ポルスカ ポーレ |
ポーランド語で「ポルスカ」と呼ぶポーランド国は、チェコとスロヴァキアとの国境を除けば、ほとんど高い山は存在しない。その名のとおり「ポーレ」な
国土である。ポーレは平野、耕地を意味する。 16世紀、穀物輸出ブームでポーランドは経済的に潤い、クラクフを中心にルネサンス文化が開花した。『天体の回転について』(1543年)を出版したコペルニクス (1473-1543) はこの時代の人であった。 ポーランド人は、チェコやスロヴァキアと並び「西スラヴ人」に属する。 966年、この地を治めたミェシコ一世はローマ・カトリックに改宗し、東隣のロシアと違って、ラテン文化圏に位置する。 豊かさの中、カトリックだけでなく、ギリシア正教徒、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒といった異なる信条を持つ人々が、比較的平和に共存していた。穀物ブームで儲けた貴族(シュラフタ)は、多くの特権を持ち、議会での代表権も独占しており、1572年に王家が断絶すると選挙で国王を選ぶようになる。「シュラフタ民主制」と呼ばれる政治文化が発展した。 |
プロイセン公国 |
9世紀頃、西スラヴ人のポラーニェ族が、ピャスト家を中心に周辺の部族を統合し、統一国家を形成する。一時キエフを占領するほどの勢いを示すが、12世紀前半から王家内部の対立によっていくつかの侯国に分裂する。13世紀頃からドイツ騎士団による東方植民が始まり、1230年にバルト海への出口をふさぐ格好でドイツ人の騎士団国家が成立する。1241年、東からのモンゴル軍侵入にポーランド軍は大敗を喫している。 ようやく14世紀前半カジミェシュ大王の下、ポーランドは統一を回復する。大王は法典を整備し、クラクフに大学を設立し、またユダヤ人を保護して、国力の強化に努めた。しかしカジミェシュには後継者がなく大王の死後、甥でハンガリー王がポーランド王となり、その娘はリトアニア大公と結婚して、ヤギェウォ王朝が始まった。1410年、ポーランド・リトアニア連合軍はドイツ騎士団を破り、1466年バルト海への出口を回復する。ここに西ヨーロッパへ大量の穀物や木材を輸出することが可能となる。衰退したドイツ人騎士団国家は、1525年にポーランド国王に臣従するプロイセン公国となっている。 |
国家と民族 |
ポーランド・リトアニア連合の領土はバルト海から黒海までに膨張し、一大複合民族国家となった。国土が東に広がったため16世紀末に首都をワルシャワに移し、17世紀初頭には一時モスクワまで進出した。 穀物ブームが去った17世紀半、富と権力は一部の大貴族の手に集中し、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃、議会は「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の乱用で機能しなくなる。 やがて、ロシア・プロイセン・オーストリア(ハプスブルク)の近隣強国の内政干渉を受け、1772・93・95年と三次にわたる分割の結果ポーランドはヨーロッパの地図から姿を消した。 国家が存在しない民族を支えたものは、言語(ポーランド語)、宗教(カトリック教会)、芸術(例えばショパンの音楽)など、広い意味での「文化」であった。分割列強、とくにロシアとプロイセンは検閲を強化し、ポーランド語の使用を制限するなど同化政策を進めたが、ついにこの「文化」を滅ぼすことはできなかった。 |
ポーランド復活 そして再び地図から消える |
1918年、第一次世界大戦とロシア革命の結果、ポーランドを分割していた三帝国が倒れたことによってポーランドは大統領と議会をもつ立憲国家として復活する。現在よりも国土は東に広がっており、ポーランド人以外にユダヤ人、ウクライナ人、ドイツ人等が共存する多民族国家であった。 1939年8月23日、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を交わす。「1.相手国に対し、単独でまたは他国と共同して、いかなる侵略行為にでることも、いかなる攻撃を加えることをもしない。2.相手国のいかなる交戦敵国に対しても援助を与えない。3.相手国に敵対的な集団には、たとえ間接的にも参加しない」。さらに、この条約に「ポーランドの領土的・政治的再編については、ナレフ・ヴィスワ・サンの河川をドイツとソ連との勢力圏の境とする」という秘密議定書が交わされていた。 1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランド・ドイツ不可侵条約を破ってポーランドに侵入し第二次世界大戦が勃発、9月17日ソ連もポーランド東部に進入、独立回復から20年余りでポーランドは再び地図から消える。政府首脳は国外に逃れ、ロンドンに亡命政府を樹立、国内では地下闘争組織が作られてゆく。 1939年11月にクラクフのヤゲウォ大学の全教官が逮捕された。そして、戦争が終わるまでに、ポーランドの医師の45%、裁判官・弁護士の57%、教師の15%、大学教授の40%、高級技師の50%、初級・中級技師の30%、聖職者の18%を失った。中等以上の教育施設は閉鎖されるか解体され、図書館や公文館は閉鎖された。占領地域ではポーランド語を話すことさえ許されなかった。 この戦争がポーランド人に及ぼした被害は甚大なものであった。中でも苛酷な運命に直面したのはユダヤ人であった。ゲットーに隔離されたのち、オシフェンチム(アウシュヴィッツ)やマイダネク等の絶滅収容所に送られた。 残虐な統治を行なったのはナチスだけではなかった。ソ連占領下の住民も収容所に送られるなど、多くの人命を失った。特に1940年に4、000名を越えるポーランド軍将校がカティンの森で殺害された事件は、ベルリンの壁崩壊までソ連政府により隠し続けられた。 |
カティンの森 |
1939年9月17日ソ連が独ソ不可侵条約に基づいてポーランド東部に侵攻する。占領下のポーランド軍を解体し、その将校全員を捕虜とし、1940年の夏までにスモレンスク周辺の3つの収容所に拘束していた。
1941年1月、ドイツがルーマニアに軍隊を送り、3月にブルガリアに進駐する。4月にソ連とユーゴスラビアとの間に友好不可侵条約が締結され、ソ連とドイツの不和は明確になる。ドイツはこの条約が公表された4月6日にユーゴスラビアを攻撃し、1週間で降伏させる。独ソ不可侵条約は破棄され、ドイツ軍のソ連侵攻が始まる。 1942年11月19日にスターリングラードでソ連軍は反攻を開始し、1943年2月にはドイツ軍のソ連退却が始まることになる。 1943年4月13日、ドイツのゲッベルス宣伝相はドイツのラジオ放送を通じ、スモレンスク郊外のカチンの森でソ連当局によって1940年春から夏に殺害されたと思われる数千人のポーランド軍将校たちの遺体を発見したと発表した。全ての将校が頭部をピストルで撃ち抜かれており、そのままの姿で埋められていた。ソ連側はこのドイツの発表に直ちに反論し、ナチスがこの大量処刑を行ったと主張した。 ポーランドでは、独ソ二敵論が主流であり、亡命政府もそうであった。いっさいの妥協を拒んでいた。だが、1941年7月30日にポーランド閣僚の一斉辞任により、ソ連ポーランド協定が調印される。これは、ソ連の作戦におけるポーランド軍の創設、ソ連領で自由を奪われているポーランド人全員に恩赦を与えることをソ連側に同意させたものだった。 主権国家ポーランドの軍隊を再編し、ソ連駐留のポーランド兵として俸給、食糧を赤軍兵士と同様に受ける権利ができた。だが、ポーランド軍の創設に出頭してきた将校の人数は極端に少なかった。 ポーランド政府は消えた将校たちの消息を何度も尋ねたが、ソ連は十分な回答をしていなかった。そこで、ポーランド政府はスイスの国際赤十字にこの事件の調査依頼をしたが、ソ連の同意は得られず、このポーランド政府の行動をソ連に対する敵対行為とみなし、ポーランドとの外交チャンネルを断絶する。 |
ワルシャワ蜂起 |
1944年8月1日、ポーランド国内地下組織がワルシャワでドイツ軍に対して一斉蜂起する。ワルシャワの中心を南北に流れるヴィスワ川の対岸まで、ソビエトの赤軍が迫ってきている情勢下であった。
63日間続いたワルシャワ蜂起は敗北に終り、ワルシャワの街は破壊し尽くされた。蜂起によるポーランド側の死者はワルシャワ人口の5分の1にあたる20万人といわれる。翌45年の1月、ソビエト赤軍はヴィスワ川を越え、ワルシャワを解放した。しかし、44年8月1日のワルシャワ蜂起に赤軍は動く事はなかった。 毎年8月1日は、ワルシャワ蜂起の記念日である。無数の市民がこの日、ワルシャワ中心部に程近い市内最大の墓地に集い、若くして散っていった戦士達に花を捧げ、キャンドルに灯を灯す。だが、これもベルリンの壁崩壊以後の風景である。 |
異議申し立て |
第二次世界大戦の多大な犠牲は、ソ連の東欧支配を黙認した「ヤルタ協定」で報われることはなかった。
ポーランドは,東方の領土をソ連に譲る代わりに西方でドイツ領土を与えられ国境線が確定する。一つに非ポーランド系住民の比率の高かった東部地域を失ったこと、二つに西方はナチスがユダヤ人を排斥した、この事により戦後のポーランドは、ほぼ単一宗教・単一民族国家として再生する。実に、新生ポーランドは全体として約200キロ西へ移動して復活したことになる。
1944年夏、ワルシャワ蜂起で苦闘した世界最大規模の地下組織「国内軍」勢力は、反ソ的と徹底的に弾圧される。1948年12月、労働党と社会党の合同した「統一労働者党」の支配が確立、その後は共産圏の一員として生きるのであるが、ポーランドほど繰り返し国民の異議申し立てが体制を揺るがした国はなかった。 1989年選挙で「連帯」の圧勝がポーランドの共産党政権を崩壊させる。そして、それがソビエト連邦の崩壊につながって行った。 |
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