桃花祭


愛知県一宮市、真清田神社の例大祭


 尾張国一の宮、真清田神社の例大祭は桃花祭と呼ばれ、 明治23年までは旧暦3月3日の節分行事であった。 現在は4月3日の本祭をふくめ3日間行われる。
 往古、神社近くを木曽川が流下し,節分の桃の花を川に流した 厄除け神事に起源を辿ることができる。
境内の東に八竜社があり、川の沸き水があったと想像される。 空襲で社殿は消失したが見事に再建されている。この当たりを すこし掘り下げるとこぶし程の石がびっしりと出る。 また、どんな水害の時もこの境内地は水に浸からないという。 当地には早くから人が住み着いた歴史を忍ぶことができる。

 江戸末期の「尾張名所図会」に桃花祭が描かれている。
車楽(だんじり)を境内の東西に配し、この地方で盛んだった馬之塔(飾り馬)が80にも及ぶ町内会から集まる。 殿町は奴、露払い、供侍、若殿と行列を繰り出し、 この殿町の「押え馬」が、真清田神社の拝殿に到着すると太鼓が鳴り響き、祭りが終わったという。 この本式は近年行われていない。
 60年ぶりの「西の祭車」
戦災で消失した境内で、楼門横の手水舎、西の山車倉は残った。そこに60年眠っていた祭車が 本年お披露目された。この祭車は80年前作られたものであるが、釘を1本も 使わない室町時代の原形を今に伝えるという。
消失した東の祭車は1988年に再建され桃花祭をいろどってきたが、今年は西も加わり, 往時の本式の祭礼に一歩近付くことになった。

西の山車倉(だしぐら)

「西の祭車」

「東の祭車」

4月1日(日)短冊祭
 平安時代中期、国司として大江匡衡が赴任する。正暦3年(992年)、長保3年(1001年) 、寛弘6年(1009年)の3度にわたる。長保3年、大江匡衡の妻、栄花物語の作者である赤染衛門が 尾張国に赴く。当時、遥任といって任地に赴かない国司もいた。この地、尾張国では菅原氏と中央学界を 二分する学者、大江匡衡とその妻が残した業績を長く語り継いでいる。
 楼門前の右手に赤染衛門の歌碑がある。短冊祭とは、このような歴史背景をもつ古式歌会である。 拝殿で10首程の選歌が披露される。
桃花と短冊



真清田神社
愛知県一宮市真清田町
tel0586- 73-5196
4月3日(火)本楽


流鏑馬(やぶさめ)
神輿渡御(みこしとぎょ)
献馬
2001.4.3..by Kon