尾張北部の氏族..丹羽氏



前漢書地理志に
夫楽浪海中有倭人、分為百余国
とある。

 紀元前後、日本は多くの王族の時代であった。この時期に前漢と 交流があったのは北九州の地であり、倭とは北九州の地であろう。前漢 の皇帝も尾張のことは知らない。
 東海の尾張が北九州の地と似た状態であろうことは想像を許される。 畿内の大和朝廷の成立をいつと捉えるかは議論はあろうが、弥生墓制から 王権モニュメントとしての古墳の出現をその時期とすれば,3世紀末であ ろうか。古事記の所知初国之御真木天皇(崇神)の伝承に対応する時期であろう。 崇神は北陸に大彦命、東海(東方十二国)にその子武淳川別を征伐に派遣と古事記は伝える。いはゆる、四道将軍説話の4世紀の頃である。
 これに続く大和朝廷の全国制覇を示すものとして倭建命(やまとたけるのみこと)説話がある。東国征討に向かう倭建命が>伊勢国に立ち寄り、叔母の倭比売命より草那芸剣をもらい尾張国の尾張国造の娘、美夜受比売と結婚の契りをする。そして、東国に赴く。5世紀以降、東国地方に古墳の伝播が認められる時期か。
 478年、倭王武(雄略)の宗の順帝に対する上表文
この統一をどう捉えるかであるが、従属された在地豪族側の視点からすれば対外的に、この国の宗主権を畿内勢力に認め、その証として三角縁神獣鏡に代表される賜与を受領する。そのような緩やかな関係であったではなかろうか。
たたし、畿内勢力に隣接するこの尾張では、その関係はもう少し具体的であらねばならぬ。その状態は、倭比売命と美夜受比売で語られる説話が暗示的である。
 この尾張平野の祭や神社歴史をたどる時、この時期に絡んで<なんとなく霧に包まれたようで明晰でない点が二つある。
一つは大荒田を祖とする爾波縣君と丹羽氏の関係
二つは丹羽氏と尾張氏の関係
 いろいろ調べたんですが一宮市史(昭和52年)古代.中世編第一章第一節 大和朝廷の発展と尾張地方(執筆 新井喜久夫)この記述で霧が晴れたような気がしました。
私なりの整理をしてみました。
大和政権は地方豪族を一部づつその政権下に組み入れ県(あがた)とし首長を 県主(あがたぬし)と認めた。尾張地方で最初に爾波縣(犬山市、小牧市付近) が認められる。他に文献上、年魚市県(あゆちがた)、島田上県、島田下県
その後、大和政権は直轄地を地方に領有するようになり屯田(みやた).屯倉(みやけ)と呼ばれる土地と人を直接支配することになる。この領有地の長官が稲置(いなぎ)である。そして、一地域に県主と稲置の二つの支配権力ができ時代の流れとして、実質な権力は朝廷直属の稲置に移行してゆく。
この時代背景を念頭に置き、尾張国丹羽郡の地の状況を追ってみると下記となる。
丹羽と称される尾張北部には、本宮山を信仰対象とした在地集団がいた。大和政権はこの氏族と政治関係を結ぶ。この氏族の支配勢力範囲を県とし首長を爾波縣主とした。犬山市の白山平にはこの首長が三角縁神獣鏡と共に眠る。安閑2年(535)、爾波県内に入鹿屯倉が置かれ。爾波縣主と丹羽稲置が並立し爾波縣主は縣神社を象徴とした祭祀権、丹羽稲置は朝廷に対する税等の実質支配権を分掌する時代を経る。
古代、人心の掌握は上位であった祭祀権から政務権に移るのであるが、 この原理によりこの地方の氏族の支配権は縣主から稲置に移る。
時代が下り

「続日本紀」承和8年(841)4月

縣主前利連氏益賜姓縣連。神倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命乃後也

つまり
丹羽郡前刀(さきと)郷の住人で、この時の県主の前利連(さきとのむらじ)氏益が県連(あがたのむらじ)の姓を認められる。先祖は神八井耳命の後裔であると認められる。
神八井耳命は神倭磐余彦天皇(神武)の第三皇子である。白山平に三角縁神獣鏡と共に眠る御霊を首長としたこの氏族は500年歳月命脈を保ち、ここに朝廷の擬似的血縁系図に繋がったことになる。
この歳月を物語るように、丹羽郡には式内社 前利神社がある。
さて、式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏であり式内社 前利神社もその系列と考えられるが、もうひとつ式内社 田県神社の系譜はどうなのだろう。
田県神社祭神 玉姫命玉姫命爾波縣君祖大荒田の娘とある。
爾波縣君は県主なのか県稲置なのだろうか。一宮市史執筆者は爾波縣君は在地豪族の丹羽氏ではなく爾波縣で稲置を努めている氏であるとする。

こう考えると、霧が晴れるようなきがする。

この県稲置には、その上級官庁的尾張国造(くにのみやつこ)が影響する。

この当時、尾張国の国造は尾張氏である。

すこし、尾張氏の足跡を追って見よう。

2000.5.27
by Kon