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尾張平野は木曾川によって作られた。この図は川の残した自然堤防の跡
をよく示している。湿地帯の少し高い所に人が住み、
沼地に稲を育て、すこしづつ開拓していったのだろう。洪水がくれば
一からやり直しだが、神には逆らえない。自然の残した恵みをうまく利用したに違いない。そんな繰り返しが数千年続いたのだろう。 江戸時代、木曾から運び出す材木のために川はまとめられ堤防を高くした。 多くの川筋は水が減り、耕地を広げるには絶好な場所が提供されたはずだ。 そんな歴史が繰り返されたのだが、川筋は簡単には変えられない。自然堤防として 幾重にもこの大地に記録されている。拡大して、じっくりと眺めてみるといい。 |
天正14年(1588)6月24日、木曽川は大洪水を起こす。笠松村の西で南に流れを変え
た。葉栗62ケ村、中嶋31ケ村、海西24ケ村、計107ケ村が美濃国に編入された。
天正12年の小牧長久手の戦いで講和した織田の領地を、秀吉は洪水を利用してで削ったことになる。 その後、慶長13年(1608)尾張側の御囲堤が完成、慶安3年(1650)美濃側に篭堤 が完成。木曽川の流路は、ほぼ今の様相になった。 それでは、天正14年(1588)以前の川筋はどうだったのか。木曽八流と呼ばれた ように、多くの派川から成っていたといわれる。大地に刻まれた自然堤防を、例えば上のように結んでみた。犬山の下流で一の枝、二の枝、三の枝と分かれていたといわれる。 昔の川のことを考えてみる場合、今のような一本の大河を想定すると、ふにおちないことがよくある。網の目のような水路の場合、洪水の都度大水となる川筋は違っていたと考えるべきなのだろう。それでも、主流といわれる筋はあろう。天正14年のそれは、 尾張と美濃を分ける北の境川であつたといわれる。 |