日本書紀は外交文書


唐帝国と東アジアの動乱
 大帝国「唐」を巡る国際動乱のなか、半島では百済が消滅し、列島にも 覇権主義の波が迫った。その列島の地で統一国家を形成しつつあった 大和政権は、存在と主権を主張するために「帝記」と「律令」を 国際語「中国語」でしたため朝貢することが急務となった。
 遣隋使に始まる留学僧は中国語は習得していた。亡命百済王族も その能力はあった。しかしそれは少数知識人であった。極めて難題な 緊急国家プロジェクトであったろう。 例えば、黒船の来訪により国際社会へのデビュ-を迫られた時、 徳川幕府が武家諸法度を国際語「英語」に翻訳して、毅然として国際社会での主権 を主張したとしよう。その作業は誰がしたのだろう。想像できることだ。
日本書紀の中国語
 681年(天武10)に着手、720年(養老4)舎人親王「日本書紀」を奏上。製作年数40年。知識人を総動員して編纂された全30巻の大著、それが日本書紀である。当面の急務、国書持参の遣唐使派遣(701年、大宝元年)を終えてなお20年を要した。
 表音文字としての漢字は万葉仮名により浸透はしていた。とはいえ、 国際語「中国語」で整備する国書としては不備が存在する。

 「非」は名詞の否定,「不」は動詞の否定詞。
「非答。」 → 「答えず」は「不答。」が正解。

 「有」は,不特定の事物の存在,「在」は特定の事物の存在を示す。
「是玉今有石上神宮。」→ この玉は,今,石上神宮にある。
「この玉」は「特定の玉」なので,「有石上神宮」ではなくて「在石上神宮」。

巻14〜21, 24〜27, 30 では文法ミスほとんどない。それ以外の個所では この文法を意識せず書かれている。特に14から21巻にかけて、文法ミスが見られない個所がまとまって存在した。そこは、まさにネイティブな中国語を読み書きする人物が執筆したことになる。
中国人執筆者は誰か
 7世紀末から8世紀初めにかけて朝廷の官僚養成教育機関である大学において、中国人が教授を務めていたことが当の「日本書紀」と、それに続いて編纂された「続日本紀」に記載されている。
 一人は、続守言。日本が百済と組んで、唐・新羅の連合軍と闘った白村江の戦いで捕虜となり、661年に日本に連行された。捕虜といっても大学の教授の優遇である。
 もう一人は、「大宝律令」の選定に参加したことが「続日本紀」文武4年の記事にしるされている薩弘恪という人物。
 この様に、当時日本は文化的に鎖国ではありえなかったのである。

失われた音の解明
 古代日本においては、母音が a, i, u, e, o の5つではなく、i, e, oには もう1種類の発音があったことが推定されていた。これを乙類の母音と呼ぶ。 「神」と「上」は今の言葉では、同じ「カミ」と発音されるが、奈良時代においては、「上」はkamiだが、「神」の「イ」は乙類であり,両者は異なった言葉であることが分かっていた。このことに最初に気が付いたのは江戸時代の本居宣長でした。だが、どのような音だったのかは、推定不可能とされていた。
 漢字の歌 (ka), 訶(ha),軻(kha)はネイティブな中国語では発音がちがう。いずれも「カ」を表するとされていた。しかし、母国語を中国語とする人が万葉人の 発音を正確に表記したとすれば使い分けて当然である。「日本書紀」巻14〜21では、 本来「カ」と表記 されるべき固有名詞に歌 (ka)が、きれいに統一されていたのである。 とすれば、この部分に訶(ha)が使われていれば、それは「カ」ではなくha であったことになる。こうして失われた音が復元された。
 以上は「日本の古代 14 ことばと文字」 中央公論社刊 (1988年) 収録論文「古代の音韻と日本書紀区分論」および「古代の文章と日本書紀の成立過程」による。 執筆者は執筆時の1987年大阪外語大助教授森博達。 森氏は20歳代でこの業績をおこなった。平成4年第20回金田一賞を受賞。

2003.5.5
by Kon
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