八坂神社
名古屋市西区名西
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八坂神社の歴史

 八坂神社は,文治元年(1185)平家の武将が,現在地の北100m程の所に住み付き、祠に須佐之男を祀ったのが初めとされる。

 その後,美濃路の両脇に集落が形成され、元禄15年(1702)に現在の場所に遷宮し、このころから祭りが盛大に行われるようになった。現在の山竿は文化11年(1814)の作である。(以上、当日頂いたパンフレットの記述から)

 この祭礼は,従来旧暦6月14・15日に行われていたが,平成7年より5月の第3土・日に変更になった。最終日、諸々の災いを葭舟に乗せて惣兵衛川に流す「御神葭舟流し」で終わる。牛頭天王にまつわる、初夏の厄病よけ祭りである。

 有名な京都「祇園祭」は、「八坂神社」の大祭である。八坂社は、もとは「祇園社」と呼んだ。元慶元年(877年)、藤原基経が自邸を寄進し建立されたと言われる。

 昔インドで、ある長者が、賜った樹林を惜し気もなく寄進し祇園精舎を建立した。守護神を牛頭天王(ごずてんのう)とした。この故事 にちなみ、京都「祇園社」は牛頭天王を祀った。戦いで滅ぼした者の怨霊を鎮めるため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」を度々行っていた。「祇園祭」はこの伝統を受け継ぐものである。日本では、牛頭天王と須佐之男(スサノオ)が神々混交で同神とされてきた。

 京都「祇園社」は明治の神仏分離令により「八坂神社」となる。各地にあった祇園社も 八坂神社と改称したと思われる。当地の八坂神社も、もとは祇園社ではないだろうか。地元の方は、「なんか、京都の八坂さんとは関係ないみたい」とおっしゃる。

 例えば、美濃路が中仙道と交わる垂井宿に八重垣神社がある。ここと同じように、南北朝の文和2年(1353)南朝軍に追われた後光厳帝が難を避け、一時頓宮とした。 随行した祇園社の社僧が午頭天王を勧請し帝の安泰祈祷を行なったという。その「祇園社」は、明治維新で「八重垣神社」と名称を変更している。
 明治の神仏分離令は、宗教上の一大事変。「なんか、京都の八坂さんとは関係ないみたい」とおっしゃること自体、それ以前の「祇園社」との関連からくる複雑さとも考えられる。

   帝を慰める里人が引きまわした花車が垂井まつりに発展した。この地の提灯祭りも、同じような歴史を秘め、受け継がれている。祭りは、その土地の歴史を継承するDNAとも言える。大切な文化財に違いはない。




2004.5.15 by Kon