枇杷島市場

”にしびの文化財”8集 枇杷島市場

第二章 沿革 より抜粋


慶長16年(1611)
徳川家康上洛の折りの庄内川渡河に功労のあった市兵衛と九左衛門が
青物市場を開く。株仲間という組合を創るが個人経営の問屋の独立採算制
を基本とした。

天保13年(1842)
株仲間の解散令。
株仲間は権現様(家康)の意向であったことを理由に存続の嘆願署を出す。

安政4年(1857)
株仲間が公認される。

明治元年
御一新の風潮のなか、株仲間の定員増減自由、冥加金の廃止。
この時、東枇杷島にも青果市場ができたものと見られる。

明治8年
株仲間を新しい時代の組織として枇杷島青果商社設立。

明治15年
枇杷島青果商社解散。個人経営の青物問屋にもどす。

明治17年
官僚統制の流れで、青物仲買商組合を設立。規約等には県の許認可が必要と
なる。

明治19年東海道線敷設

明治33年
東西の競争対立を避け、合同で西春日井郡青物仲買商組合を設立

明治39年東海道線枇杷島駅開設

明治42年年
道路交通、食品衛生上の規制を主眼とする市場取締規則が公布される。

明治44年名鉄、枇杷島橋駅開設

明治44年
八百屋の手数料撤廃、生産者に7歩となる。
大正3年
第1次世界大戦。産業の発展、物価の高騰。

大正4年 名鉄、西枇杷島駅開設

大正12年
物価安定を主眼とする中央卸売市場法が公布される。
東京.大阪.名古屋.京都.神戸.横浜が同法の指定区域となる。
枇杷島.中央.八幡.熱田の名古屋青果市場連合会を組織。中央卸売市場
設置の見送りをはたらきかける。

大正15年
政府は中央卸売市場のための低利資金融通の話しの打切りを通達。

昭和3年
中央卸売市場に関連し、六大都市青果市場連合会が組織された。
これを通じて、全国の情報交換がおこなわれる。名古屋地区では行われて
いない歩戻し(奨励金)を八百屋側が実施希望、3歩の戻しを請求。

昭和4年
市場側は、他の市場の手数料1割である、当市場は7歩。よって、3歩の
戻し請求には応じられないと回答。
6月12日
         市場の定例休業日は21日であったが、八百屋側は16日に臨時
         一斉休業を宣言。
6月15日
          農会は16日の臨時一斉休業にたいして、名古屋市に販売所を設置、
          直接売り捌くことを総会決議。
6月16日
            八百屋臨時一斉休業
6月20日
           市場側は八百屋側の要求を正式拒絶
           支払いは当日現金払いが原則の伝統であったが、八百屋側は支払
           いの遅滞行動をする。
6月28日
             八百屋側は市場からの不買運動を実施。
             青果物は値上がりする。
6月30日
             県は両者から事情聴取
7月2日
             名古屋市は、すべての要求白紙撤回とする調停案を提示。歩戻し
             に付いては調査研究し解決をはかるとした。
昭和5年
12月2日
            名古屋市下記の仲裁案提示
           市場側は1歩の歩戻しを認める。八百屋側は延滞金をすべて清算。

           八百屋側は仲裁案を了解。
           市場側は妥協の余地なしとして退席。
               名古屋青果市場連合会会長の談
         「1歩の歩戻しには絶対反対ではなかった。現今の不況により
           もうしばらくの猶予を申し出た。市側は、左様なことを言う
           なら市は新市場を設けると言われました。調停者としては、
           過言ではありませんか。それで物別れになった次第です。」
12月3日
            八百屋側は市公会堂で組合員3000人による歩戻し貫徹を
            大会決議。
            市場側はこの日一斉休業。
12月5日
            市は仲裁案に同意を要求。不賛成なら中央卸売市場建設促進とな
            ると警告をする。
12月6日
            市場側は仲裁案拒否を正式通告。
            前日の八百屋側八割に及ぶ決済日不払いのため、枇杷島.中央.
            八幡.熱田.千種の5市場無期限閉鎖を通告。
            八百屋側
            市内4ヶ所に臨時配給所を設置。各市町村の目抜き通りに生産者
            と直接取り引きするポスタ−を掲示。
            生産者側
             農会は市場側にも八百屋側にも荷担するものでない。両者に青
             果物を供給しない。両者に青果物を売った者には過怠金を取る。
             消費者に直接売る場合は各市の農会の統制のもとに行う。
             名古屋市の臨時配給所への出荷は県農会の指導のもと、市農会
             の手配による。以上を申し合せる。
12月7日
           八百屋側集荷隊により集めらた青果物が臨時配給所にうずたかく積
           み上げられる。
12月9日
           六大都市青果小売商組合連合会は名古屋青果小売商組合(八百屋側)に
           争議支援金提供を決議。
12月10日
          生産者側は市場側に下記要求を提出
1.青果物口銭は現在より絶対増加させないとの証書を差し入れる。
2.市場再開の時点で目込数込を撤廃する。
3.八百屋への歩戻しの余裕があるなら手数料の逓減に充当すること。
           市場側の回答
2.は争議の一層の紛糾となることより認められない。
1.3.は承認する。  

12月13日
           生産者側は西春日井郡.中嶋.丹羽.海部の農民大会を清洲
           公会堂で開催。
1.市場再開の時点で目込数込の撤廃を期す。
2.八百屋への歩戻しの余裕があるなら手数料の逓減に充当すること。
3.目的の貫徹まで市場再開でも出荷停止とする。
4.問屋への取り引きは庭渡しとする。
           愛知県庁周辺には5000人の関係農民が集まる。
           再開された市場を枇杷島駅前の臨時配給所で荷を仕入れた
           八百屋は素通りする状況となる。


昭和6年2月
           県は生産者側に目込数込の撤廃を明言し、八百屋側に意向を打診。
           八百屋側の意見はまとまらず。

2月17月 県は調停を断念。
2月20日
            生産者側は独自青果市場を開設、取り引き開始。
            八百屋側は丸八青果市場株式会社の設立総会を開く。
2月21日
               名古屋市長は、生産者、八百屋、問屋の三者に白紙委任の
               調停を呼びかける。
               生産者、問屋は同意。八百屋は拒否。
               八百屋は白紙委任を巡り内部で足並みが乱れる。
3月30日
             八百屋は白紙委任に同意する。

4月26日
           歩戻しは1分、数込100個につき2個。目込は10貫につき
           200匁。以上の調停案成立。
           四年に渡る青物争議は幕となった。


争議で一般消費者は影響を受け、公営による市場開設を望む声が高まる。
中央卸売市場計画案浮上。市内既設市場をほとんど吸収する総合食品市場
の計画である。

昭和9年1月
       名古屋市は中央卸売市場建設の調査費を議会提出。
       賛成23、反対25で否決。

昭和10年 国道22号線開通

昭和13年4月
        国家総動員法が公布される。
        名古屋市議会は中央卸売市場建設の意見書を市長に提出。
昭和14年10月
        価格等統制令。
昭和14年10月
       名古屋市に生鮮食料品等配給調査臨時委員会発足。
昭和15年4月
       青果物配給統制規則。
       41軒の問屋は合同、枇杷島市場青果株式会社を創設。
昭和16年10月
       名古屋青果物統制株式会社に改組。
昭和17年4月
       臨時委員会は下記卸売市場の建設答申発表。
       愛知県食品市場規則による開設とする。北部、中部、南部3市場とする。
昭和17年8月
       戦時体制経済下、名古屋市中央卸売市場の建設予算可決。
昭和20年11月
        GHQ指令により価格及び配給統制の撤廃を発表。
        物価は高騰を招く。
昭和22年4月
        独占禁止法。
昭和24年4月
        名古屋市中央卸売市場開設。
昭和25年5月
        名古屋市北部卸売市場を上更に決定。
         西枇杷島町は移転候補地を同町内に提案等の存置運動をおこなったが、
         取り引き量の8割を名古屋市に供給する同市場は、名古屋市の意向が
        強くいかんともしがたかった。
昭和25年6月
        株式会社名古屋青果物市場は各支店独立分離。枇杷島名古屋青果物
        株式会社設立。
昭和25年12月
        名古屋市は政府の市場設置認可の指令書を受ける。
        卸売市場法により六大都市の名古屋市の場合、開設者は市当局となる。
 
昭和30年2月1日
        名古屋市枇杷島(北部)卸売市場が取り引き開始。