中嶋宮(なかしまぐう)
一宮市萩原町中島


 大和国の小国が大和朝廷としてこの国を統一していく物語は、 武力制圧として倭武(ヤマトタケル)や四道将軍の派遣があり、政治的融和として倭姫(ヤマトヒメ)の巡国安撫があると見る事ができる。 神護景雲2年(768)選集の「倭姫命世記」は次のように伝えます。 皇女倭姫命は皇祖天照大神を奉じて十余か所の諸国巡廻を行う。 垂仁天皇10年に美濃国伊久良河宮(岐阜県本巣郡川崎村大字居倉)に4年滞在、 その後、尾張国中嶋宮に遷座、3カ月逗留。 のち伊勢国桑名野代宮(三重県桑名郡野代村)を経て五十鈴川のほとりに遷座。 これより、皇大神宮としての伊勢神宮となる。
ヤマトタケルは伝説上の人物。壬申の乱により政権を樹立した 大海人皇子(天武天皇)が、それまでの故事を編纂して皇神の叙事詩を書上げた。 「古事記」をそう解釈することができる。 史実ではないが、それなりの歴史的事実が元になっているのは確かだろう。 ヤマトヒメも伝説上の人物。だが、「倭姫命世記」にも、 それなりの歴史的事象があるはずだ。

それでは、尾張国中嶋宮はどこであったか。

 当地、愛知県一宮市萩原町字丸宮には天照大神を祭神とする丸宮神明社があった。 倭姫が伊勢国に出立のとき大きな白張り提灯をつけて送ったとの口伝がある。 この故事により 竹棹に12、3個の白張り提灯を結び、4地区から1本ずつ奉納し 夏から秋、月6回献灯する行事を古来から受け継いできた。

中嶋宮

長隆寺

 昭和24年10月、名古屋大学考古学教室が 二子字三昧(現在の一宮西高校敷地)を発掘。 弥生式土器と鉄鏃と管玉を出土。 二子遺跡と呼ぶことになる。 土器は流砂のためか、横倒しで発見された。 その後、萩原中学の敷地から住居跡の竪穴を発掘。 中島小学の敷地からべにがらを塗った土器を発掘。
 この地の東1kmの地点に戸塚という地名があり、「剱研石」がある。 西南の戸刈の神社には「駒止めの石」がある。 二子という地名は、かって二子山があった場合が多い。 前方後円墳は二子山と呼ばれた。 今は土を流失したが、これら石群は石室の一部と推定される。
 弥生時代の集落、往古の小国を思わせる古墳の存在。 この地は、遠い昔の歴史を想起させる。

 昭和29年秋、国府宮神社に田島仲康氏が宮司として着任。 長隆寺の阿弥陀堂の本尊を拝見され、その由緒の深さを直感された。 その後、八剱社の宝物を拝見、その感を更に強められた。 八剱社には、大正7年丸宮神明社はじめ5社が合祀されていた。 氏を驚嘆させたのは、丸宮神明社のものと思われる 御神体、陶製こま犬、五大尊御絵像である。 氏は「尾張地名考」の著者津田正生の嫡子の愛弟子を祖父とする。

 八剱社は中嶋城主、中嶋蔵人が城郭の鎮守として勧請したもので 明治まで長隆寺の境内社であった。大正7年の6社合祀は 八剱社が敷地として最も広かったからである。 田島仲康宮司はこの合祀で丸宮神明社の故事が消滅するとし、 八剱社の中嶋宮への改名に尽力することになる。

中嶋郡には中嶋宮の故地とされる所が数箇所あつた。

有力な3説は

一宮市佐千原の式内社坂手神社脇の「七坪の塚」

一宮市今伊勢町神戸字宮山の式内社酒見神社

西春日井郡清洲町大字市場字御園の御園神明社

一宮市佐千原の「七坪の塚」は、今は須恵器の破片の散乱地ですが、この地はかって伊勢神宮の御厨があったと「神鳳抄」は記す。 この塚は「御厨塚」とも呼ばれ、6世紀頃の古墳群の一つと見られる。この御厨と中嶋宮が結びついた伝承と推定される。

一宮市今伊勢町神戸にも伊勢神宮の御厨があり、毎年神酒を献納していた歴史があります。ただし神社が社領を有し盛大なのは大和朝廷草創期より後の時代。

織田信長が当地の丸宮神明社の分霊を清洲城の鎮守としたことが中島村には口伝としてありました。確かに伊勢神宮の神領「御園」が清洲にはあり、この両者が重なり中嶋宮の伝承となったと思われる。


丸宮神明社旧地の西南300m、光堂川沿いに斎宮司の地名がある。 斎宮司の西、光堂川をへだてたところに伊勢田の地名が認められる。 昭和39年3月、一宮市史編纂室により中島字犬亥東切で 中島廃寺跡といわれる位置の発掘調査が実施され、 瓦石敷部と基壇部が確認された。 単弁蓮華文軒丸瓦の出土により時代は奈良時代後半までさかのぼる。 昭和40年3月、第二次調査実施。

萩原中学の東の大通りを南下すると光堂川と交差する。東西の道路を東に入り、写真の家の道路挟んで南に中島廃寺跡がある。

光堂川

中島廃寺跡

更に進むと中嶋城跡、中嶋宮と続く。

中嶋蔵人の中嶋城跡

昭和39年、氏子と田島氏の尽力により八剱社は中嶋宮と正式改名。 なを、長隆寺の阿弥陀堂の本尊は平成2年解体修理された。 平成3年修理の両脇侍からは元享3年(1323)の制作銘が発見された。

(以上、魚住東洋「古代の中島と中嶋宮」により記述しました。)

2000.6.18
by Kon