わすれられた時を求めて
蟹江町歴史民族資料館には田船や田下駄の展示とともに
農業の記憶が綴られている。
すっかりベットタウンになったこの町で、
その歴史を訪れる人に語り掛ける。
この町の本町入舟地区には明治期300戸程の漁師がいた
100戸程は専業漁師だったといわれる。
大正期の国家事業としての鍋田干拓で漁場は狭まり、
伊勢湾台風後の名古屋港防潮堤により昭和37年、
この町の漁業の幕は閉じました。
この100年程のあいだの社会の発展のなかで、
時代の流れなでしょうか。
この国の100年は確かに駆け足だったかもしれない。
そして、忘れ去られようとする時があり、
忘れ去られた時がある。
祭礼の日、境内の石灯篭は丸太で固定される。
その化粧のため絵が施されてる。これはその一枚。
三河国猿投神社に伝わる尾張国古図。
蟹江町歴史民族資料館にも複製が展示されています。
今から数万年前、
この地は養老山脈を大きな断崖とする深い深い谷でした。
今から5000年程前、
温暖化した地球では氷河が溶け、海面が徐々に上昇し
岐阜の金華山まで入り江となったかもしれません。
縄文海進と呼びます。
その後、海面の低下と共に海岸線も後退しました。
海が引くと州が現れました。
川が作ったこん盛りした自然堤防に人は住みました。
州は少し工夫すれば耕地にできました。
今から2000年ほど前の事、
神話の時代の”国産み”はこのことを伝えると言えます。
この猿投神社に伝わる尾張国古図は
この流れの、どの時代を描いたか。それは
定かではありませんが、とても貴重な資料です。
この地、
須成
はまさに
州
であったと告げています。
提灯を準備中の氏子さんに”多度山の石”について訊ねてみました。
「必ず多度山に向かい礼拝するし、御札をもらって祀ってある。
なんか関係が深いみたいなんだけど、石は拾ってこんよ。」
神社の西の蟹江川を真っ直ぐ北上すると
海部郡美和町金岩に出る。
ここの砂を取りに出掛け、持参した砂を神社の境内に敷く。
これから100日に及ぶ須成祭りが始まる。
蟹江川を少し上ると川筋が分かれるのだが,
この派川を上ると
伊福神社
に着く。
須成の八剣社と伊福神社とは2kmと離れていない。
さらに2kmほど上ると
藤島神社
に着く。
藤島神社は延喜式神名帳に記載の古い神社である。
この地に、尾張の古代豪族「尾張氏」と共に
「伊福部」が渡来した。
その縁故の地が海部郡七宝町伊福であり、伊福神社。
この平野の北、木曽川に近い葉栗郡木曽川町門間に
伊富利部(いぶりべ)神社
がある。近くには古代鉄
の生産を物語る遺物が確認されている。
「伊福部」は製鉄の技術をもつ鍛冶族である。
この地で仰ぎ見る山といえば「伊吹山」
この南麓に美濃国一宮、南宮神社がある。
神社の祭礼,11月の金山大祭りは「鞴(ふいご)祭」である。
近くの金生山は古代鉄の原料「丹(に)」の産地であった。
「伊福」は「伊吹」に通じる。
養老山脈の南端に「多度山」がある。
写真中央が養老山脈の南端「多度山」
その後ろに鈴鹿山脈が見える。
「多度山」は全山チャ−トで形成され、鉄を産したと推定される。
延喜式神名帳に記載の古い神社、多度神社の祭神は大津彦根命
摂社には天目一箇命を祀る。鍛冶神である。
”多度山の石”
”美和町金岩の砂”
”亀ケ池(十四山村)の葭”
これらは古代の鉄”たたら”の原料を求めた故事を今に伝える神事。
葭(よし)の根元にはバクテリアにより形成された高師小僧があった。
往時、金より高価な鉄。
今では見向きもされない原料が、その当時は豊富にあったと思われる。
須成天王祭を構成する「御葭(みよし)の神事」は
古代鍛冶族、「伊福部」に因む2000年の歴史を伝える。
「蟹江」は「金江」であろう。僕はそう思う。
2000.8.7
by Kon