唐を巡る国際動乱と日本国


唐帝国の出現
 西暦589年、中国に再び統一国家「随」が誕生する。高句麗、新羅、百済は, あいついで朝貢し冊封(ホウサク)を受ける。それは中国大陸の伝統であった。
598年、隋と高句麗の緊張が高まり、文帝は高句麗に水陸30万の軍を差し向ける。 600年(推古8)倭国は随に使者を派遣している。607年( 推古15年) 小野妹子は通事、 留学生、留学僧を従へ洛陽へ向かう。正式な「遣随使」の派遣であった。
 612年、隋の陽帝は1000万の兵を高句麗に差し向けるが 激しい抵抗に敗退する。618年、国内の反乱で陽帝はこの世を去り、隋は滅亡する。 この混乱の中で実権を握るのが唐の季淵(高祖)である。 628年、その子、太宗は全国を統一し,北方の突蕨(トッケツ)、西域の高昌(コウショウ)、吐谷渾(トヨクコン)を従えた大帝国が出現した。
留学僧
 623年(推古31)新羅の使者が倭国に派遣されてきた。 この時,遣随使として派遣された留学僧恵日(えにち)らが新羅経由で帰朝する。 遣唐使の派遣を建言。630年(舒明2)第一回の遣唐使を派遣する。
 632年(舒明4)僧旻(みん)が帰国。640年(舒明12)南淵請安、高向玄理が新羅経由で帰朝。 第一回の遣随使から数え旻は24年、請安、玄理は32年 中国で暮らした。随の滅亡から唐の大帝国建設の過程を 見聞して帰ったことになる。
ク−デタ−
 641年百済では義慈王即位、翌年新羅領内に侵攻。642年高句麗にク−デタ−が起こり、百済と結んで 新羅に対抗する情勢となった。644年唐は高句麗征討に動き、645年太宗自ら遼河を渡る。 その翌月、倭国にク−デタ−が起こる。
 南淵請安の講義を共に受けた中大兄皇子と中臣鎌足は 朝廷で絶大な権力を握っていた大臣、蘇我入鹿を惨殺。 百済系帰化人の東漢氏を基盤とする蘇我氏は 唐と新羅が結びつく国際情勢のなかで孤立したことも 原因と言われる。

加羅の地
 朝鮮半島南部の加羅の地に倭国は従来より権益を持っていた。新羅の勢力圏 ではあったが、倭国に調を貢がせていた。百済の勢力が及ぶところとなり、百済 との権益交渉を行うか不調に終る。新政府の国博士高向玄理は新羅に赴き、調の廃止 と引き換えに人質を差し出させる交渉をした。 新羅からは643年(大化3)王族金春秋が「質」として やってくる。翌年、春秋は人質を交代して唐に赴く。649年春秋が唐から帰国 し、新羅は唐の年号に改め唐の属国となる道を選ぶ。
653年(白雉4)倭国第2回遣唐使を送る。 654年(白雉5)倭国高向玄理を主席とする第3回遣唐使を送る。 翌年、大使らは帰国するが高向玄理は唐に留まる。
659年(斉明5)倭国第4回遣唐使を送る。帰国に際し禁足される。
百済滅亡と復興援助
 655年高句麗と百済は新羅北部に侵入、唐は高句麗に出兵。 659年新羅武烈王(春秋)は百済討伐を要請。 660年唐の高宗は水陸13万の兵を百済に向ける。新羅も5万の兵 を向ける。百済義慈王降伏、百済滅亡。
唐が高句麗に主力を向けると百済の遺将は復興に立ち上がり 倭国に援軍と倭国に送った王子、余豊璋の送還を要請してくる。 朝廷は使者に援軍の決意を伝える。
白村江
 661年(斉明7)斉明女帝は難波宮から中大兄皇子、大海人皇子らと 筑紫に向かう。一行は瀬戸内海沿岸で兵士を徴発、那大津(博多)に着き 本営を張る。通常20日の航路を3ヶ月を要した。
 その年の5月斉明女帝は朝倉宮で病死。8月、5000余の先発隊が百済王子 を百済の遺将福信の元に送還。662年(天智元年)、唐、新羅と高句麗、百済、倭 連合軍の激戦が繰り返される。
 663年(天智2)倭国は兵2万5000を新羅に向ける。 その年6月、百済王子は武将福信を謀反の疑いありと殺してしまう。 8月白村江で唐と倭は衝突、唐は百済制圧、百済王子は高句麗 に亡命。百済滅亡。倭国軍は百済の亡命者とともに撤退。
高句麗滅亡
 664年(天智3)敗戦を受け、冠位制の改革、 連、臣、伴造、国造といった旧来の制度を大氏、小氏、氏の組織に再編を行った。 筑紫に水城を築き、百済の亡命者に各地に山城を築かせる。
 668年(天智7)正月、中大兄は大津に遷都、即位して天智天皇となる。 高句麗は日本海から北陸経由で使者を派遣してくる。倭国は動かず。 唐.新羅軍は平壌を落とし、宝蔵王を唐に連行、高句麗滅亡。
669年(天智8)倭国は唐に高句麗平定の祝賀使節を送る。 10月、中臣鎌足危篤、死去。
壬申の乱
 670年(天智9)高句麗の遺将が唐に反乱。新羅は高句麗に援軍を送る。 新羅は旧百済へ侵攻。翌年旧都扶余を占拠。
671年(天智10)
     9月天智天皇病床に伏す。
   10月大海人皇子、吉野に去る。
   11月唐の使者2000人、47の船団で旧百済から倭に向かう。
          白村江の捕虜4名が対馬に先発使者として派遣されて来る。
   12月天智46歳で没する。
672年(壬申の年)
    3月 筑紫に滞在の唐の使者に天智の死去を伝える。
          唐使郭務宗国書を差出す。
    5月 倭国は唐の使者に甲冑、弓矢、布、綿などを与える。
          使節は旧百済に帰る。
    6月 大海人皇子は村国男依ら三人の舎人を美濃に向かわせ
          不破の関を封鎖。
    7月 大海人皇子、東国の軍を動員し近江大津宮を攻める。
           大友皇子自害。
  
天武朝
673年(天武2)大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となる。
681年(天武10)律令官人を出身させる「氏」に旧豪族を再編に着手。
684年(天武13)八色の姓、685年(天武14)48の位階を定める。
681年(天武10)川島皇子ら12名に帝紀、上古諸事を記し定めることを命ずる。 ( のちの日本書紀)。 みずから稗田阿礼(舎人)を助手に帝紀、旧辞(神話や物語)の検討を始める (のちの古事記)。
686年(朱鳥元年)9月 天武没する。
日本国
689年(持統3)4月、草壁皇子急逝。
690年(持統4 庚申)天武の妃即位、持統天皇。 この年、庚申年籍完成。
694年(持統8)藤原京に遷都
697年(持統11)持統天皇は孫の軽皇子に譲位。文武天皇。
701年(大宝元年)持統上皇と藤原不比等ら上級官人、帰化人の中・下級官人 らにより大宝律令完成。日本国の国書をもった遣唐使を派遣する。
中国史上唯一の女帝、則天武后は「倭国あらため日本国とする」。
710年(和銅3)平城京に遷都。
712年(和銅5)太安万侶、「古事記」を完成する。
720年(養老4)舎人親王「日本書記」を奏上する。
正史
 このような国際情勢のなか、日本国が誕生した。中国大陸においては、天命を受けた英雄が 皇帝となり周辺国家を支配するとされた。それが出来ない者は天命をうけた王として存在はできない。 その覇権主義の波が、この列島に押し寄せた。この国際動乱の波の中で、大陸縁辺 の島国として覇権主義から独立した小国、日本が成立したのである。
 唐で則天武后が夫の高宗を皇帝から「天皇」に格上げして自ら「天后」になった時期にあわせ、 日本国の「天皇」による統治の歴史書と大宝律令をたづさえ、遣唐使派遣をしたのである。大宝律令は唐律令の尚書省礼部を天皇直属の神祇部に独立 させた日本流ではあったが、以後1300年、これが日本国の国家 体制として存続することになった。
 日本国正史は、「古事記」と「日本書記」の二つが出来た。「古事記」は国内豪族に向けた 正史であり、「日本書記」は対唐のための外交文書という性格である。このような成立時代背景 を基本として、この国の正史を見る場合、考古学的事象との乖離のあること は推測できる。国家存亡の危機に、小異をすて大同に結束するイデオロギ− は、いつの時代でも必要とされよう。後世の者がそのような歴史書を読む場合、時代背景を踏まえ 真実を読み取ることは、読み手としての責任であろう。
 限られた時間の中で、この国の正史を読む場合、「古事記」と「日本書記」のどちらを読む べきかという問題がある。完成してから様々な注釈がある古文書に踏み込むことは途方もない 作業が想定される。近年の考古学的発掘と対比して、一通り、この国の神々の物語を 追ってみたいと思う時、僕は「古事記」を選んだ。表意文字の漢字は漢音と呉音の発音 がある。この発音は、方言訛りの範疇を越えるものという。それは、長江文明と黄河文明が 相克した中国の歴史の反映である。倭国は長江文明起源の倭族の一員で ある。当初、呉音で漢字を表音文字として利用した日本の事情から すれば、「古事記」のほうが、より正確に文字を持たない時代の事象を定着させて いると予感されるためである。「古事記」は呉音、「日本書記」は漢音を用いている と言われる。
 これは僕の仮説でしかないのだが、漢字としての文字をもたない時期の 長江文明が海を渡り広まった、その古い形の言葉が今でもポリネシア地方に残されてたのではないだろうか。 「古事記」に記された固有名詞はポリネシア語で読み解けば意味が判明するという。
天の鳥船
 「古事記」は「天地のはじめ」、「島々の生成」につずき、「神々の生成」を記す。 伊邪那美命(いざなみのみこと)は火の神を産む前に「鳥の石楠船の神」を産む。またの名を 「天の鳥船の神」という。鳥の石楠船(トリのイワクスぶね)であるが、古代ポリネシア語で、
TOLI=to whittle,pare,trim (木やミカンの皮をむく、木の表面を削って形を整える)
IWA=Frigate or man -of- war bird (軍艦鳥)
AMA=Outrigger float;the longitudinal stick of the outriggerof a canoe

 「古事記」の「神々の生成」の終りに海幸彦、山幸彦の話が登場する。借りた釣り針 をなくした火遠理(山幸彦)が途方に暮れていると、塩椎の神が来て「无間勝間」小船 を作り綿津見の神の宮に行かせる。「无間勝間」小船を「マナシカツマのこぶね」とし、 古代ポリネシア語のMANASII−KATAMARANに対比すると、
MANA=Supernatural,divine power,miracl power (超自然の、不思議な)
SII=to fish, to troll, to cast(釣る)
KATAMARAN= (筏、双胴船)
「不思議な双胴の釣り舟」となる。
 釣り針を見つけて戻った山幸彦は、海神の娘のお産する姿を見てしまう説話がある。娘の名は豊玉媛。
古代ポリネシア語で、TOI-O-TAMAは子供を産む陣痛。
TOI=pains of child-birth
O=of
TAMA=child
 降って「古事記」の仁徳天皇の項に、「是の樹を切りて船を作りしに、甚早く行く船なりき。 時に其の船に号けて枯野という」。
ここに記された「枯野」は、素直にKANO=canoe(カヌ−)と読んでいいのではなかろうか。 カヌ−の語源はカリブでありコロンブスが西洋に伝えたと言われる。ポリネシア語には認められないが。

 日本国の正史成立の時代を考えると、明らかに漢字文化の理解の上で書かれた。其の能力のある 渡来人の編集であることは理解される。だがしかし、日本古来の伝承を神々の物語として記述する場合、 海人族の伝承を聞き取り記録されたことであろう。この物語の部分は、表意文字としての漢字の意味する ことにあまり拘りすきると本質を見誤る可能性がある。僕はこの事に注意して「古事記」を読むことにした。 なを、船に関わる話題は茂在寅男さんの「古代日本の航海術」(小学館ライブラリ−、770円)を道標と している。


2001.8.1
by Kon
e-mail nazca-e@geocities.co.jp
尾張国府宮の「はだか祭」
http://www.ne.jp/asahi/naoi/kon/2001/
カルチャーデ
イト