信長と白山神社
名古屋市西区押切2丁目


 国道22号の八坂交差点から東に、名古屋城を目指して進むと、ほぼ中ほどに白山神社がある。美濃路では、立て場といって、人夫が杖を立て掛け一服する場所であったという。 当然、茶屋などがあり、古くから集落を形成していたと推定できる。
 名古屋十名所の石柱がある正面から入り、境内を一周してみた。元文四年と記した手水石があった。

 
この石垣の上の高欄は、西にあった笈瀬川に掛かる権現橋のものを移築したという。 親柱の記銘を読むと、昭和六年7月建立と認められる。その笈瀬川も権現橋も、今はもう無い。


 日本に来たイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」に、織田信長が「予は白山権現の名において汝に誓う」と言った一文がある。信長にとって、神とは白山権現であったのかもしれない。

 伊吹おろしの吹く尾張平野で、北を眺めると伊吹山が目に留まる。晴れ渡った日、その後ろに真っ白な白山が眺められることがある。尾張の人にとって、白山は季節を知る山であった。
 田植の季節、洲原神社に参拝してお札をもらってくる風習が、今でも尾張地方に残る。花といっしょに、その札を水の落口に飾る。洲原神社は岐阜の美濃市にある立派な神社。白山の里宮であった。

 白山信仰は、白山をご神体とする日本古来の自然信仰といえる。仏教色は後から修験僧により付け加えられたものと考えられる。 自然信仰と神道、仏教が渾然とした日本人の肌に合う信仰であった。 明治の廃仏稀釈によって白山信仰は隆盛を失った。それと同時に、日本人は自然を信仰する心まで見失ってしまったのではないだろうか。


 永禄3年(1560)5月19日未明、従者6騎と雑兵2百を従えた武将が馬を止め、この白山権現に必勝祈願をし、 早々に熱田の杜に向かう。そこで集まった手勢1000。この武将こそ、2万5千の今川勢を迎え撃つ、織田信長、27歳であった。

 愛知県と言われる地域は、西の尾張と東の三河から成る。その分水嶺は、大河矢作川であろう。その西、境川かもしれない。だが、中世のこの時、尾張の境は名古屋の外れ、天白川であった。三河の松平は今川に組し、大高城、鳴海城を守る。織田方は、天白川を越え、鷲津砦、岩根砦を設け対峙していた。

永禄3年3月31日の夜に、信長は蜂須賀小六、前野長康に逢って、今川義元の尾張侵入の危惧を聞いてる。

 「.......国を挙げて合戦の用意余念なく、斯月を待たず治部少輔の西上、違い間敷候。概に海道筋は、兵糧を所々に野積み、馬飼料うず高く、国ぎわ関々、厳重に取固め、岡崎表へ今川衆多太く出張り、諸事申しつけ、荒々しく、府中より掛川、浜松海道筋同然に候。この分にては治部少輔、府中発向は、五、三日を経ずして尾張へ乱入は必定、日頃の御恩に報ゆるべく、我等川筋の者、糾合掻集め候わば、その数二千は下る間敷、寸時を惜しむ刻に候。御用命あって然るべきと切々懇願候」


5月10日、ついに今川動く。
5月17日、今川義元本隊は池鯉鮒(知立)に迫る。
5月18日夕刻、大高城に松平元康が兵糧入を行う。

この日、信長は清須城下善昭寺に軍を集める。その数3000。重臣会議は、 「かくなる上は籠城」が大勢を占めた。信長は無言のまま散会させる。

5月19日未明、松平元康は丸根砦に攻撃開始。同時に、朝比奈、井伊の今川方が 鷲津砦へ攻撃を始る。


 尾張に根付いた織田は、守護職斯波氏の従者として越前国の織田荘より来た守護代である。下克上の時代、実権を掌握した織田は、上下二分して尾張を治めるに至る。その尾張下四郡の織田氏から勝幡織田氏が台頭してくる。祖父織田信定、父信秀の時代、川湊津島を領有することで財の基磐を持つたといわれる。
 ほぼ尾張を統一したとはいえ、駿河、遠江、三河の連合勢力から見れば弱小国。信長は思案をめぐらしていた。以前より今川は織田家中に間者を潜入させ様子を探っていた。これに対して信長は、しばらく泳がせておき、その間に書状の筆跡を腹心の部下に習得させる。時期を見て捕らえ、以後、筆跡を真似た偽の報告書を数年にわたって今川の元に届けさせていた。
 信長の放った間者から、逐一情報は受け取っていた。5月18日、沓掛で今川は軍議を開いている。だが、まだ動けない。守山に抜けるか、鳴海に来るか。


人間50年、下天のう ちをくわぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生をえて、滅せぬもののあるべきか
謡い終わると信長が動いた。腹心の津島衆、勝幡衆を集め鳴海に向かう。丹下砦を経由、善照寺砦に着陣、午前10時。手勢1500。


 鳴海城は、天白川と手越川、扇川の合流点に位置する。これに対峙して中島砦を設けてあった。鷲津砦、丸根砦が落ちた今、中島砦は敵方の制圧圏となる。湿地帯に囲まれたこの砦に信長は移動する。

 正午、今川義元本隊が桶狭間に展開する。鳴海丘陵の街道は縦に細い。正確に本陣の位置を捉えれば勝機はあろう。その時、簗田鬼九郎より今川義元は田楽坪の釜ケ谷に陣を張ったと伝えて来た。信長は中島砦を出た。

 折からの雷雨を味方に付け、信長は今川義元本陣を急襲。信長の馬廻り役服部小平太が義元の膝に一太刀を加え、毛利新介が首級をあげた。世に言う「桶狭間の合戦」は信長の勝利で終わった。


 同日夕刻、熱田の杜で陣を整えた信長勢は、この白山神社を凱旋行進して清須城に 向かった。永禄3年(1560)5月19日。新暦では6月12日に当たる。日の出は4時50分。日没は17時。小潮と推定される。早朝の出撃は5時の満潮を避け、土手伝いと言われる。ならば、中島砦を渡河した時刻は干潮に当たる。巧みな自然の摂理を利用する信長にとって、白山権現は神であったのかもしれない。

2004.5.15 by Kon