岐阜県八百津町

 学生時代のずいぶん前の話だが、八百津のお寺で夏の合宿をした。

 電車に揺られて到着し、山のお寺に入った。食料の買出しで、赤い橋を渡り八百津の町に来たことがあった。 タバコ屋で「ゴールデンバット」を見付けて買った。「ハイライト」の時代で「ゴールデンバット」はめずらしかつた。あの寺が、どこだったかは思い出せない。
 県道八百津白川線で山越えし木曽川に出ると錦織に出る。名鉄八百津線の終点駅があったのだが、 廃線で消えていた。

 錦織は木曽川最上流の川湊(みなと)。綱場があって、木曾川の両岸から太綱を張渡し、上流から流されてきた木材を止め、「いかだ」に組んで下っていった。明治の頃の話。
 八百津町の旧名は黒瀬湊。近隣の村々から商人が炭、まきを買い集め、舟で名古屋、津島、桑名へ売りに出た。帰りには塩を買って帰ってきた。
 この湊と苗木藩(中津川市)を結ぶ黒瀬街道(国道481号)は,苗木藩の江戸への回米を黒瀬湊に運び,船で桑名経由で江戸まで運ぶ道だった。
 黒瀬湊という地名はもう無いのだが、八百津町港町という地名で残っている。バスケットハンドル形式の白いアーチ橋のあるところが、湊だった。

 黒瀬湊の繁栄の面影は、八百津・大船神社の四月の例祭「だんじり祭り」にうかがえる。だんじり(山車)3台が合体すると、1隻の大船になるという。毎年、四月第二土日の行事。一度、拝見したいと思っている。


 八百津の町のいたるところに栗林があり、古くからの製法で作られる「栗きんとん」が名物。夏だったので生憎品切れ。実りの秋まで待たねばならない。「栗きんとん」を求めて街道を歩くと、「うだつ」が有るのに気付いた。


 街道を北へ行くと醤油屋さんがあるというので行ってみた。



 町の東に、明治44年に建設された旧八百津発電所の建物がある。木曽川水系初の本格的発電所として名古屋電灯株式会社が建設した。丸山ダムの完成で昭和49年に運転を休止し、昭和53年に建物と発電所施設が地元八百津町に譲渡された。資料館となって公開されている。

 昭和19年,軍事用電力確保のため日本発送電機株式会社(関西電力の前身)が丸山発電所の建設に着手したが、戦局悪化に伴い昭和20年5月に中止となった。
 昭和26年に関西電力によって洪水調整も兼ねた多目的ダムとして工事が再開され、昭和29年4月出力125,000kWの丸山発電所が竣工した。
建設中の丸山ダム 土木図書館所蔵

 大正13年(1924)に上流の恵那で木曽川を塞き止め、日本初のダム式発電所・大井ダムが建設された。黒々とした岩肌を洗う木曽川が材木を流し、筏師が活躍した時代が終わる。八百津の町の近くに丸山ダムが建設され黒瀬湊は忘れられ、八百津町の最も輝いた時代が終わった。

 明治33年(1900)杉原千畝は、ここ八百津で生まれ7歳まですごした。町並みと平行して流れる荒川の上流に、日本の棚田百選に数えられる北山地区の上代田(かみだいだ)棚田がある。標高四百メートルの山肌に、120枚ほどの棚田が広がり、それを縫うように行って来いのゆるい坂道がつづく。 北山地区には千畝の生家があり、父杉原好水は棚田の風景から千畝と名付けたのだろう。好水は生まれ故郷で収税吏の職についていた。明治38年(1905)に日露戦争が終り、筏は馬車に変わって行くが、この地方の中心地・八百津町の最も輝いた時代、その近くの豊かな自然の中で少年千畝は七歳までをすごしたことになる。


2004.8.12 by Kon