カザールの海 |
ポーランド |
ゲルマン人が移動した東ヨーロッパ各地にインド・ヨーロッパ語族のスラヴ人がカルパティア山脈から移住した。6世紀頃である。 西方にポーランド人・チェック人・スロヴァク人。東にロシア人・ウクライナ人。南にはセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人であった。 |
西スラヴ人のポーランドは、966年ローマ・カトリックに改宗し、平原の農耕国としてカトリックだけでなく、ギリシア正教徒、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒といった異なる信条を持つ人々が、比較的平和に共存していた。 一時キエフを占領するほどの勢いを示したが、12世紀前半から侯国に分裂、ドイツ人による騎士団国家の成立、1241年モンゴル軍侵入等でまとまりを欠いていた。 14世紀前半、ポーランドは統一を回復する。貴族たちの荘園に分割され、商業も隣国ドイツほど発展していなかった。そこで王侯や貴族は、国の建設にユダヤ人たちを一種の「代用市民階級」として保護し、1334年以来特権を与え、独自の自治組織を作らせた。 マグナート(大貴族)が実権を握るポーランドでは国王は象徴的存在であった。ハンガリー王がポーランド王となり、その娘がリトアニア大公と結婚する。両国の国境係争を解決する目的があった。娘ヤギェウォが王女につくと、1410年ポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団を破り、1466年バルト海への出口を回復する。ここに西ヨーロッパへ大量の穀物や木材を輸出して繁栄の時期が訪れる。 1569年、ポーランドにリトアニアが統合され、ポーランドは北はバルト海から南は黒海にまで拡がった。その住民はポーランド人、ウクライナ人、ロシア人、リトアニア人、ハザール(ユダヤ)人など様々な民族から成り立っていた。 ユダヤ人は、はじめ大都市に住んでいたが、やがてポーランドの全域に集落「シュテトゥル」を作って生活した。彼らのうちの大部分は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜作りなどによって暮らしていた。17世紀に入るまでポーランドのユダヤ人は、政府から自由を与えられ、生活はうまくいっていた。経済の分野で重要な役割を受け持っていたユダヤ人も多くいた。 ポーランドのユダヤ人の数は、16世紀のはじめ頃は5万ぐらいであった。17世紀半ばには35万人、人口の10%に及よんだ。君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化もこの地で栄えた。18世紀の半ばには75万人以上になったといわれる。 1648年、ウクライナ地方を支配するコサック達がポーランドに対し反乱を起こした。この地に進出したポーランド貴族に、コサックは防衛を担う代償として「俸禄と特権の向上」を求め、貴族は拒絶する。農民の反乱も結びつき戦争状態となった。1648年から1658年にかけてユダヤ人の虐殺(ポグロム)が行われる。 穀物ブームが去ったこの時期、富と権力は一部の大貴族の手に集中し、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃、議会は「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の乱用で機能しなくなる。 やがて、ロシア・プロイセン・オーストリアの近隣強国の内政干渉を受け、1772・93・95年と三次にわたる分割の結果、ポーランドはヨーロッパの地図から消えた。 |
コサック |
キエフ・ルーシ汗国は、周辺のスラヴ族を討ってルーシ族を各地に封じて、先住スラヴ農民の移動を禁止し農奴化していった。 1240年キエフにバトゥ(チンギス・ハンの孫)の率いるモンゴルが侵入し、キエフ公以下諸侯はこれに従属した。ジュチ(チンギス・ハンの長男)以後250年にわたって全ロシアはモンゴルの支配に服した。 13世紀にキプチャク汗国に取り入ったイヴァン1世がウラジミール大公の称号をもらい、キエフ・ルーシ時代に小さな村だったモスクワを首都にした。イヴァン3世(位1462〜1505)は、キプチャク汗国から独立を宣言し(1480)、ノヴゴロドなどを征服。滅亡したビサンツ帝国の娘と結婚し、孫のイヴァン4世(位1533〜1584)は、ツァーリ(皇帝)を名乗るに至る。彼は貴族を徹底的に押さえ、領土の半分を直轄地にし中央集権体制を敷いた。 その後、一時ポーランドに侵略されるが、1612年国民軍がモスクワからポーランド軍を追放する。翌年、全国会議がミハイル・ロマノフをツァーリに選出、帝政ロシアが誕生する。ロマノフ王朝は農奴制を強化し、1670年にコサックの首長ステンカ・ラージンと農民の反乱に代表されるように、たびたび反乱が起こる。 ピョートル1世(位1682〜1725)の治世、ロシアのヨーロッパ化を進め、農民に徴兵令を出し軍隊を再編。バルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め、1712年に首都とする。 「コサック」とは「群を離れた者」というトルコ系の言葉である。ポーランド占領下の14世紀から15世紀に、貴族としての権利が認められなかったキエフ・ルーシの豪族子孫を中心としてウクライナのステップ地帯にコサック団が出現する。 コサックは、全員、平等な資格で総会に臨み、互選によって軍団の長「アタマン」を選び出す。 同盟、開戦などコサック全体の運命にかかわる重要事項は、総会で決定され、すべてのコサックが平等な発言権をもっていた。 17世紀前半まで、ロシアは外敵の侵入に対してコサックを必要としていた。 そこで、コサックの内政には干渉せず、コサックの自治を許していた。ロシアが大国へと成長すると、有力者を抱き込み、コサック軍団全体をロシアの支配下におくようになった。 第一次世界大戦までロシアではコサック地区が存続し、裁判権も含めて高度な自治が許されていた。ロシアの徴収兵はキリスト教徒に限定され、他の宗教の信者は税を余分に支払って免除を受けた。この正規軍の指揮下にコサック軍団が組み入れられる。カービン銃を除き、馬や軍装すべてコサックの負担だった。コサック軍は全員騎兵で偵察・伝令で重要な役割をはたす。馬は西ヨーロッパの馬と比較すると一回り小さく、長距離に耐え、餌も少なく済んだ。拍車はなく鞭をもった。 |
ウクライナ |
穀倉平原ウクライナにはスラヴ系のウクライナ人が6世紀に定着していた。農耕民である。彼らはバイキングの末裔をルス(ルーシ Rus’)と呼んだ。ロシア(Russia)はこのRus’に由来する、帝政ロシアはバイキングの末裔といえる。モスクワにも農奴として生きたスラヴ系の農耕民はいた。民族としてのロシア人があるなら、彼らがロシア人だろう。 国家としての存亡史を追うと、それは支配者の歴史になる。だが、定着民の視点に立てば、もう一つの歴史が見えてくる。この中央アジア平原は、騎馬民族の往来による複雑な様相が重なることに留意が必要だ。 ウクライナに目を止めてみよう。帝政ロシアの農奴として生きたスラヴ系農耕民、彼らを支配したのはカザール汗国であり、キエフ・ルーシであり、ポーランド貴族であり、モンゴルであり、ルーシ族のツァーリであった。またウクライナ・コサックでもあった。結局、スラヴ系農耕民、ウクライナ人が、めまぐるしく変わる支配者を支えていたといえる。 この交錯する人種の歴史に、宗教の歴史が重なる。ビザンチン(東ローマ)の後継であるギリシャ正教の世界に、ユダヤ教が残された。ユダヤ教を信じる者を「ユダヤ人」と定義すれば、本来のセム系ユダ族とは無縁だが「ユダヤ人」として人種問題に置きかえられ、いっそう様相を複雑にする。 ユダヤ人には2系統あり、離散後、イスラム教のスペインに留まった「スファラディ」と「アシュケナジー」がいる。中央アジアのカザール汗国に由来するのがアシュケナジームだろう。 歴史の上でロシアで起こった「ポグロム」。なぜ悲しい歴史があったのか。なぜロシアなのか。それを理解するためには、これだけの歴史の旅をする必要があった。 推論として許されるなら、「コサック」と「アシュケナジーム」は同じカザール人の末裔ではなかったか。 835年、カザールの貴族がボルガのロストフの地に亡命する。ロストフはドン・コサックの故地。ユダヤ教を国教とするカザール汗国から離反し「群を離れた者」はユダヤ教徒になれなかった民であろう。大国ポーランド占領下の14世紀から15世紀に、貴族として認められなかったキエフ・ルーシの豪族子孫がウクライナ・コサック。キエフ・ルーシはカザールの血を引く。彼らコサック団の「総会」による民主制は、まさに遊牧民騎馬民族のそれである。 15世紀から16世紀の大国ポーランド。ユダヤ教を国教としたカザール汗国の末裔は、ここで君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化を栄えさせている。一説には、17世紀半ばに35万人、人口の10%に及よんだといわれる。ただ、大国ポーランドに流入したのではなく、ユダヤ教徒の多い地域がポーランド領になったのである。第二次世界大戦のあと確定した現在のポーランド国境は、当時の国境から200km西に平行移動した事情がある。 多くのユダヤ教徒が住むウクライナ。帝政ロシアの農奴として生きる農耕民には不満があった。キリスト教徒の中で、独自のコミュニテイで生きるユダヤ教徒は、いつも不満による攻撃の対象になる。ましてや、生きるために君侯に重用される術を選んでいれば、体制側と見なされる。1000年前、ユダヤ教をめぐり別れた「コサック」は「アシュケナジーム」を守りはしなかった。 18世紀の半ばに、ポーランドの「アシュケナジーム」が75万人以上になったといわれるのは、このためと推論することができる。 |
参考Webサイト 『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作とその作者の紹介
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