愛知県の犬山市。木曽川のほとりに犬山城がある。別名「白帝城」
大正13年(1924)、犬山橋が完成している。その8枚組の記念絵葉書の内の一枚が上の写真。白帆の川船が往来し、 城の下流に川湊があった。現在旅館「迎帆楼」があるところ。白帆の川船が消え、濃尾用水の堰が出来て、李白の詩の風情はなくなった。なぜ白帝城かと聞かれても、返答に窮する。 すこしスケールは小さいのだが、今渡からの急流下りは結構な趣向。それも無くなるという。それなら、今風にカヌーかベンチャーゴムボートはいかがだろうか。桃太郎神社からの遊覧船も川風に吹かれていいものだ。
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鵜飼も行なわれる「犬山」は、地元の人が考えるよりも、ずっと観光ブランドイメージは高い。レジャーランド的観光地は衰退の方向だが、本物の観光資源のある土地は復活できる。 |
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お城に祭りに町並み。川遊びに美味いもの。犬山に来なければ食べられない「おいしいもの」が思いつかないのが残念だが、旅館の板前の腕の見せ所だろう。名古屋の近くで、泊ってみたいお宿。これが犬山の観光戦略といえそうだ。観光地としてのブランドイメージは宣伝費を掛ければ一朝一夕にできるものでもない。ちょっと大人の旅のエピソードは、宣伝企画で出来るものでもない。 最初の城の写真の左手に山が続く、中腹に成田山名古屋別院が昭和28年開山した。 この白山平(標高145)山頂には4世紀後半の東之宮古墳がある。昭和48年の調査で三角縁神獣鏡5面を出土している。 上の白黒写真は、大正12年に犬山橋が架けられる前のもの。犬山城の天守閣からの眺めという。 これから分かることは、名鉄犬山駅周辺は、電車の駅が出来るまでは新田であった。 ここは以前、岐阜県の鵜沼を含めた大きな湖であり、古い木曽川の一の枝、二の枝の出口だった。真中の黒い筋は松並木。犬山城の山と伊木山の間を木曽川が貫通した後、一の枝、二の枝は堤防で塞がれ耕地になった。 東之宮古墳に眠る大王は、激流木曾川が作り出した一大キャニオンのほとりで尾張の地を制していた。岩肌で導かれて来た激流は、ここで一機に開放され、渦巻く鵜沼還流となって一の枝、二の枝そして鵜沼川(古木曽川)に散っていった。その当時、白帝城の頂上には針綱神社が鎮座し、鵜沼還流の中央には真墨田神社が鎮座していた。 これが、今後始まるであろう邪馬台国論争以後の古代史ブームの舞台といえる。すくなくとも、李白の 「朝辞白帝彩雲間」を引用する観光地なら、この時代から自らのブランドを再構築されると信じる。李白を引用した「彩雲橋」の命名者はだれであったろう。いつか解き明かされるとおもうのだが。 |