イベリア半島からの知恵




 イベリア半島

 アフリカ北岸のモロッコ・アルジェリア・チュニジア地方はマグリブ地方と呼ばれる。マグリブは、アラビア語でエジプトの「西」を意味する。
 ヨーロッパ人からムーア人と呼ばれたマグリブ先住民,ベルベル人は、ハム系を主とするネグロ、セム系の混血であったようだ。

 西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハージャ族長が1039年にメッカに巡礼する。イスラム法学者の教説に感銘を受け、その弟子の1人を伴って帰る。宗教的な結びつきでムラービト朝(1056〜1147)を樹立した。
 首都マラケシュを建設し、聖戦(ジハード)をおこし、北に軍を進め、モロッコからアルジェリアの肥沃な農耕地帯を支配し、南下して西アフリカのガーナ王国(8世紀頃〜1076)を併合する。

 イベリア半島南部、アンダルシアのイスラム教徒が、キリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)で援軍派遣を求めてきた。求めに応じ、カスティリャの軍を破り、グラナダ・コルドバ・セビリアなどを攻略し、アンダルシア地方をムラービト朝の領土とした。

 1236年、イベリア半島でレコンキスタが進展し、後ウマイヤ朝の首都コルドバがキリスト教徒に占領される。
 1492年にスペイン軍はグラナダを落し、これによってレコンキスタは完了し、イスラム教徒はアフリカに押し返された。コロンブスがアメリカ大陸に到達した年であった。

 インド・アラビア・ギリシア・エジプトなどの説話を集大成した「アラビアン・ナイト」(千夜一夜物語)は、イスラム文明そのもので、先進文明を取り入れ、混ぜ合わせて出来た文明である。
 イラン・イスラム文明、トルコ・イスラム文明、インド・イスラム文明など多様性を認める。イスラム教徒の著作がアラビア語からラテン語に翻訳され、後のルネサンス開花の基底となった。

 イスラム文化は都市文明であり、商人、手工業者の知恵ともいえる。ギリシアの幾何学やインドの十進法とゼロの観念を吸収して発展させた。今では、アラビア数字は世界標準である。
 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記したが、大きな数字に苦労する。例えば1はI、5はV、10はX、50はL、100はC。80はLXXXのようになるが、0を付け加えるだけで桁上がりするアラビア数字は画期的であった。

 イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)を教義の中心とする。聖典の「コーラン」は、ムハンマドに下されたアッラーの啓示を記録したもので、114章から成る。第3代カリフの時代、650年頃に現在の形にまとめられ、アラビア語で書かれている。他の言語へ翻訳したものは、聖典とは認められない。

 スペイン

 中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義やカトリック教会の教えに反する考え方は許されず、合理的な学問の発達は妨げられていた。
 イタリアのトマス・アクィナス(1225頃〜74)は、ナポリ大学で学んだ後ドミニコ修道士となり、パリ大学で教え、帰国後ローマの修道院で研究し、「神学大全」を著した。キリスト教の教義自体に哲学はなく、アリストテレス哲学を取り入れ神学が形成された。スコラ哲学と呼ばれる。

 12世紀、イスラムやギリシアの文献がアラビア語やギリシア語からラテン語に翻訳される。  イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリアを中心とする南イタリア経由で西ヨーロッパに伝えられた。

 12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属の神学校の教授学生組合が発展してパリ大学ができる。ソルボンによって創始された神学部はヨーロッパ神学の最高権威となる。
 ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南にあったサレルノ大学。イスラムから受け入れた医学で有名で、ギリシアの医学者ヒポクラテスの研究に基づく講義が行われていた。
 北イタリアのボローニャ大学は11世紀末に設立され、ローマ法と教会法で有名になると全ヨーロッパから学生が集まり、13世紀中頃には学生数が1万人に達した。学生は相互扶助を目的としてウニヴェルシタス(universityの語源)を結成していた。教授に対しても講義ボイコットの伝統があり、教授は学生の中から選ばれたレクトル(学長)に服従の宣誓をするようになっていた。

 イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを引き上げた学生達によってパリ大学を模範として設立された。神学部を中心として、多くの優れた学者を輩出した。
 ケンブリッジ大学は、13世紀の初めにオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて設立され、法学で有名であった。

 12世紀イベリア半島では、カスティリア・アラゴン・ポルトガルの3国が強大となり、キリスト教徒がイベリア半島の北半を奪回していた。
 半島の南端に追い込まれたイスラム教徒は、ナスル朝(グラナダ王国、1230〜1492)を建て、グラナダを首都とした。グラナダはヨーロッパにおけるイスラムの政治・軍事・文化の最後の拠点で、グラナダに残るアルハンブラ宮殿は世界で最も美しい建築物に数えられている。

 13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了すると、共通の目標を失ったカスティリア・アラゴン・ポルトガルなど諸国間で対立が激しくなり、14・15世紀には混乱が続いた。
 カスティリア国王ファン2世(位1406〜54)の娘イサベルは、1469年にアラゴン王子のフェルナンドと結婚した。イサベルは兄の後を継いでカスティリア国王となり(1474)、夫のフェルナンドも父の死後アラゴン王となったので(1479)、カスティリア・アラゴン両国は合邦してスペイン(イスパニア)王国となる。
 スペインは、1492年にグラナダを陥れ、レコンキスタが完了する。イサベルが後援したコロンブスの船団がサンサルバドルに到達したのも同じ年であった。国内では勃興しつつあった都市と結んで貴族勢力を抑え、スペイン絶対王政の基礎を築いた。

 フェルナンドの娘のファナが、ハプスブルク家のフィリップと結婚。その子カルロス1世(位1516〜56)が即位し、スペイン・ハプスブルク王朝が始まる。

 カルロス1世は、神聖ローマ皇帝に選出され(1519)、スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ね、その領土はスペイン・ネーデルランド・ナポリ・シチリア・ドイツ・オーストリア・新大陸に及んだ。

 カルロス1世の後を継いだフェリペ2世(位1556〜98)は、ポルトガルの王統が絶えると、母イサベルがポルトガル王女であったことからポルトガルを併合する(1580)。当時のポルトガルはアフリカ・アジアに多くの植民地を領有していたので、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。

 フェリペ2世は、1571年にヴェネツィアとの連合艦隊でオスマン・トルコ海軍を破って地中海の覇権を奪い、新大陸から流入する膨大な金・銀とあいまってスペインの全盛時代を築いた。
 しかし、熱狂的なカトリック教徒であった彼は、反宗教改革の中心となり、宗教裁判を強化し、異端を弾圧した。特にカルヴァン派が普及していたネーデルランドに厳しいカトリック政策をとり、ネーデルランド独立運動(1568〜1609)を招くこととなった。


 イベリア半島のユダヤ人(セファルデイム)

 誕生間もないゲルマン社会は、まだ荒地を耕す必要があった。豊かなイスラム世界との交易は欠かせないので、窓口としてユダヤ人をつかう。フランク王シャルルマーニュ(カール大帝、位800〜814)は8世紀末にバグダッドのカリフに使者を送るが、ガイド役を務めたのはユダヤ人だった。フランク王は、香料や絹を輸入し、逆に黒海北部の奴隷(slave、スラヴ人)をイスラム世界に輸出していた。

 イベリア半島では、カスティリア王アルフォンソ6世(1040-1109)は財務に明るいユダヤ人たちを雇い、ユダヤ系知識人によりアラビア語のギリシャ古典を盛んにラテン語に翻訳させていた。

 11世紀、ゲルマン社会で商工業が発達し、新興の商人層が台頭してくると、ユダヤ人は逆境に立つ。ギルドは守護聖人への誓約の上に成り立った組織で、ユダヤ人を排除する良い口実になった。第一回の十字軍(1096年)の遠征では、リヨンやマインツ、プラハなどの豊かなユダヤ人街が襲撃され、以降ヨーロッパ全域に広っていく。
 1215年の第4回ラテラノ会議で、キリスト教徒によるキリスト教徒への利息付き金貸しが厳禁され、ユダヤ人が全ての公職、ギルドから追放される。
 「高利貸し」のユダヤ人という風潮は、この頃の時代背景による。ペスト流行の時など、多数のユダヤ人が殺され、「借り証文」が一緒に焼かれた。


 ユダヤ人迫害は、宗教的な「キリストを裏切ったことに対する憎しみ」であったが、絶対主義で没落しかけた封建貴族には、ユダヤ人の能力に対する「妬み、反感」がおこり、「人種差別」の感情が混在するようになる。

 イスラム教徒と平和に共存していたユダヤ人は、イベリア半島でキリスト教に改宗した者も多い。ハプスブルク家は、貿易や財産管理にユダヤ人の能力を必要としていた。 宮廷ユダヤ人は、改宗し貴族になっただろう。
 だが、改宗ユダヤ人は、隠れユダヤ教徒(マラノ“豚”)ではないかと疑われる宿命を持っていた。1478年、母方にユダヤ系をもつフェルナンドは、熱狂的な聖職者のすすめで異端審問所を設け、「隠れユダヤ人」を取り締まった。怪しいものは引き出され、自白を迫られ、罪状にあわせて鞭打ち、財産没収、投獄、火あぶりの刑に処せられた。1492年1月グラナダが陥落、同年3月に、すべてのユダヤ人に対し4カ月以内にスペインから退去するよう通告される。そして、8月に最後のユダヤ人がスペインを後にした。

 イベリア半島を追われた25万のユダヤ人は、比較的寛容なオスマン・トルコやネーデルラント、イタリアの諸都市に逃れていった。
 ダイヤ加工(アントウェルペン)や珊瑚加工(イタリア)などを除けば、やはり金貸し業に流れる人が多かった。

 イタリアの都市での平和は、1555年にパウロ4世が宗教改革はユダヤ人の謀略だと迫害を始めるまで続いた。
 1516年、ヴェネツィアで全ユダヤ人を市内の一区域に居住するようになる。その場所が大砲工場の跡地であったために、鋳物工場を意味するジェットーが後のゲットーになった。

 イギリスの援助を受けながら、スペインに対してゲリラ戦を展開し、オランダは、1568年から1609年まで独立戦争をつづける。
1585年、繁栄していたアントワープは一時占領され、アントワープは衰退、アムステルダムが政治・経済・文化の中心になっていた。

 アムステルダムで世界貿易にユダヤ人が活躍する。オランダ東インド会社は、世界最初の株式会社だった。この株式の売買に最も熱中したのはユダヤ人だった。投機がピークに達した18世紀には株式の4分の1がユダヤ人名義であったといわれる。

 彼らの一部は、より大きな自由を求めて1650年新大陸にわたり「ニューアムステルダム」現在のニューヨークを建設した。最初にやってきたのは23人。その後1825年までに約1万人のユダヤ人がアメリカに住みついた。

 次いで1820年代から1860年代にやって来たのは、ドイツ系ユダヤ人である。彼らは無一文でアメリカにやってきたが、行商人から町が大きくなるにつれて大・中企業家へと変身した。ニューヨーク最初のB・アルトマン百貨店や、メイシー百貨店をはじめとして、大きなデパートのほとんどがドイツ系ユダヤ人のものだった。

 1880年代にはいって、次ぎにやってきたのが同じドイツ系でも東欧のユダヤ人であった。約27万人であったユダヤ人の人口は、約30年間で200万人に膨れ上がった。彼らはロシアでおこったポグロム(大虐殺)の難を逃れて来た。彼らは貧しく、多くのものはその日ぐらしの単純労働者として暮らすことになった。持前の勤勉さで、子供を学校に通わせ、自分達も夜学に通った。当時授業料が無料のニューヨーク市立大学はユダヤ人生徒で一杯だった。

 ジョン・ロー (John Law), 1671-1729

 1715年、フランスでルイ14世が77歳で死去し、わずか5歳の曾孫、ルイ15世が即位した。孫のオルレアン公フィリップ2世が摂政となる。ルイ14世の残した莫大な借財のツケでフランスの財政事情はひどいものだった。

 決闘をしたことでイギリスからヨーロッパに追放されたスコトランド人、ジョン・ローは、パトロンとフィリップ2世が友人てあったことで宮廷に入り込んだ。オルレアン公はローに相談してみた。

 ローは、「国富とは通貨であり、通貨の増大こそ国富の増大である」と、単純明快な理論をオルレアン公に進言し、国営特許銀行を設立して、非兌換紙幣を発行することを提案した 。 Banque Generale が、1716 年に設立される。

 この銀行の紙幣で、借金証文を償還する方法は、みごとに成功した。オルレアン公は、ローをフランスの財務総監に就任させ、彼の銀行を「王立銀行」に昇格させる。
 「王立銀行」が発行する銀行券は、望めば金貨と交換する事ができる約束だった。評判が良く、紙幣の追加発行がされていった。

 一方、フランス中の貿易会社を大合同させ、アメリカのルイジアナ(植民地)で金鉱を探す「ミシシッピ会社」を創設、この株はBanque Generaleの紙幣で購入できる、というわけだ。1717年Banque Generaleはルイジアナ運営と貿易の独占権(特許)を得ている。

 ミシシッピ河口には、オルレアン公の名前にちなんだラ・ヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)が建設される。
 何百人ものパリの乞食を動員し、金鉱掘りの格好をさせ、彼らがルイジアナに向かっているかのように、パリの街を練り歩かせた。全身黄金に輝くインディアンガールズのパレードで大々的に宣伝もした。

 国王の負債の返済に使われていた銀行券は、一般投資家によってミシシッピ会社株の購入に使われ、ミシシッピ会社の株高で、うまく循環していた。
 だが、これが継続するためには、次から次へと話を作って人々を信用させなければならない。

 ある貴族、コンティ公は、人気の高い「ミシシッピ会社」の株を買えないのでいらだっていた。ついに、自分の持っていた膨大な量の紙幣を銀行に持ち込み、「株が買えないなら金に払い戻してくれ」と要求した。
 もちろん、銀行に多くの金貨はありません。兌換不能のウワサは、たちまちに世間に広まり、不安になった人々が銀行に殺到した。1720年7月、Banque Generaleの前で衝突が起こり、15人の死者が出ました。

 銀行券は、一夜にして紙くずとなり、株式も物価も一気に暴落していく。
 この崩壊で、フランスとヨーロッパが極度の経済危機に陥り、のちフランス革命の素因になったともいわれる。

 ジョン・ローはオルレアン公の保護によってフランス国外へ脱出し、最後はヴェネツィアで教会の秘跡をうけ、敬虔なクリスチャンとして清貧、平穏、有徳な余生を送った。

 彼のアイデアは、現代の金融制度に生きている。人々の熱狂をコントロールするのは至難の技だ。が、やってみないとわからない。ジョン・ローは、その一歩を踏み出したパイオニアだったともいえる。フランスには強烈な体験だった。ごく最近までフランスの銀行は「banque」という名前を避け、「credit」だった。

 紙幣

 いろいろな原始貨幣から、金銀が世界共通の貨幣になる。交換・支払・価値尺度・富の蓄積。この四つを満たしている金銀は、当然といえる。

 モンゴル帝国の出現は、東西の交流を活発にした。今までのように、さまざまな国を通過するたびに税金を払わなくてすむ。道路網が整備され、途中で盗賊に襲われる危険もすくなくなった。さらに、元の中国支配において、紙幣だけによる通貨政策が取られていた。
 ヨーロッパ、アラビア、インド、インドシナはモンゴル帝国によって一体化され、東西交易ネットワークが出現した。

 ヨーロッパの商人や使者たちが、陸路中国を来訪する。ヴェネツィアの商人ポーロ兄弟とその子マルコ・ポーロもそうであった。かれらは1275年、陸路、元に至り、フビライに面会し、その後17年を元で生活した。マルコは帰国後、ヴェネツィアとジェノヴァの戦争で捕虜となり、獄中で書き綴ったのが「東方見聞録」である。
 このなかに、紙幣が自由に流通していることが驚きを持って紹介されている。当時のヨーロッパではコインしか流通していなかった。中国では、997年宋の時代、銅の不足を補うため「交子」という世界最初の紙幣が発行されていた。

 アラブ世界では7世紀末にイスラム文明がスタートし、8〜9世紀のバクダッドは人口100万人を超える大都市だった。
 バクダッドがモンゴル帝国から攻撃されるようになる12〜13世紀、エジプトのカイロが世界一の貿易都市に浮上する。
 ローマ帝国コンスタンティノープルの人口は最盛期100万人。トルコに攻められ1453年に陥落したときは10万人以下の「地方都市」になっていた。都市国家フィレンツェの人口も10万人弱だった。

 1回のキャラバンでラクダ2000頭以上、貨物400トン以上を集計する会計技術は、代数を発達させた。そこでは、貿易為替の手法が発達したといわれる。アラブの商船やラクダの隊商は、重い金貨より為替で済むのを望んだはずだ。

 アフリカを回ってイベリア半島のコルドバやマドリードに波及した紙幣や為替の知恵は、イスラム文化としてキリスト教社会に伝わる。 元の終りの頃、多大な軍事費の支払いから紙幣が乱発され、紙幣は次第に無価値となった事実が、商業都市フィレンツェに伝わらないはずがない。

 15世紀後半から始まった宗教改革やコロンブスの大航海の影響で、イタリアの都市国家は衰退を始める。実物の商品ルートが細ってくると、フィレンツェやベネチアやミラノの豪商たちは、金融業を主力にする。キリスト教徒である彼らは金を貸して金利を取れない。
 事業家に手形を発行させ、手形割引料のかたちで金利相当を徴収する。手形売買を始める。金利収入(インカム・ゲイン)でなく売買譲渡益(キャピタル・ゲイン)だ。金利を取っていない、キリスト教徒として問題ないでしょう。と、言い訳をする。

 織物手工業者は、手形発行を喜ぶ。製造業とタイアップできる仕組みが発明されたわけだ。市場規模は飛躍的に高まり、一般市民もキリスト教会とユダヤ人の独擅場だった金融ビジネスに参加できるようになる。
 イスラム教徒は、金利を取ることが教義で禁止されている。手形割引という商品を考えなかった。手形割引には、「利息」と「利潤」という経済哲学が必要になる。突き詰めれば、「価値」とは何かという問題になる。これは、キリスト教徒に突きつけられた命題であった。

 1516年、ヴェネツィアでユダヤ人をゲットーに居住させた。イベリア半島のユダヤ人を受け入れた状況と、何が変わったのか。それは、大航海時代の到来で地中海貿易が衰退し、ヴェネツィアにたそがれが訪れようとした。ここに原因を求めるのが自然だろう。 手形商法を発明したキリスト教徒が、ユダヤ人を邪魔扱いする必要があった。と推測する。


 リチャード・カンティリョン

Richard Cantillon 1680?-1734

 スペイン名を持ち、フランスに住んで、ジョン・ローの手口で 2 千万リーブルを儲けてイギリスに移住した。アイルランド人カンティリョンは、ロンドンの自宅の火災で死亡する。

 1732 年頃に彼がフランス語で書いた「Essai」 は、死後 20 年してイギリスで刊行された 。フランスではよく知られていたが、英語圏では1880 年代になって再評価される。

 「経済」を市場の集合とし、それらが価格システムで結ばれ、バランスのとれた循環フローが存在している、というビジョンを提示した。さらに、「価値」を「土地価値説」とし、完全なモデルを定義している。

 生産要素は二つ(土地と労働)で、財は二種類(必需品と贅沢品)とする。結果として、4 つの市場ができ、価格も 4 種類出てくる。

 人には二種類あり、地主と労働者だ。
  •  地主は、土地を所有して贅沢品を消費する。
  • 労働者は、労働を所有して必需品を消費する。
 所得と支出で言えば、

  •  地主の、所得は地代、支出は贅沢品購入。
  • 労働者の、所得は賃金、支出は必需品購入。


 このような関係で、地主と労働者の間に所得と支出の循環的なフローがあると考えた。実線は所得、破線が支出。

 直感的に、所得、支出、労働供給が「バランス」しないと、この経済単位が崩壊する。たとえば、労働者が必需品を買う十分な賃金をもらえなかったら、飢え死にする。すると、労働を投入し必要な財が生産されなくなり、地主も贅沢品を買えなくなってしまう。

 土地の総量 T は決まっているとする。ある国の食料生産に使える面積は限られているという前提で議論する。

 一方、総雇用 L はどうだろう。カンティリョンは、「無限の生活資源があったら、人々は納屋のネズミのように果てしなく増殖する」と見た。生産される必需品の量 XN が、この経済単位の養える労働の総量 L を決めると予測した。

労働と土地の総需要を
L(労働) = LN + LU  と  T(土地) = TN + TU としよう。

 利益はなしとする。ある状態が維持できればいいとしよう。 総収入と総コストが等しいということになる。

 総収入は、単純にそれぞれの財の生産量と値段のかけ算だ。一方の総コストは、財の生産で使われる労働と土地に、それぞれ賃金と地代のかけ算だ。数式で書けば、

pNXN=wLN +tTN   (1)
pUXU=wLU +tTU   (2)

 ここでpN ,pU はそれぞれ、必需品と贅沢品の単価
    w、t は労働の賃金単価と土地の地代単価

 この系が長期的にバランスするなら、必要な労働量を維持するのに十分な必需品が生産されなきゃいけない。
 これは、賃金総額が必需品を買えるだけの金額でないとダメ。つまり
pNXN=wL=wLN+wLU   (0)
となる。式(1)と比較すれば、
tTN=wLU

式(2)に代入すれば、
pUXU=tTN+tTU

 地主が消費する総額は、きっちり地代だけ。当然の話。

 労働者は均質としよう。c=XN/L は、一人の労働者の必需品の量という意味になる。

式(0)より、
w/pN=XN/L=c  つまり  w=cpN

 これは、一人の労働者が必需品を買う収入が賃金ということを意味する。これが所得フローを維持するメカニズムである。

 さて、この条件で、他の価格も決まり、土地Tによってすべての価格が決定される。土地が市場を決める源泉。カンティリョンは、「土地価値説」を唱えた。

 数値モデルで「土地価値説」を表現する前に、準備として「技術」を定義する。
XNを作るのに必要な労働を、次ぎのように表現してみる。
  LN=αLNXN
同じように、XNを作るのに必要な土地は
  TN=αTNXN
贅沢品についても
  LU=αLUXU
  TU=αTUXU

 例えば、αTUは1単位の贅沢品を作るために必要な土地(単位投入量)という意味。 耕作技術が進歩すると、少しの土地で1単位の贅沢品を作ることができるようになる。土壌改良であったり、品種改良であったりする。これは、その時点の「技術」といえる。ここでは、「技術」は決まっているとして議論を進める。

式(1)に単位投入量を代入すると、
   pN=wαLN +tαTN   (1’)
   w=cpNを代入して、   pN=cpNαLN +tαTN  (1’’)
結局、
   pN=tαTN/(1-cαLN
同様に、
   pU=(cαLUtαTN/(1-cαLN )) + tαTU
  w=ctαTN/(1-cαLN
 これで、地代 t を基準として、他の3つの価格が決まる。

 カンティリョンは、土地 T と、そこに住む労働者一人当たりの必需品の量 c と、生産「技術」によって、すべての価格が決まることを示した。

 結論から遡ると、
   L=αLUT/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))
で、その土地に投入する労働量が決まる。

 地主は地代 t を提示して、賃金 w を約束する。
    w=ctαTN/(1-cαLN

 労働によって無事収穫される必需品と贅沢品に相当する量は、
   XN=cαLUT/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))
   XU=(1-cαLU)T/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))

 一旦、 XNとXUに相当する収穫物は市場に出され、
tTとwLの収入を得る。tTは地主、wLは労働者に分配される。

 労働者は、賃金すべてを生きるための必需品に消費する、その物価は
   pN=tαTN/(1-cαLN

 地主は、生産に直接タッチせず収入を得て、消費する。その意味で、贅沢品と呼ぶが、その物価は
   pU=(cαLUtαTN/(1-cαLN )) + tαTU

 地代 t により、賃金w、物価pN、pUが決まる。四つの市場の価格が地代 t の比率で確定する。具体的な金額は時代やそれぞれの国の物価水準で決まる。物の「価値」は、何かを基準にして相対比率がきまれば、それでいい訳だ。小麦とりんごを交換する時に、一旦「金」に換算して交換する。それが貨幣経済の知恵である。合理的な交換尺度を決めることが経済学の「価値理論」。

 カンティリョンは、経済学の最も基本となる、財の「価値」は、地代 t 、結局は、土地 T で決まると代数学で表現してみせた。

 この「土地価値説」は、フランス革命前のフランスで唱えられた。すでに十字軍の11世紀にフランス農業は荒地を開拓する時代は過ぎていた、商業も発達していた。あくまでも、穀物生産を主体とする農業国フランスの事情を整理したものである。

 地主と農民(労働者)の経済単位があり、主に小麦を生産する大多数の集団と、例えば、塩、乳製品、ブドウを生産する集団が商人によってリンクされると考えてみよう。
 塩に特化した集団の商品「塩」の価格は、「小麦」を生産する集団の必需品価格とリンクして決まってくる。乳製品もブドウ酒も同様。
 こうして、所得と支出の循環的なフローがある経済単位の商品(財)リンクにより社会の経済が成り立っていることをと明示した意義は大きい。

 当時のフランスは啓蒙主義の時代。自然科学の原理のようなルールが経済にもあるはずだと考えた。自然の摂理には逆らえないように、原理に基づく経済活動が真理で、それが「自然状態」なんだとする社会風潮だった。ケネーは、表形式の「経済表」でフローの説明を試みている。カンティリョンは数理経済学の元祖として代数を使った。

 りんご三つ、ミカン三つから「3」という数を抽象化する。これが数学というもの。3、5、9といった数字から変数Aを抽象する。これが代数学。このような思考能力は、物物交換を貨幣尺度で合理的にする商人、特にに異国間の交易をしたアラビア文化で発展した。 スペイン名を持つカンティリョンが、数理経済学の元祖ということに、妙に納得するのである。

 カンティリョンは、「価値」と「価格」はちがうよとも言っている。市場で今日決まったリンゴの「価格」は、今日の需要と供給で折り合いがついた値段。その日によって変動する。でも、長期的に「自然状態」で落ち着く理論値があるはずだ。それがりんごの「価値」。それを知るには、こんな代数学で整理できる経済モデルが無くちゃいけないよと明示してくれた。1732年の「Essai」は文化遺産といえる。


 デヴィッド・リカード (David Ricardo), 1772-1823

 デヴィッド・リカードの家族は、イベリアのユダヤ教徒の家系だった。18世紀初期に一連の迫害の波にあって、オランダに亡命した。宮廷ユダヤ人だったのだろうか。
 父は株屋で、リカードが1772年に生まれる直前にイギリスに移住した。デヴィッドは、17人兄弟の3男だった。

 父親が、14 歳のリカードをロンドン証券取引所の事務所にフルタイムで雇入れ、リカードは、業界のツボをすぐに身に着けた。21歳で、ユダヤ教と分かれ、クウェーカー教徒と結婚する。それまでに築いたロンドン・シティの評判で、政府証券のディーラーとして自営でき、すぐにお金持ちになる。

 1814年、41歳のリカードは、自分のすべての欲望と、回りの人々のまともな欲望をすべて満たすに十分なお金持ちになった。シティの商売から引退し、田舎紳士となる。
 親友のジェイムズ・ミルに頼まれ、1819年に、アイルランドの郡代表イギリス議会議員に選出され、1853年の死まで続けた。
 ウォーテルローの戦いでイギリス勝利を予測し、リカードは、マルサスに債券市場に投資しろ、と助言した。牧師マルサスは、それを断った。リカードは、いつもながら大もうけした。

 1809年、通貨の問題を新聞記事に書いていた。そこでは、あらゆる財が過剰に供給される「一般過剰」は経済の中で起こらないと論じたりしていた。後に、当時吹き荒れていた金塊主義論争に引き込まれる。彼は 金塊主義の支持者で、紙幣を金に兌換できる仕組みの復活を支持した。

 1815年、リカードは『利益論』を発表した。ここで地代格差論と、耕作における「収穫逓減の法則」を導入した。
 賃金上昇は価格上昇でなく、利益が下がるだけ!
 リカードは財が一つ(穀物)の経済における分配の理論を展開した。賃金が「自然」な水準だと、利益率と地代は農業分野では剰余分として決まる、農業の利益と賃金率は工業分野での利益や賃金率と等しくなる、と論じた。この中で、かれは賃金上昇は価格上昇にはつながらず、単に利益が下がるだけだ、と示した。

 1815年の論考には、価値の理論がなかった。財が一つのモデルでは、問題にならない。財が複数の経済だと、地代や利益が剰余分となるには、どこかで価格がきっちり決まる必要がある、と気がついた。論考『政治経済と課税の原理』(1817) で、リカードはついに価値理論を述べ、それを分配理論に統合した。

 リカードにとって、適切な理論とは「労働を内在させた」価値の理論だ。つまり商品の相対的な「自然」価格は、その生産に必要な相対的労働時間で決まってくる、というわけ。

 アダム・スミスによる「労働主導」の価値の批判で始め、スミスの価値理論だと、価値は賃金の関数になり、結局は所得分配の関数になる。リカードにしてみれば、価値は分配とは独立して存在するものだから、「労働を内在させた」価値しか筋が通らなかった。

 リカードは、資本の話を含めると、ここで問題が起きることに気がついた。つまり、産業によって労働者一人あたり使う機械とか設備との「資本」量がちがうので、利益率は産業ごとにちがってくる。すべての産業の利益率が同じだと仮定すれば、数学的には相対価格は賃金によって変わることになる。これはリカードが批判したスミスの理論そのものじゃないか! リカードは、自分の労働価値説はすべての業界で資本集約度が同じ場合にしか成立しない、ということに気がついた。

 リカードは二つの方法でこのジレンマから抜け出そうとした。

 まずは、経験則的な方法。企業は投入した労働とほぼ比例する資本を投入すると仮定する。これだと、利益が全部の産業で同じだと仮定しても、出てくる価格は 「労働を内在させた」価値で出てくるものとそんなにちがわない。

 第二の方法は、労働者一人あたり「平均」資本を持った財を探す、ということだった。この価格は労働を内在させた価値を反映し、分配が変わっても変化しないはずだ。これを「価値不変基準」と呼んだ。
 この「標準」商品を見つけたら、後の分析は簡単だ、とリカードは論じた。たとえば、技術が変わったら、標準商品の価値変化を調べ、その変化を資本構成がどれくらいずれているかに応じて他の商品にもあてはめられる。リカードは標準商品を見つけられなかった。死んだとき、机に「価値の不変基準」と題する未完の論文がおかれていた。解決策はピエロ・スラッファ (1960) を待つしかなかった。

 価値の話でちょっとつまづいたが、リカードは議論を進めた。価格が「労働を内在させた」価値でかたまったので、かつての分配理論を述べなおした。
 経済を、地主(地代収入を贅沢品に使う)と労働者(賃金収入を必需品に使う)と資本家(利益収入のほとんどを貯金して再投資する)にわけて、「利益」の規模が土地耕作の規模と歴史的に与えられる実質賃金の「剰余」として決まってくる、ということを示した。
 収穫逓減の法則
 そして、そこに成長理論を追加した。上記のような形で利益が決まってくれば、資本家の貯蓄、蓄積と労働需要の成長も求まる。
 これは、人口を増して、もっと多くの土地(ただし質は下がる)が耕作されるようになる。経済が成長を続ければ、分配法則にしたがって利益はやがて地代と賃金によって押し出される。極限では「定常状態」になって、資本家たちはほとんど利益を出せず、それ以上の蓄積はおきなくなる、とリカードは論じた。

 リカードは、収穫逓減の法則はあるが、蓄積を継続させそうな二つの条件を指摘している。技術の進歩と貿易だ。

 技術の進歩について、リカードの見方はバラ色ではなかった。
 技術進歩が土地耕作の限界生産を押し上げ、もっと成長を可能にする、ということを認識していた。でも、1821年『経済学原理』第三版で追加された第31章で、技術進歩は労働を節約する機械の導入を必要とする、と書いている。これは買うのも設置するのもお金がかかるので、賃金のためのお金が減る。この場合、賃金は下がるか、労働者がクビになるかのどっちかだ。一部の失業労働者は追加の利益がもたらす大きな蓄積によって救済されるかもしれない。そして失業者の山が残るかもしれない。それは賃金引き下げ圧力となって、労働階級全般が悲惨な思いをする。技術進歩は、リカード理論では、そんなにありがたいものじゃなかった。

 貿易について、リカードは比較優位の理論をうちたてた。二つの国(ポルトガルとイギリス)と二つの商品(ワインと布)を使って、ポルトガルが両方の商品について絶対的なコスト優位性を持っている場合でも、貿易したほうがいいんだ、と論じた。
 両国が生産において「比較的」なコスト優位性を持ったものの生産に完全に特化し、それ以外のものを外国に頼れば、貿易でメリットがある。というものだった。

 労働価値説は国境をまたがっては成立しない、という想定だということに注意しておこう。生産要素、特に労働は国境を越えては移動できない。成長で見ると、賃金財(贅沢品ではなく)が国内コストよりも低い値段で輸入されれば、貿易はさらなる蓄積と成長をもたらすかもしれない。そして実質賃金低下と利益の増加をもたらすかもしれない。でも主要な影響としては、全体的な所得水準はどっちの国でも高くなるのだ、とリカードは論じた。

 1817 年の論考で、リカードは古典体系をそれまでのだれよりも明瞭かつ一貫性のある形で定式化した。多少なりとも意義深い洞察を追加したのは、ジョン・スチュアート・ミル (1848) とカール・マルクス (1867-94) くらいだろう。

 リカードの理論はだんだんはやらなくなり、1871-74年の限界革命の後で緩慢な死を迎える。その後かなりたって、ピエロ・スラッファ (1960) はやっと「価値の不変尺度」を解決してリカード理論への関心を再燃させた。「ネオ・リカード/新リカード派」研究プログラムは、今日も進歩を続けている。

 ピエロ・スラッファ (Piero Sraffa), 1898-1983

 20 世紀経済学の巨人、ピエロ・スラッファは、わずかな論文しかない。だが、一つ一つが、とんでもない代物ばかりだ。1926 年の規模に対するリターンと完全競争に関する論文は、マーシャル派の企業理論にすさまじい矛盾を見つけ出した。
 ここから、二つの方向へ発展を見せる。一般均衡的な生産理論と、もっと大胆なジョーン・ロビンソンによる不完全競争理論だ。

 イタリア生まれで引っ込み思案のスラッファは、1920 年代にジョン・メイナード・ケインズに連れられてケンブリッジにやってきた。
 スラッファは、講義が死ぬほど苦手だった。ケインズは、スラッファをキングカレッジの司書に任命させ、デヴィッド・リカードの著作編集を任せた。
 1931 年にリカードの著作を入念に集めはじめ、結局20 年かかった。1943 年、印刷所に入稿したが、最後の最後に、アイルランドでリカード論文がトランクいっぱい見つかった。1953 年に、やっと刊行される。リカードは運のいい人物だった。死後 130 年たって、かれのツキは相変わらず衰えていない。スラッファの著作集序文は、経済思想史の中の古典派・新古典派の核となる著作について、最もすばらしい解釈の一つである。

 1920 年代に執筆が開始されたスラッファの「財を手段とした財の生産(Production of Commodities by Means of Commodities)」は、やっと1960 年脱稿した。この本は、リカードの理論を現代に述べなおしている。そして1970 年代にケンブリッジの新リカード派が旗揚げの契機となった。スラッファは、産業における資本理論で、「再スイッチ」を描いて見せた最初の一人だった。

 スラッファは、「唯一完璧」な投資を見つけるまでは投資しないと述べていた。1945 年に、広島と長崎に原爆が落ち、スラッファは財産すべて日本国債につぎ込んだ。敗北した日本が、戦後の瓦礫に甘んじているわけがない、と信じて。当時日本国債は紙くず同然だった。結果としてこの経済学者は、その後大もうけした。


参考Webサイト 経済思想の歴史

2004.11.20
by Kon