ。 神明鳥居(しんめいとりい)は左右の柱、笠木、貫も円柱状で反りはなく直線で構成される。伊勢神宮の笠木の断面は五角形になっている。木の皮着きを黒木鳥居と称する。これが鳥居の原形なのだろうか。伐り倒した木材で門を造るとすれば、誰がやっても何処の人種がやるにしてもこのかたちになるという意見もある。
 上の梁が笠木と島木より構成されるのが八幡、明神鳥居など。鳥居が大型になれば力学的に こうなるのかもしれない。時代を降れば、日本の信仰は本地である仏が神に姿を変えて衆生を救うとして 神仏が習合されていく。その中で変形鳥居が生み出されたのかもしれない。
 島木の下に台輪がつくと稲荷鳥居となる。僕の町の尾張大国霊神社はこの形。白木の第三鳥居 は控柱がついた両部型ということになる。
最上の三鳥居
 僕は漠然と木の鳥居が原形で石の鳥居は近年のものと思っていた。江戸時代の浮世絵にも 石の鳥居は見られるので古いのもあるのだろうとは思っていたが。中国をいっしょに旅した 市村さんに鳥居のル−ツ捜しの話をしたら「最上の三鳥居」の写真が送られてきた。

成沢八幡神社石鳥居
山形市蔵王成沢字館山(国指定重要文化財)
以前は、瀧山の登山口に西面して立っていたが現在は八幡神社の参道入口にある。

元木の石鳥居
山形市鳥居ヶ丘(昭和27年11月国指定重要文化財となる。)
古来より元木の石鳥居とよばれ、瀧山を背景に西面して直立する凝灰岩製の鳥居

清池の石鳥居
山形県天童市荒谷(昭和30年8月県指定有形文化財となる)
凝灰岩の円柱は太く上にすぼまっている。 柱の間隔は3m。笠木と島木は1石から彫出し、 貫や束は失われている。
 山形県のほぼ中央には、凝灰岩のベルト地帯が存在し、山寺(やまでら)石が有名である。 蔵王山に由来する瀧山信仰に関わる「最上の三鳥居」は、ともに凝灰岩製であり、細部の様式も同じである。 古文書から平安末期の作と推定される。
 どうして、山形に日本最古と云われる鳥居が、こんなにあるのか。謎ではありますが、地震が少ない地とす る意見もある。材料に恵まれ平安末期の密教に関連して建てられた石鳥居が、ずんぐりした形状と 地震が少ない地の二つの条件によりここに生き残った。そう考えられる。ならば、石鳥居の歴史は 仏教伝来の唐文化の影響で平安末期のころとなる。

「最上の三鳥居」の詳細
八幡信仰
 八幡様と呼ばれる神社は全国に3万社はあるといわれ、本宮は九州宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。 誉田別命(ほんだわけのみこと)を柱に、玉依姫神(比売神)、息長帯姫神(神功皇后、母神)、仲哀天皇 (父神)をもって八幡大神と称する。「南無八幡大菩薩」が、八幡大神の仏称である。
 誉田別命は、率先して外国の文明を取り入れた大和朝廷の文化人指導者であった 。 早くから仏教と習合していたことが八幡神の大きな特徴であり、奈良東大寺建立の折りには八幡神が祀られた。
 「最上の三鳥居」は、すべて八幡鳥居の形である。東北の蔵王山とか月山とかの霊場を舞台として 山岳密教の修験者はこの鳥居を礼拝したのであろう。それでは、その鳥居の先には何があったか。 霊山ではなかろうか。
山形県天童市川原子谷地中の石鳥居
笠木と島木は欠損している。 笠木を上から落としたほぞ穴のみ。 貫はなかったと思われる。 凝灰岩でできており鎌倉時代といわれる。 柱の間から霊山「水晶山」が望まれる。
鳥居の研究
 日本人自身が鳥居をいかに理解していたかを知りたかった。歴史に関するサイトに 問題提起してみた。「鳥居の研究/根岸栄隆/第一書房」という本があると知った。 戦前の文献であるが起源と関係のある部分の概要。

寶亀2年(771)2月13日の太政官府に・・・鳥居一基・・・と諸国の神社に鳥居その他の格式を定めた条例 がある。これが史書における初見だと謂われる。

内外儀式帳(782-805)に不葺の御門とあるは今の鳥居なり。左右の柱は女柱男柱といふ。上の横木は笠木と云、第二の横木を鳥居と云、この横木に諸鳥のけがれをかけまじきために笠木はありと云へり・・・

渋川環樹氏の報告(蘭印踏破行)
「ボルネオの奥地林中で、一見鳥居のようでも門のようでもあった五メートルほどの高さの、四メートルほどの間隔をおいて苔むした2本の柱が立ち、その頂には長々と木彫りの鰐が横たわっていた。 鋭い歯をむき出し、目をぎょろつかせた精巧な木彫。その鰐の下に角材が渡され、鰐と角材のとの間に鈍く光るものがあった。木の間漏れの光が静かにこの異様な雰囲気を包んでいた。 キャッキャッと野猿がないた。眼はようやく乏しい光線に馴れてきた。この仄白いものは古びた髑髏であった」 「髑髏(どくろ)の門はダイヤ人の墓であった。ダイヤ人は一つの部落ごとにこんな墓を一つづつ持っている」
と興味深い南洋風俗を報じている。日本人の遠祖に南方の繋がりを索めようとする人達には、どうやら都合のいい材料になりさうだが、鳥居の起源を何もそんなところまで持ち込む必要はあるまい。

朝鮮でも、咸鏡南道方面にある紅箭門といふのが鳥居に似ている。事実似ているというだけのもので、左右の柱の頂上に鳥の形を彫刻してあり、貫の上に・・・この門は村の入り口に魔よけとして立てるのだそうである。 又昔の新羅今の慶尚北道に・・・第一の貫の上には宝玉の表象らしきもの・・・第二の貫の上には円板の破片らしいものがあり・・・勿論前記紅箭門の一種である。
鳥居のル−ツ
 僕が中国で獅子といっしょに鳥居を見たのなら、鳥居のル−ツも中国と思ったろう。しかし、 見なかった。戦前の文献の「ボルネオの奥地...」がとても興味深かった。ある日、何気なく寄った 本屋で一冊の新書を手にし、文中の写真を見て「これだな!」と思い買い求めた。
「古代朝鮮と倭族」鳥越憲三郎著、中公新書,660円
はじめに(抜粋)
 稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれ、縄文人を征して「倭国」 を形成した。彼らの渡来は紀元前400〜450年とみられている。......................
ところが同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。......................
その倭人の住地を探し求める調査の結果、長江上流域の四川、雲南、貴州にかけて いくつもの王国があったことを知った。秦始皇帝、前漢武帝の征討をうけ、多くが 滅亡していった。
 長江を経て東方に移動した倭族は、約7000年前のホムド遺跡をはじめ、そこから 山東半島に向けて北上し、そこでいくつもの王国を築いたこと、また東南アジアに移動 分布した倭族については他著で詳しく考証した。
 しかし日本列島に渡来した倭族を理解する為には、経路となった朝鮮半島の倭族の足跡 を論証する必要があった。本書はその目的のために書いたのである。
 本書は韓国に伝わる卵生神話を、高句麗、百済、新羅、加羅と比較し、朝鮮南部の 古代国家、辰国(後の馬韓、弁韓、辰韓)が倭族の国家であったことを示している。 詳細は本書をお読み下さい。

中国の戦国時代情勢と倭族の渡来(参考)

 本書の後半で、京畿道を中心として村の入り口に見られる乱石積に杭を打った2本一組の 魔除けを紹介している。この杭には天下大将軍、地下 女将軍と墨書され、威嚇するような人面が彫られている。脇には先端に鳥をつけた 木が立てられている。



 そして「雲南からの道」(講談社)に記載の中国雲南、タイ、ミヤンマ−、ラオスに住むアカ族の 習俗に共通するものであることを示している。
 アカ族では、陸稲の種まきの始まる四月吉日、村の出入り口に門を作る。笠木の上には 木製の鳥を数羽載せ、門には竹の”ヘギ”で作った”しめ縄”が掛けられ、”ヘギ”で編んだ 鬼の目がつけられる。門の前の地面には、木製の弓矢や刀が刺してある。
 作業に加わらない老幼者、女性、妊婦を持つ男達は、門が完成し儀礼が済むと 門を潜り村の中に入る。鳥に乗って降りて来た天神が、弓矢や刀で邪霊を追い払い村人を守るもの と考えられている。

鳥居から消えた鳥
 鳥居のル−ツには鳥がいる。日本でも遺跡から木製鳥形が出土している。 鳥居のル−ツは確かに倭族共通の邪霊除けの門なのだろう。では、この国の風土の 中で、何故鳥は消えていったのだろうか。鳥居という名前だけ残して。
 僕が神社の神域に対して払う敬意、信仰心のようなものから感覚的に想像してみる。 神社から狛犬が消えたとしても、この敬意には変りはない。もし鳥居が消えたとしたら どうだろうか。鳥居とセットで考えられる「しめ縄」が残ればいい。青竹に張り渡された 「しめ縄」だけで僕の神域に対する敬意は満たされる。
 神木に巻かれた「しめ縄」、御神体の岩に巻かれた「しめ縄」、これが神社に対する 敬意の核心であろ。僕がこれに対面するとき、そこには神が宿っていると思う。 祭礼の前に神がこれを依代として降臨するとは聞くが、祭礼が終われば天に帰るとは 聞くが、神木、御神体そのものに対する畏敬の念がある。この畏敬の念が僕の信仰心 の核のように思う。ならば、鳥は消えていても信仰心に変化はない。僕たちは、 霊山を仰ぐ、ご来光を仰ぐ。柱の間から霊山「水晶山」を望む谷地中の石鳥居は 僕の信仰心とマッチする。さらに、巨石に「しめ縄」を張り渡し ご来光を拝む伊勢の二見ケ浦の夫婦岩は、神域に対する敬意の原風景のような 気がする。弥生の渡来人、「倭族」の風習に鳥居のル−ツを求めるとしても、「鳥居」 もまた渡来文化であり、それ以前の自然信仰を中核とする日本の基底 文化に馴染むよう変質していつたように思える。


2001.8.1
by Kon
e-mail nazca-e@geocities.co.jp
尾張国府宮の「はだか祭」
http://www.ne.jp/asahi/naoi/kon/2001/
カルチャーデ
イト