続日本紀 神護景雲元年(767)正月二十八日 「尾張国飢(ウ)エス。之ヲ賑給(シンゴウ)ス」 神護景雲元年(767)十二月二十四日 「美濃国、此ノ年亢(コウ)干シテ、五穀実ラズ。百姓ノ負ウ所ノ租税ヲ除ク」 神護景雲三年(769)八月九日 「尾張国、海部.中嶋ノ二郡ニ大水アリ。最モ貧シキ者ニ穀人ゴトニ一斗ヲ賜ウ」 神護景雲三年(769)九月八日 「尾張国言ス。此ノ国ト美濃国トノ堺ニ、鵜沼川アリ。今年大水アツテ其ノ流レ 道ヲ改メ、毎日葉栗.中嶋.海部三郡ノ百姓ノ田宅ヲ侵シ損セリ。又国府ナラ ビニ国分ノ二寺、トモニ下流ニ有リ。若シ年歳ヲ経バ、必ズ漂損ヲ致サン。望 ミ請ウラクハ、解工使ヲ遣ワシメ、開掘シテ其ノ旧道ニ復セシメン。」 「(太政官処分スラク)之ヲ許ス」 宝亀元年(770)六月十四日 「美濃国ニ霖雨フル。損ヲ被ル之民ニ賑給ス」 宝亀三年(772)九月ニ十一日 「尾張国飢(ウ)エス。之ヲ賑給(シンゴウ)ス」 宝亀六年(775)八月ニ十ニ日 「伊勢.尾張.美濃三国言ス。「九月有リ」異常ニ風雨アリ。百姓三百余人、 馬牛千余ヲ漂没シ、及び国分ナラビニ諸寺ノ塔十九ヲ壊ス。其ノ官私ノ櫨舎 勝(アゲテ)テ数ヲ可(ベ)カラズ。使ヲ遣ワシメ伊勢ノ斎宮ヲ修理セシム。 又頭ヲ分チ諸国ノ害ヲ被ル百姓ヲ案検セキム。是ノ日疫神ヲ五畿内於祭ラシム」 宝亀六年(775)九月三十日 「大祓(オオハライ)ス。伊勢美濃等ノ国、風雨ノ災イアルヲ以ツテ也」 |
尾張国の国府は、愛知県稲沢市国府宮にあった。尾張国の総社として国府宮神社があり、
ここの儺追神事は毎年正月13日に行われる
伝統行事である。その始りは神護景雲元年の吉祥天悔過の法会の勅命に由来すると伝えられる。
では、その時何か具体的な出来事があったのだろうか。それを知りたかった。「続日本紀」は
「日本書紀」を受けて文武から恒武までの朝廷記録文書。 国府宮神社の参道に二十五丁橋がある。ここはかっての三宅川の跡。いまでは用水路のような 稲葉川が下を流れている。実は、ここが一時期木曽川の本流であった。ちょうど儺追神事の 始まった年は前年凶作に見舞われ困窮している。想像するに、年々三宅川の水量が増え水害の危険が迫ってきた。儺追神事はそれを祓う 意味があったのだろうか。3年後、予感は現実となった。以後水害は繰り返されたのだろう。一時国府は東の青木川と五条川の合流点近くに移ったという説が有力である。 三宅川の洪水。その原因は何だったのか。上流では何が起こっていたのだろう。鵜沼川とは。 |