「最上の三鳥居」
山形市には二つの国指定重要文化財の石鳥居がある。
天童市の清池石鳥居を含め「最上の三鳥居」と呼ばれる。
蔵王山の前山にあたる「瀧山(りゅうざん)」。
ここにあった霊山寺(りょうぜんじ)参道の入口(登山道)に
山形市の「元木の鳥居」「成沢の鳥居」は建てられたと伝わる。
成沢の石鳥居
山形市蔵王成沢字館山
国指定重要文化財
以前は、瀧山の登山口に西面して立っていたが
現在は成沢八幡神社の参道入口にある。
凝灰岩の円柱は径99.5cm、礎石は径1.58m
鳥居の高さは4.36mある。
柱の間隔は2.55m
笠木と島木は一石より成り、上端は何れも直線。
島木の下方は両端が舟肘木の如く、やや曲線を見せている。
貫と束は後補とみられる。
この地区に残る古文書にとれば、
石材は瀧山の空清水(うつぼしみず)から天仁2年(1109)採石となる
元木の石鳥居
国指定重要文化財(昭和27年11月)
山形市鳥居ヶ丘
国道旧13号線の鳥居ヶ丘に、瀧山を背景に西面して直立する
古来より、元木の石鳥居と呼ばれてきた。
総高3.51mの凝灰岩製の鳥居。
左柱の径が97.1cm、右柱の径が92.3cm、
柱は丸い礎石の上に立っている。両柱の間隔は2.8m。
笠木と島木は1石から彫出し、左の下端は巧みにつなぎ合わせている。
貫は柱を貫通せず両側から穴をほって挿し込んでいる。
瀧山信仰の繁昌期に造立されたと伝えられている。
清池の石鳥居
山形県天童市荒谷
県指定有形文化財(昭和30年8月)
凝灰岩の円柱は太く上にすぼまっている。
柱の間隔は3m
笠木と島木は1石から彫出し
貫や束は失われている。
「最上の三鳥居」はともに凝灰岩製であり、細部の様式も同じである。
古文書より平安末期の作とされるが、
その古風素朴さから藤原時代にのぼるものとも考えられる。
どうして、山形に日本最古に属する鳥居が、こんなにあるのか。
謎ではありますが、地震が少ない地とする意見もある。
確かに、太い柱と低い高さはその可能性を十分に予想させる。
蔵王山に由来する瀧山信仰に関わる建立が
修験僧の活躍した日本の密教と関連が深いことを考えると
この鳥居は律令制を唐から取り入れた時代の影響を推定できる。
日本の各地に残る山岳信仰の霊場には
この様な石鳥居が多くあったのかもしれない。
たまたま、地震に強い形で地震の少ない地に当時のままの姿を止めた。
その可能性は大きいように思われる。
それならば、日本の鳥居の流れにおいて、
石の鳥居は、中国仏教の伝来の影響により、この時期から始まる。
ただし、鳥居の形そのものがここに始まるのでないことは
蔵王山のような山岳信仰に関連していることからも推定できよう。
山形と言えば「山寺」である。
「静けさや、岩に染み入るセミの声」と芭蕉も訪れた。
山寺の天台宗立石寺は、貞観2年(860)12月、
比叡山延暦寺の座主、円仁(慈覚大師)の創建と伝えられている。
山門の入口から奥の院までの参道には、
鳥居忠政供養の宝篋印塔、磨崖碑をはじめ、
芭蕉のせみ塚、仁王門・開山堂・五大堂・最上義光の霊屋
納経堂(県文)・小三重塔(国重文)、大師の入定窟と続く。
山腹に奇岩・奇跡に富み、天下の名勝地として名高い。
山形県のほぼ中央には、凝灰岩のベルト地帯が存在し、
高畠(たかはた)石、山寺(やまでら)石が有名である。
幕藩体制の元では架けることが認められなかった壊れない橋、石橋。
明治に入り、時の県令三島通庸が故郷鹿児島の石工により
山形に15橋程の石橋を架けさせる。
石材は、山寺石を3万箇も使用したと言われ、
職権で強引に採石させたため、山寺の石切りと
県令の間で「ケンカ」になったとか。
東北の地、山形の「最上の三鳥居」には
このような歴史と風土がある。
古(いにしえ)の姿を今に伝える三つの石鳥居が
「山寺」を向き西面して立つ姿から
私達はどんな物語に思いを馳せればいいのだろうか。
山寺も瀧山も天台密教として栄えたところである。>
仏や菩薩が表れる(垂迹)場合、本来の姿(本地)を奥に秘めて
神という仮の姿を示すという。この密教教典は、以後
神仏合体の日本の信仰の本流を形成していったことになる。
15年前、仙台、上山、山形、蔵王、米沢と巡った
晩秋の東北家族旅行を懐かしく思い起こさせるのである。
by Kon
写真取材
市村 幸夫(山形市在住)
e-mail ichimura@ma.catvy.ne.jp