美濃路起宿
愛知県尾西市起


北上する美濃路は木曽川を舟で渡り美濃国に入る。
この渡し場の宿が起宿である。

本陣、脇本陣、家数887軒、旅篭22軒と名古屋、大垣に次ぐ規模である。
対岸の墨俣へ渡る川待ちの宿として賑わったであろう。


宿場にさしかかる手前、富田に一里塚がある。

街道の両脇に榎が残り、往時の姿を今でも偲ばれる。(国史跡)



尾張藩家老が開いた駒塚街道への分岐の道標。


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斜めに走る細い道路は旧道の面影を残す。



本陣、問屋場跡の石柱を過ぎると脇本陣がある。

建物は濃尾地震の後の再建である。
脇本陣の敷地には現在、歴史民俗資料館がある。


袖ウダツのある旧家



街道は堤防脇の町並みに坂で進む。ここから「堤町」である。

坂の手前を、現在の堤防道路下をくぐり抜けると河原に出る。

ここは以前、市民の水浴場であった。通路のコンクリ−トの壁に、
「..ふたつ、深みに行かないよ。かっぱ太郎がまっている。..」と注意書が残る。

木曽川は,以前は多くの支流に分かれていた。ここは起川と呼んだ。
この場所に、かって舟橋が架けられた。
船橋とは、将軍家や朝鮮通信使が木曽川を渡る時、小舟を連ね橋としたもの。


近隣から大船小船合わせて277艘集めたと記録に残る。

普段は船頭が舟で渡す。定渡舟(じょうとせん)2そう。
大名には2そうの舟に屋形を載せた御召舟(おめしぶね)が仕立てられる。
起宿舟庄屋のもと20名の船頭がいたという。




起湊の大いちょうがある大明神社。宮河戸の渡し場だった。


宿場の北のこの辻を下ると金毘羅神社がある。定渡舟場跡である。

高さ10mの常夜灯。

明治33年と昭和28年に修復の記銘があるが天保(1830年頃)に作られたという。




舟運は、いまでは忘れ去られたが、
かって、ここを舟が行き来したことを町並みと川面を眺め
偲んでみることができる。


享保14年(1729)象1頭がここを渡り江戸へ向かったという。
この町が輝いていたのは、そんなに大昔ではないように思える。


2001.4.1
by Kon