西枇杷島市場
江戸時代、河には戦略上、橋を架けませんでした。
いざの時、敵の浸入を阻止するためには燃やすか壊します。
ですから、木の橋です。
それと、もう一つ。壊れない橋は洪水の時、反って危険です。
橋に流木が引っ掛かり水が溢れます。
名古屋名所絵図より
西枇杷島にも橋はなく、渡し場でした。
この渡場の守りが市兵衛と九左衛門でした。
この地に橋が架かったのは、元和8年(1622)。
河の中に島を築き、西枇杷島方が小橋(長さ27間=49m)、
名古屋方が大橋(長さ57間=103m)の総桧造りでした。
東海道の熱田宿と中山道の垂井宿を結ぶ街道を美濃街道と呼ぶ。
この橋は美濃街道の要衝として賑わいました。
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尾張平野は一大野菜生産地でした。
尾張名古屋に城郭ができると、小橋のたもとに市ができました。
渡場の守り、市兵衛と九左衛門はこの市を任されました。
仲間で株仲間という問屋組合を形成し、
尾張藩には冥加金を納め、藩唯一の青物市場として庇護を受けました。
名古屋名所絵図より
市場の商習慣
江戸初期の「下小田井の市」からの独自の商習慣がありました。
近在の農家は夜明け前に大八車で野菜を運び、問屋の前路地に置きます。
問屋のアンコ(若い店員)は八百屋(買付け人)と値交渉をし、
成立すると手板に金額を符丁で記入していきます。
このような問屋への成行き委託販売が市場の伝統でした。
牛前中に商いはおわりますが、売れ残りそうな品は競りに掛けられた。
代金決済は当日現金決済を伝統とした。問屋の手数料は、農家から4%、八百屋
から3%であった。それ以外に八百屋側の要望で”目込数込”の習慣があった。
数込(かずこみ)とは例えば105個の品物をもって100個の商品とすることです。
目込(めこみ)とは1貫30匁の品物をもって1貫の商品とすることです。
江戸時代、この地は下小田井と呼ばれました。その後、庄内川を挟んで西枇杷島、東枇杷島となり
下小田井の地名はなくなりましたが、中小田井、上小田井の地名は今でもあります。
「下小田井の市」の商習慣は名古屋商法の基礎を造りあげました。
昭和30年この市場は名古屋市北部市場として名古屋市上更(かみさら)に移転、
340年の歴史は幕を閉じました。西枇杷島町はこの市場の歴史を
無形文化財と捉え、”にしびの文化財”第7、8集に編纂されております。
下記にその概要と教育委員会の連絡先を記しておきます。
”にしびの文化財”8集 枇杷島市場
第二章 沿革 (抜粋)
西枇杷島町教育委員会
愛知県西枇杷島町住吉1
tel 052-502-7575
「名古屋名所絵図」は天保12年、岡田啓と野口道直により著されました。
野口道直は市場創始者の市兵衛の8代目です。
2000.6.15
by Kon