帆のじの宿
平成6年11月5日(土)、午後10時。 同窓会の二次会を終えて、木曽川に架かる犬山橋直下の河川敷に戻った。 はて、困った。マイカーの前後にぴったりとクルマがつけられ、如何に 運転歴豊富な私でも脱出できない。 待つこと10分、話し声が大きくなって、私と同年輩の男女が下りてきた。 男性がいち早く状況を察知して、 「あっ、ごめんなさい。探しものをしていまして、つい…」 「いや、それは構いませんが、何か大切なものでも?」 「いや、大したものではありません」 「一緒に探しましよう」 「いえね、むかし泊まった旅館を探していたのです」 男性の照れは、夜目にもはっきり分かった。 「それで見つかったのですか?」 「いや、なにしろ旅館の名前も覚えておりませんので…」 「何か特徴はありませんでしたか?」 「そうですね。木造の凝った建物でした。広い遊園地を歩いたような 記憶もあります」 私の脳裡に「百春亭」がよぎった。 しかし、その遊園地は現在は名鉄犬山ホテルになっており、付近にあった 「百春亭」はもうない。 「そうそう水滴の落ちる短いトンネルが近くにあって、 玄関先から急な坂道が続いていました」 「分かりました。私の後について来て下さい」 鉄筋に立て替えられているが、その旅館が現存していることに、ほっとする。 木曽川沿いを下流に向かう。名鉄犬山ホテルを過ぎ、新郷瀬川に架かる 彩雲橋を渡る。まもなくフロントガラスを叩く水滴一滴、犬山城直下の 「迎帆楼」前で、クルマを止める。 先にクルマから降りた女性の声が夜気を震わせた。 「あなた、ここです。帆の字に記憶があります」 男女は、いやこの品のよい実年のご夫婦は、玄関先で寄り添った。 「ゲイハンロウと呼びます。あそこに駐車場があります。では…」 「有難うございました。実は定年旅行の途中なのです。つい思い出して来て しまいました。モンキーセンター近くの(サンパーク)に宿が取ってあり ますので戻ります」 左右にハンドルを切って、S字状の急な坂を上がり、犬山城前の広場に出る。 あの夫婦にとって、この犬山は若き日の思い出の地に違いない。 名古屋空港からレンタカーで真っ先に来たという。どのような人生ドラマが、 この犬山にあったのだろうか。 それは知る由もないが、いずれにしても、思い出を辿って再度訪れることが できたことは、やはり幸せなご夫婦であろう。 同年輩であるだけに、このご夫婦の心情は、いやというほどよく分かる。 ドラマティックな一日が過ぎた。それは数コマのスライドを連続して 見るような、あっという間の早さであった。 HP「人 生 は 旅」No 2第10話より
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