犬山 彩雲橋


木曽川と白帝城

愛知県の犬山市。木曽川のほとりに犬山城がある。別名「白帝城」


 李白「早發白帝城」

朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不盡
軽舟巳過萬重山

 水面に映る月を捕まえようとして水に落ち、逝ってしまった李白(701 - 762年)。それが本当なら、きっと酔っていたのだろう。連座の流刑の地からの帰還にあたり詠む。

朝に白帝を辞す 彩雲の間(あいだ)
千里の江陵 一日に還る
両岸の猿声 啼いて住(や)まらず
軽舟已(すで)に過ぐ 万重の山

 長江三峡(四川省と湖北省にまたがる大峡谷)の入り口にある白帝城。蜀の劉備玄徳が、死に際して諸葛孔明に後を託した場所として「三国志」にも登場する。白帝城とは城壁で囲まれた城市。長江三峡には重慶からクルーズ船が運行されている。


 大正13年(1924)、犬山橋が完成している。その8枚組の記念絵葉書の内の一枚が上の写真。白帆の川船が往来し、 城の下流に川湊があった。現在旅館「迎帆楼」があるところ。白帆の川船が消え、濃尾用水の堰が出来て、李白の詩の風情はなくなった。なぜ白帝城かと聞かれても、返答に窮する。
 すこしスケールは小さいのだが、今渡からの急流下りは結構な趣向。それも無くなるという。それなら、今風にカヌーかベンチャーゴムボートはいかがだろうか。桃太郎神社からの遊覧船も川風に吹かれていいものだ。

 犬山橋から堤防に沿い、城の下の岩をくり貫き川湊まで道路をつけた。

 一番上の写真、左手に名鉄グランドホテルのチョコレート色の建物が見える。その前の護岸を城の真下まで来ると、途中に郷瀬川の出口が認められる。

 ここに架かる橋の名は「彩雲橋」。李白の詩からとった。親柱を見ると昭和4年3月とある。



彩雲橋

昭和4年(1929)に竣工、彩雲橋。

長さ10mほどの橋だが、スパンドレルブレースドアーチだ。材料としてレールを使っている。

 古レールの橋はあるのだが、レールなら古レールとは限らない。ガセットにはリベットを使っているようだが、レールならリベットを使って部材を組み立てる必要がない。応力計算をしてレールの断面で条件を満たすなら利用できる。この長さの橋では十分考えられる。


 岩盤に腹付けされた橋台。しっかりしたコンクリートが打ってあることがわかる。こんな場合、無筋のコンクリート橋台になるが、高いパラペットを考えると、下まで鉄筋を伸ばして鉄筋コンクリート橋台にしていると見ることができる。安定計算をどのように割り切ったか、興味あるところだ。

 アーチはトラス構造になっているのだが、床版と平行の水平弦材はどのように処理してあるのだろう。いつか下から眺めてみたい。ひょっとして、レールの刻印が見つかれば、何か話題が発掘できそうにも思う。

 戦時中、あるいは戦後の物資のない時の苦肉の策の古レール橋なら、それはそれでいいのだが、昭和4年竣工となれば、事情がちがう。スパンドレルブレースドアーチは、大正15年(1926)三河の稲武で愛知県ははじめて架けている。その後、昭和5年の牛渕橋、昭和9年の長篠橋と続く。長篠橋は橋長80mの長大橋。これらは、三河山間部の鋼アーチ群として近代化遺産の評価が高い。昭和4年竣工となれば、この技術的系譜の中に組み込まれる可能性がある。

 土木学会デジタルアーカイブスの田島二郎氏橋梁写真集のなかに「犬山のアーチ」として、平成6年3月30日撮影日付けで収録されている。 元本四公団設計部長、埼玉大学教授の田島二郎さんが生前撮られた膨大な世界の橋のリストにこの橋があるのは、技術的な何かを持った橋だろう。



景勝地 犬山

 鵜飼も行なわれる「犬山」は、地元の人が考えるよりも、ずっと観光ブランドイメージは高い。レジャーランド的観光地は衰退の方向だが、本物の観光資源のある土地は復活できる。
 お城に祭りに町並み。川遊びに美味いもの。犬山に来なければ食べられない「おいしいもの」が思いつかないのが残念だが、旅館の板前の腕の見せ所だろう。名古屋の近くで、泊ってみたいお宿。これが犬山の観光戦略といえそうだ。観光地としてのブランドイメージは宣伝費を掛ければ一朝一夕にできるものでもない。ちょっと大人の旅のエピソードは、宣伝企画で出来るものでもない。

 最初の城の写真の左手に山が続く、中腹に成田山名古屋別院が昭和28年開山した。 この白山平(標高145)山頂には4世紀後半の東之宮古墳がある。昭和48年の調査で三角縁神獣鏡5面を出土している。

 上の白黒写真は、大正12年に犬山橋が架けられる前のもの。犬山城の天守閣からの眺めという。 これから分かることは、名鉄犬山駅周辺は、電車の駅が出来るまでは新田であった。 ここは以前、岐阜県の鵜沼を含めた大きな湖であり、古い木曽川の一の枝、二の枝の出口だった。真中の黒い筋は松並木。犬山城の山と伊木山の間を木曽川が貫通した後、一の枝、二の枝は堤防で塞がれ耕地になった。

 東之宮古墳に眠る大王は、激流木曾川が作り出した一大キャニオンのほとりで尾張の地を制していた。岩肌で導かれて来た激流は、ここで一機に開放され、渦巻く鵜沼還流となって一の枝、二の枝そして鵜沼川(古木曽川)に散っていった。その当時、白帝城の頂上には針綱神社が鎮座し、鵜沼還流の中央には真墨田神社が鎮座していた。

 これが、今後始まるであろう邪馬台国論争以後の古代史ブームの舞台といえる。すくなくとも、李白の 「朝辞白帝彩雲間」を引用する観光地なら、この時代から自らのブランドを再構築されると信じる。李白を引用した「彩雲橋」の命名者はだれであったろう。いつか解き明かされるとおもうのだが。


2004.9.1
by Kon

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