屋根の上のバイオリン弾き




 カザールの海

 海なら世界で最も小さな海。湖なら世界で最も大きな湖。カスピ海は別名カザールの海と言われる。

 中央アジア にある塩湖。チョウザメが生息するカスピ海。その北から東に大草原が広がる。中世における水位の上昇がカザール汗国の町に洪水を引き起こしたといわれる。

 バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたり遊牧生活を営む騎馬民族がいた。彼ら テュルクを中国は突厥(とっけつ)と呼んだ。6世紀には東の満州から西は中央アジアを制し、シルク・ロードで栄えた。隋の文帝が彼らの内紛を利用し、モンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂を誘った(583年)。


 6世紀始め、コーカサスの北、グルジア、アルバニア、アルメニアを占領した「戦士族」カザールがいた。627年、ビザンチンの皇帝ヘラクレイオスは、ササン朝ペルシアとの戦いにカザール人と同盟を結ぶ。カザール人はペルシア遠征に4万人の傭兵を出している。

 7世紀中頃、カスピ海沿岸草原にカザール汗国が誕生する。西突厥が分裂し、彼らから解放さたカザール人は「西突厥」の継承者を名乗った。
 732年、ビザンチン帝国コンスタンチヌス5世は、カザールの王女チチャクを妻に迎え、その子レオン4世が775年から780年までビザンチン帝国を支配した。カザール汗国は721から737年までの16年間、アラブ遠征軍と戦い続けている。首都をカスピ海西岸のサマンダルに移し、最後にボルガ河口のイティルに移した。740年ころ、カザール汗国はユダヤ教を国教とした。白色トルコ系のユダヤ人が誕生したことになる。ビザンチン帝国にとって、この勢力はアラブに対する盾であった。

 834年、カザール王はビザンチン帝国に北方防御の援助を求め、「サルケル砦」が建設される。カスピ海北方草原に、バイキングの雄ルス人の動きが脅威となってきた。
 10世紀半ばまで、ルス人の略奪はビザンチン帝国に向けられていた。カザールとは、時に衝突はあったものの、交易が中心であった。カザール人は、ルス人の交易ルートを押さえ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜ける貨物に10%の税を課すことができた。

 カザール汗国のユダヤ教への改宗は、国の統一に有利に働かなかった。835年頃、国王のグループと、地方のグループの対立が目立つようになった。有力貴族が反乱を起こし、ボルガのロストフの地に亡命する。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつで、ルス商人団の長の娘とカザール人貴族の息子との婚姻が行なわれる。こうして「ルーシ汗国」が成立する。
 862年、ルス人リューリク大公の配下が、カザール汗国の支配下にあったキエフを無血併合した。キエフとは、もともとカザールの将軍クイの砦という意味であった。
 やがてこのキエフはルス人の町として発展し、「キエフ・ルーシ」としてロシア国家の母体になっていく。ルス人がキエフに住み着くと、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威が増し、それに反してカザールの重要性は減少していった。

 9世紀末、ルス人の艦隊が、カスピ海沿岸を侵略するようになる。そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展、ルス人はカスピ海に足場を築いた。965年、キエフ・ルーシによって、カザールの「サルケル砦」が陥落し、首都イティルも攻撃を受けた。
 986年にカザールが、キエフ・ルーシのウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したが、988年に先進文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にギリシア正教を広めることになった。ウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナを妃に迎えている。これによって、カザールとビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉し、ビザンチン帝国とキエフ・ルーシの「対カザール同盟」が成立する。
 1016年、ビザンチン・ルーシ連合軍はカザール汗国に侵入し、東部諸都市を焼き、壮大な果樹園やブドウ畑を焼き払う。クリミア半島を含む西部は、被害は少なかったが、都市は荒れ交易路も乱れる。13世紀中ころまでカザール汗国として存続、ユダヤ教信仰も維持はされていた。

 ビザンチン帝国は、キエフ・ルーシ汗国がカザール汗国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になると計算したが、分立した公国が互いに争う時期が続く。
 この力の空白地帯に乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。それに続いて今度はモンゴル人が侵略してくる。

 1245年、ローマ教皇イノセント4世は、南ロシア「キプチャク汗国」に使節団を送った。都はヴォルガ下流のサライにおかれていた。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探る目的であった。使節団長だった修道士カルピニの『モンゴル人の歴史』に、北部コーカサスのアラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるカザール人」の名がある。これが、国としてのカザールの最後の公式記録とされる。

 ポーランド

 ゲルマン人が移動した東ヨーロッパ各地にインド・ヨーロッパ語族のスラヴ人がカルパティア山脈から移住した。6世紀頃である。
 西方にポーランド人・チェック人・スロヴァク人。東にロシア人・ウクライナ人。南にはセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人であった。
 西スラヴ人のポーランドは、966年ローマ・カトリックに改宗し、平原の農耕国としてカトリックだけでなく、ギリシア正教徒、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒といった異なる信条を持つ人々が、比較的平和に共存していた。

 一時キエフを占領するほどの勢いを示したが、12世紀前半から侯国に分裂、ドイツ人による騎士団国家の成立、1241年モンゴル軍侵入等でまとまりを欠いていた。

 14世紀前半、ポーランドは統一を回復する。貴族たちの荘園に分割され、商業も隣国ドイツほど発展していなかった。そこで王侯や貴族は、国の建設にユダヤ人たちを一種の「代用市民階級」として保護し、1334年以来特権を与え、独自の自治組織を作らせた。
 マグナート(大貴族)が実権を握るポーランドでは国王は象徴的存在であった。ハンガリー王がポーランド王となり、その娘がリトアニア大公と結婚する。両国の国境係争を解決する目的があった。娘ヤギェウォが王女につくと、1410年ポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団を破り、1466年バルト海への出口を回復する。ここに西ヨーロッパへ大量の穀物や木材を輸出して繁栄の時期が訪れる。
 1569年、ポーランドにリトアニアが統合され、ポーランドは北はバルト海から南は黒海にまで拡がった。その住民はポーランド人、ウクライナ人、ロシア人、リトアニア人、ハザール(ユダヤ)人など様々な民族から成り立っていた。
 ユダヤ人は、はじめ大都市に住んでいたが、やがてポーランドの全域に集落「シュテトゥル」を作って生活した。彼らのうちの大部分は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜作りなどによって暮らしていた。17世紀に入るまでポーランドのユダヤ人は、政府から自由を与えられ、生活はうまくいっていた。経済の分野で重要な役割を受け持っていたユダヤ人も多くいた。
 ポーランドのユダヤ人の数は、16世紀のはじめ頃は5万ぐらいであった。17世紀半ばには35万人、人口の10%に及よんだ。君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化もこの地で栄えた。18世紀の半ばには75万人以上になったといわれる。

 1648年、ウクライナ地方を支配するコサック達がポーランドに対し反乱を起こした。この地に進出したポーランド貴族に、コサックは防衛を担う代償として「俸禄と特権の向上」を求め、貴族は拒絶する。農民の反乱も結びつき戦争状態となった。1648年から1658年にかけてユダヤ人の虐殺(ポグロム)が行われる。
 穀物ブームが去ったこの時期、富と権力は一部の大貴族の手に集中し、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃、議会は「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の乱用で機能しなくなる。
 やがて、ロシア・プロイセン・オーストリアの近隣強国の内政干渉を受け、1772・93・95年と三次にわたる分割の結果、ポーランドはヨーロッパの地図から消えた。


 コサック

 キエフ・ルーシ汗国は、周辺のスラヴ族を討ってルーシ族を各地に封じて、先住スラヴ農民の移動を禁止し農奴化していった。
 1240年キエフにバトゥ(チンギス・ハンの孫)の率いるモンゴルが侵入し、キエフ公以下諸侯はこれに従属した。ジュチ(チンギス・ハンの長男)以後250年にわたって全ロシアはモンゴルの支配に服した。

 13世紀にキプチャク汗国に取り入ったイヴァン1世がウラジミール大公の称号をもらい、キエフ・ルーシ時代に小さな村だったモスクワを首都にした。イヴァン3世(位1462〜1505)は、キプチャク汗国から独立を宣言し(1480)、ノヴゴロドなどを征服。滅亡したビサンツ帝国の娘と結婚し、孫のイヴァン4世(位1533〜1584)は、ツァーリ(皇帝)を名乗るに至る。彼は貴族を徹底的に押さえ、領土の半分を直轄地にし中央集権体制を敷いた。
 その後、一時ポーランドに侵略されるが、1612年国民軍がモスクワからポーランド軍を追放する。翌年、全国会議がミハイル・ロマノフをツァーリに選出、帝政ロシアが誕生する。ロマノフ王朝は農奴制を強化し、1670年にコサックの首長ステンカ・ラージンと農民の反乱に代表されるように、たびたび反乱が起こる。
 ピョートル1世(位1682〜1725)の治世、ロシアのヨーロッパ化を進め、農民に徴兵令を出し軍隊を再編。バルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め、1712年に首都とする。

 「コサック」とは「群を離れた者」というトルコ系の言葉である。ポーランド占領下の14世紀から15世紀に、貴族としての権利が認められなかったキエフ・ルーシの豪族子孫を中心としてウクライナのステップ地帯にコサック団が出現する。
 コサックは、全員、平等な資格で総会に臨み、互選によって軍団の長「アタマン」を選び出す。 同盟、開戦などコサック全体の運命にかかわる重要事項は、総会で決定され、すべてのコサックが平等な発言権をもっていた。

 17世紀前半まで、ロシアは外敵の侵入に対してコサックを必要としていた。 そこで、コサックの内政には干渉せず、コサックの自治を許していた。ロシアが大国へと成長すると、有力者を抱き込み、コサック軍団全体をロシアの支配下におくようになった。
 第一次世界大戦までロシアではコサック地区が存続し、裁判権も含めて高度な自治が許されていた。ロシアの徴収兵はキリスト教徒に限定され、他の宗教の信者は税を余分に支払って免除を受けた。この正規軍の指揮下にコサック軍団が組み入れられる。カービン銃を除き、馬や軍装すべてコサックの負担だった。コサック軍は全員騎兵で偵察・伝令で重要な役割をはたす。馬は西ヨーロッパの馬と比較すると一回り小さく、長距離に耐え、餌も少なく済んだ。拍車はなく鞭をもった。

 ウクライナ

 穀倉平原ウクライナにはスラヴ系のウクライナ人が6世紀に定着していた。農耕民である。彼らはバイキングの末裔をルス(ルーシ Rus’)と呼んだ。ロシア(Russia)はこのRus’に由来する、帝政ロシアはバイキングの末裔といえる。モスクワにも農奴として生きたスラヴ系の農耕民はいた。民族としてのロシア人があるなら、彼らがロシア人だろう。

 国家としての存亡史を追うと、それは支配者の歴史になる。だが、定着民の視点に立てば、もう一つの歴史が見えてくる。この中央アジア平原は、騎馬民族の往来による複雑な様相が重なることに留意が必要だ。
 ウクライナに目を止めてみよう。帝政ロシアの農奴として生きたスラヴ系農耕民、彼らを支配したのはカザール汗国であり、キエフ・ルーシであり、ポーランド貴族であり、モンゴルであり、ルーシ族のツァーリであった。またウクライナ・コサックでもあった。結局、スラヴ系農耕民、ウクライナ人が、めまぐるしく変わる支配者を支えていたといえる。
 この交錯する人種の歴史に、宗教の歴史が重なる。ビザンチン(東ローマ)の後継であるギリシャ正教の世界に、ユダヤ教が残された。ユダヤ教を信じる者を「ユダヤ人」と定義すれば、本来のセム系ユダ族とは無縁だが「ユダヤ人」として人種問題に置きかえられ、いっそう様相を複雑にする。
 ユダヤ人には2系統あり、離散後、イスラム教のスペインに留まった「スファラディ」と「アシュケナジー」がいる。中央アジアのカザール汗国に由来するのがアシュケナジームだろう。

 歴史の上でロシアで起こった「ポグロム」。なぜ悲しい歴史があったのか。なぜロシアなのか。それを理解するためには、これだけの歴史の旅をする必要があった。

 推論として許されるなら、「コサック」と「アシュケナジーム」は同じカザール人の末裔ではなかったか。

 835年、カザールの貴族がボルガのロストフの地に亡命する。ロストフはドン・コサックの故地。ユダヤ教を国教とするカザール汗国から離反し「群を離れた者」はユダヤ教徒になれなかった民であろう。大国ポーランド占領下の14世紀から15世紀に、貴族として認められなかったキエフ・ルーシの豪族子孫がウクライナ・コサック。キエフ・ルーシはカザールの血を引く。彼らコサック団の「総会」による民主制は、まさに遊牧民騎馬民族のそれである。

 15世紀から16世紀の大国ポーランド。ユダヤ教を国教としたカザール汗国の末裔は、ここで君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化を栄えさせている。一説には、17世紀半ばに35万人、人口の10%に及よんだといわれる。ただ、大国ポーランドに流入したのではなく、ユダヤ教徒の多い地域がポーランド領になったのである。第二次世界大戦のあと確定した現在のポーランド国境は、当時の国境から200km西に平行移動した事情がある。

 多くのユダヤ教徒が住むウクライナ。帝政ロシアの農奴として生きる農耕民には不満があった。キリスト教徒の中で、独自のコミュニテイで生きるユダヤ教徒は、いつも不満による攻撃の対象になる。ましてや、生きるために君侯に重用される術を選んでいれば、体制側と見なされる。1000年前、ユダヤ教をめぐり別れた「コサック」は「アシュケナジーム」を守りはしなかった。

 18世紀の半ばに、ポーランドの「アシュケナジーム」が75万人以上になったといわれるのは、このためと推論することができる。


 マルク・シャガール

 Marc Chagall (1887-1985)

1887年 ロシアのヴィテブスクでユダヤ商人の家に生まれる
1907年 首都ペテルブルグの帝室美術奨励学校に入る。
同校のアカデミックな教育に馴染めず、ロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していたレオン・バクストの美術学校で学ぶことになる。後に妻となるべラと出会う。
1910年 パリのモンパルナスへ。前衛芸術家らと親交、キュビスムの影響をうける。
1914年 ベルリンのデア・シュトゥルム画廊で初めての個展
1914年 ロシアのヴィテブスク(現ベラルーシ)に帰郷。
1915年 べラと結婚
1917年 ロシア10月革命
1919年 革命政府より美術行政の要職を任され、ヴィテブスクに美術学校を創設し校長に。翌年、イデオロギー闘争で辞職。
1920年 モスクワでユダヤ芸術劇場のための装飾などを制作
1922年 リトアニアでの個展。ロシアを去る。版画技法を学ぶ。
1923年 パリへ。画商ヴォラールからの注文で「死せる魂」「寓話」「聖書」などの挿画のための版画を制作
1924年 初の回顧展
1926年 ニューヨークで個展
この頃より、シュールレアリストたちから支持されはじめる。
1933年 バーセル美術館で回顧展
1937年 フランス国籍取得
1939年 カーネギー賞受賞
1941年 渡米
1944年 妻のべラ死去
1946年 NY近代美術館で個展
1947年 フランスに戻る。パリ近代美術館で回顧展
1948年 ヴェネチッア・ビエンナーレの版画部門で受賞
1950年 南仏ヴァンスに転居。チューリッヒ美術館で回顧展
フェルナン・ムルロ工房でリトグラフに取り組む。以後、作品はすべて同工房で制作
1952年 ユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚
1958年 ステンドグラスの制作を開始
1960年 フランスの文科大臣アンドレ・マルローがパリ、オペラ座の天井画を依頼。
1964年 天井画完成
1963年 東京と京都でシャガール展開催。
1966年 シャガールは17点からの連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈。
1967年 生誕80年を記念してチューリッヒとケルンで回顧展 1973年 ニース市にシャガール美術館が開館。
1976年 日本でシャガール展開催。
1985年 ヴァンスで死去
 初期のシャガールは、生まれた村を多く題材にしている。例えば「Autumn in the Village」。 木の繁みにヤギとバイオリンを持つ少女が描かれている。シュテートルで行われる結婚式には、クレズマー楽団がつきもの。オーケストラのバイオリンとはちがった雰囲気で、フィドル(バイオリン弾き)を中心に、クラリネットや打弦琴ツィンバロンやドラムが伴奏した。

 フランス国籍を取ったシャガールは、戦後、石版画による物語の挿し絵を多く画いた。ギリシャの物語、ダフニスとクロエの出逢いから結婚までを、春から秋の季節の中で描いている。2度のギリシャ取材旅行と12年の歳月をかけている。夢のようなイメージの画風によく合っている。この製作の中で、旧約聖書とギリシャ神話を比較し、彼は何を思ったのだろう。興味がわく点だ。


 牛乳屋テヴィエ

 ブロードウエイミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作。

 20世紀初頭のウクライナを舞台に、アナテフカという小さな村に住むユダヤ人の牛乳屋・テヴィエの生活と5人の娘を描き、当時のユダヤ教徒の日常を書留めている。貧乏人の子沢山のテヴィエは、古いしきたりと娘達の今風の考え方に挟まれながら、旧約聖書を格言集にし、乳製品の製造販売で生計を立てている。娘達を暖かく送り出すと、そこへ降って湧いたようなユダヤ人退去命令。一家はアメリカに向け、故郷を静かに去っていく。

 作者ショラム・アレイヘム(Sholom Aleichem 、1859―1916)はウクライナ生まれのユダヤ人。1894年の『われ、とるに足らぬ者』から1914年の『出て行け!』まで手紙形式で9つの作品からなる。ヘブライ語で出版するが売れず、ロシア東欧のユダヤ人が話していたイディッシュ語で作品を書き、成功する。
 革命の混乱の中、ロシア各地でポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生。1905年ロシアを脱出、病気療養などでヨーロッパを転々とし、1914年アメリカへ渡る。ニューヨーク没。

 ユダヤ教徒は父親が娘の婿を決める伝統であった。嫁入りの持参金も用意できなテヴィエは、仲人に婿探しを頼むこともできない。
 長女ツァイテルには、肉屋ラザール・ウォルフの後妻話しを決めていたが、若くて無一文の仕立て屋モーテルと恋に落ちてしまう。テヴィエは娘の幸せのため、許す事にした。
 次女ホーデルは、反政府運動をしている政治学生パーチックと恋仲になる。テヴィエは結婚を許しません。彼らはテヴィエに結婚の許可を得ようとはしません。自分達で決めるのだといいます。伝統は明らかに変わりつつあります。パーチックは捕らえられシベリアに送られ、ホーデルは彼についていこうとします。彼女は父親に、ユダヤ教の伝統的な方法である天蓋の下で結婚することを約束します。
 三女チャヴァはロシア軍人フョードカと恋に落ちています。彼はロシア人で、ユダヤ教信者でありません。娘は父親から遠ざかってしまいます。

 ユダヤ人に、この地を去ることが強制されます。三女チャヴァとフョードカはユダヤ教を信ずることもロシア人であることも望まずにポーランドに行きます。すでに子供のいるモーテル夫婦とテヴィエと妻ゴールデそして幼い二人の子供たちが、友人や親戚のいるアメリカに行くことを決心する。

 ユダヤ教の教えに、「屋根から落ちずにいつも平静を保つようにな心でヴァイオリンを弾くんだ」というのがあるそうだ。シャガールにも「緑のヴァイオリン弾き」という作品がある。ブロードウエイミュージカル『Fiddler on the Roof 』の原題は、昔ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事から来ている。



2004.8.20
by Kon