幕末、明治維新と海軍伝習所



 トーマス・ブレーク・グラバー

 スコットランド。北海に面した古都アバディーン。厳しい北の自然と闘ってきたスコットランド人は、進取の気性に富み、なかでもアバディーン人はその先頭を切っていた。

 1838年6月、トーマス・グラバーは、アバディーン州の沿岸警備隊司令(海軍大尉)トーマス・ベリー・グラバーの五男として生まれた。
 古都アバディーンで中等教育を受け、19歳で上海に渡り、2年ほどスコットランド系商社で貿易業務をする。1859年(安政6)7月、長崎開港とともに乗り込んで来た。

 1854年(嘉永7)3月31日、前年のペリー来航を受け、徳川幕府は神奈川で日米和親条約を結ぶ。
 イギリスは、東インド艦隊指令長官スターリングを派遣、日本への寄港許可を申請する。フランスも、インドシナ艦隊令長官モン・ラベルを派遣、開港を要求。
 1855年(安政元年)2月7日、下田で、日露和親条約が締ばれる。

 ヨーロッパでは、クリミア戦争(1853〜56)が勃発。ロシアとイギリス・フランスは交戦中であった。

 長崎の出島に限定されていたオランダは、1855年(安政2)和親条約を締結。翌年からは、市内で自由に商店と取引ができることになっていた。

 当時、長崎のイギリス商人は30人ほどで、21歳のトーマスは「トム」と呼ばれていたが、めきめき頭角を現した。1861年(文久元年)5月、スコットランド系のジャーディン・マセソン商会のケネス・マッケンジーが中国の漢口に転出すると、マセソン商会の長崎代理人になる。
 「トム」は「トーマス」に格上げされ、24歳のトーマスは大浦居留区の一等地に邸宅を建設する。港を見下ろす和洋折衷の母屋の屋根裏に、隠し部屋が造られていた。その隠し部屋に、刺客に狙われる薩摩の五代友厚や長州の桂小五郎をかくまうことになる。

 長崎 海軍伝習所

 1854年(嘉永7)、ペりーが再び浦賀に来航した年、オランダ国王・ヴィルレム3世は、使節を派遣してくる。
 ヨーロッパの情勢を知らせ、軍艦建造を引き受けるが、まず、蒸気船スムビング号を贈り、艦長一同を差し向け操船法を伝授する。このような外交ビジネスの申し出だった。
 1855年(安政2)長崎出島の裏手に、長崎海軍伝習所が開設される。

 オランダから贈られた軍艦スムビング号(観光丸)を用い、オランダ海軍士官ペルス・ライケン以下22名の教官の下、近代的な操船訓練が始まる。
 日本側は永井岩之丞を総督とし、旗本・御家人・諸藩士から選抜した39名の伝習生。この第一期伝習生の学生長を務めたのが勝麟太郎(のちの海舟)である。

 第1次伝習には、小野友五郎、矢田堀鴻(景蔵)、佐々倉桐太郎、 望月大象、鈴藤勇次郎、高柳兵助、福岡金吾、土屋忠次郎、石井修三、春山弁蔵、岩田平作、 浜口興右衛門、山本金次郎、尾形作右衛門、関川伴次郎、村田小一郎、鈴木儀右衛門、小川喜太郎、 近藤熊吉らがいた。

 1857年(安政 4)、第一期の伝習が終わると、幕府は総督以下の第一期伝習生とスムビング号を江戸に回航、築地南小田原町にある講武所内に海軍教授所を設けた。
 この教授所は、2年後に勝海舟が教授方頭取となり軍艦操練所と改称される。

 長崎海軍伝習所では、新しく到着したスクリュウ式蒸気船ヤーバン号(威臨丸)とエド号(朝陽丸)を練習船として、来日したカッテンディーケが教授する第二期・第三期の伝習が行われた。
 勝麟太郎ら四名が補習のため長崎に残っていたが、1859年(安政 6. 2)、長崎海軍伝習所は閉鎖される。

 1858年(安政 5)、佐賀藩三重津に一期伝習生が教官となり「御船稽古所」が設けられる。翌年に海軍寮となり、技術の継承がされていく。

 一方、1866年(慶応 2)横浜にフランス式の操練所が設けられ、翌年、軍艦操練所に吸収される。
 1867年(慶応 3)、操練所は浜離宮へ移り、翌年英人教頭トレシーが去ったので伝習は名実ともに休止された。

 明治に入り、海軍兵学寮、その後、海軍兵学校に発展する。

 初代海軍卿となった勝海舟をはじめ、小野友五郎(航海長、軍艦操練所教授)、榎本武揚(中将 海軍卿)、中牟田倉之助(初代海軍軍令部長)、肥田浜五郎(初代海軍機技総監)、川村純義(大将 海軍卿)、赤松大二郎(大将 海軍卿)、松本良順(初代軍医総監)など、近代日本海軍の人材がここ「海軍伝習所」から巣立っていった。


 勝海舟 

 1823年(文政6)、旗本・勝小吉の子として江戸本所に生まれる。幼名、麟太郎。本名、勝義邦。改名して勝安芳。勝安房は通称。海舟は号。

 父・小吉は江戸屈指の剣客だったが、乱暴が過ぎ、座敷牢に入れられ、37歳の若さで隠居の身になる。
 小吉42歳の書、『夢酔独言』に、野良犬に噛まれ、瀕死の重傷を負った幼少の海舟を70日間にわたり、必死になって看病したことが記されている。

 剣術を中津藩士島田虎之助に学び、島田のすすめで、福岡藩士永井青崖に西洋兵法と蘭書を学ぶ。

 28才頃、蘭学の塾をひらいたが、貧乏だった。オランダ語の辞書を買えなかった海舟は、ある医者から借り、58巻を2組書写する。1組は自分で使い、もう一組は30両で売って生活費にあてた。

 海軍の必要性を説いた『海国兵談』を著した林子平が投獄され60年後、1853年(嘉永6)、ペリー率いる米国軍艦4隻が浦賀に入り、騒然となった。
 『海国兵談』は、長崎のオランダ商館長アーレンヘイトからの海外知識を基にロシア南下と蝦夷地について論じたものだった。いたずらに世間を惑わすとし幕府は取り締まったのだが、江戸に米国軍艦が現れたのである。

 幕府老中筆頭の阿部正弘は、海防に関する意見書を幕臣、譜代、外様、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。勝が提出した「海防意見書」が、老中の目にとまる。
 老中に重用されている目付の大久保忠寛が、小普請組の勝海舟に会い、勝は開国論と海防論を論じた。
  • 身分を問わず有能な人材を登用する。
  • 積極的(朝鮮、清、ロシア)に貿易をし、その利益をもって国防費に当てる。
  • 江戸の防備を強化する。
  • 旗本の困窮を救うため、兵制を西洋式に再編成し、訓練所の建設も行う。
  • 砲や銃の生産、同時に火薬の生成工場の建設。
1855年(安政2)海防掛となった大久保は、勝を蕃書調所(1856年に洋学所が蕃書調所になる)に勤務させ、海岸検分役として大坂地方の海岸検分に随行させた。
 1858年(安政5)、ハリス二度目の来朝。日米修交通商条約を調印し、幕府は、米国ワシントンに使節を送ることにする。
 1860年(安政7)、外国奉行・新見正興、村垣範正を送る。使節は、米艦ポーハタンに便乗する。しかし、一国の使節が外国の軍艦に護送されるは国辱ものとの声に、幕府は別個に軍艦咸臨丸(250トン)で、軍艦奉行・木村摂津守を派遣し面目を保つた。

 木村は、「海軍建設こそが日本国防の道」との使命感から、私財を投げうって、咸臨丸に乗り込んだ。艦長は、勝麟太郎。
 後日、木村が語っている。「幕府は大した費用を出さない。といって水夫らに手当てを与えて労を謝さぬわけにもゆかないだろう。金がないからと私が辞職してしまえば、ほかに代わる人がいない。そうなれば水の泡だ。日本海軍の端緒をひらこうという破天荒の大盛挙も、すべて瓦解してしまうことになろう。」

 帰国後の1862年(文久2)、海舟(40才)は軍艦奉行並を命ぜられ、将軍家茂(いえもち)から海軍の議で質問される。これに対し、「軍艦は数年を出ずして整うとも、人員は習熟できませぬ。イギリスの盛大も300年を経て今日に至ったもの。問題は人間や船の数にあらず。人民が学術はもちろん、勇武他を圧伏するに足らなければ、真の防御は立ち難い。学術進歩して、その人物が出ることこそ肝要であります」と答えている。

 明治に入り、海舟は、外務大丞、兵部大丞、海軍大輔、参議兼海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、明治32年77歳で世を去る。


 兵庫 海軍操練所

 1863年(文久3)5月、軍艦奉行並、勝海舟は、幕府より神戸に海軍操練所の開設を許された。資金3千両は幕府より出資。操練所が開設されるまで、私塾を開くことも許された。これが操練所の前身となる海軍塾である。
 坂本竜馬は塾頭として、浪人たちメンバーをまとめた。また、海舟は塾の資金調達のため竜馬を福井へ派遣。福井藩主、松平春嶽から5千両の大金を借りることに成功した。
 主な海軍塾メンバー
土佐 坂本竜馬、近藤長次郎、沢村惣之丞、白峰駿馬、新宮馬之助、高松太郎、千屋寅之助、望月亀弥太、安岡金馬、岡田以蔵
鳥取 黒木小太郎
紀州 陸奥源次郎(宗光)

 摂津は、京都、大坂を控え、要衝の地であり、神戸(神戸村小野浜)を選んだ理由は、網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が、船底に付いた貝殻や船虫などを焼くための施設、「船たで場」を設けており、これらを利用できると考えたようだ。

 1864年(元治元年)5月、幕府は海軍操練所の開設を布告、生徒の募集をした。幕臣の子弟たちは繰練所の寄宿舎で、竜馬ら旧塾生と諸藩からの者は海軍塾で寝起きし、練習に励んだ。
 この年1864年6月、池田屋事件勃発。犠牲者のなかには海軍塾生の望月亀弥太がいた。さらに7月の蛤御門の変。そのとき幕府と戦った長州軍のなかに海軍塾生の安岡金馬が加わっていた。この2つの事件に海軍塾生がいたことで、「海軍操練所は激徒の巣」と幕府より疑いをかけられる。
 10月、勝は帰国を命じられ、軍艦奉行免職となり、翌年3月、正式に海軍操練所は廃止される。

 海舟は帰国前に、薩摩の西郷隆盛に会い、竜馬たちを託した。西郷は、薩摩藩邸などに彼らを受け入れ、4月には薩摩藩船に乗せ鹿児島へ向かった。
 鹿児島に到着した彼らは薩摩藩家老小松帯刀とともに長崎へ向かった。


 密航者

 1863年(文久3)4月初め、長崎港にイギリスの軍艦2隻が入港してきた。前年9月の生麦事件の責任を問い、幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドの賠償金と犯人の処刑を求め、応じなければ開戦も辞さずと最後通牒を突きつけている。7月2日、鹿児島では黒船と陸上砲台の間で砲戦が展開され、城下が焼かれている。

 開戦となれば、在留英人は危険にさらされる。長崎居留地で指導的立場に立っていたトーマス・グラバーは、対応に苦慮する。そこに、ひとりの長州藩士が訪ねてきた。
 藩士数名の西洋密航を企てているが、手助けをしてもらえぬかという。攘夷急先鋒の長州藩士が西洋密航とは? グラバーは、横浜「英一番館」のジャーディン・マセソン商会に応援を頼み、密航の手はずをとった。

 首謀者は井上聞多(馨、27歳)、同行者は、遠藤謹助(27歳)山尾庸三(26歳)伊藤俊輔(博文、22歳)野村弥吉(20歳)の五人。井上と伊藤はつい数か月前、高杉晋作指揮の品川御殿山イギリス公使館焼き打ちをしたばかりだったが、西洋をよく知らねばと密航計画になった。
 渡航費は一人千両。小姓役の井上が藩主の内諾を得て、多少の資金援助を受けていたが、あとは井上と伊藤の才覚で5千両をそろえている。

 6月27日、一行五人は横浜の英一番館で断髪、洋服に着替えて、マセソン商会所有の蒸気船で上海へ向かった。
 上海で大型帆船二隻に分乗して、ロンドンをめざす。横浜出港の前、長州藩は下関海峡に停泊中のアメリカ商船を砲撃、攘夷の火蓋を切っていたが、大事件を知らないままの出港だった。

 一行は11月初め、ロンドンに到着、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの聴講生となる。その間、井上と伊藤はアバディーンのグラバー家を訪れ、貿易商社「グラバー兄弟商会」を営む長男チャールズの案内で造船所を見学したりしている。
 彼らが長州藩の外国船砲撃、その報復として英米仏蘭の四国連合艦隊の下関砲撃、砲台占領といった事態を耳にしたのはロンドン到着3か月後のことだった。5人は会議を重ねた。

 我ら二人は死を賭して攘夷の藩論を転換させるため急遽帰国する。と、井上と伊藤は主張した。貴公たちはこの地で勉学に励み、国に尽くせ。同行を求める三人を井上が説得した。

 グラバー兄弟商会が手配した船で、井上と伊藤は帰国した。残って学業を続けた山尾庸三は造船の大家となって工部卿(大臣)まで昇り、野村弥吉(のち井上勝)は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長と、それぞれ日本の近代化に貢献する。

 薩摩藩

 1861年(文久元年)夏、薩摩藩士、五代友厚が、藩命で蒸気船購入のため長崎グラバー邸に交渉に来た。彼は、長崎の海軍伝習所で学び、蒸気船にかなりの知識を持っていた。この時、商談は不調に終わっている。
 1863年(文久3)九月の生麦事件の報復で、イギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩英戦争が始まった。五代は松木弘庵(寺島宗則)とともに指揮していた蒸気船3隻をだ捕され、船を焼却され、捕虜になる。
 その失態で藩士から命を狙われ、しばらくグラバー邸に潜んでいた。
 1864年(元治元年)、グラバーの意見に基づく近代化促進の上申書を藩主に上提していたが、これが認められ、薩摩藩留学生の英国密航の計画を進めていた。

 優秀な留学生15名を選抜し、1865年(慶応元年)3月、グラバー商会の船でひそかに出港する。
 監督に松木弘庵(寺島宗則、33歳)と五代才助(友厚、30歳)、留学生には初代文部大臣になる森金之丞(有礼、18歳)などがいた。最年少の磯永彦輔(のち長澤鼎、13歳)は永くアバディーンのグラバー家に寄留し、のち渡米して葡萄園を開き、「葡萄王」の異名をとっている。

 薩摩藩の密航船が出港する直前に、急遽帰国した伊藤博文から西洋熱を吹き込まれた高杉晋作が、伊藤と二人分の資金を用意して密航の世話を頼みに来た。
 いま貴殿らは下関開港に努力すべきときだ。と、グラバーは高杉の密航を押しとどめ、高杉が推す若者2名を密航させている。グラバーは佐賀藩士なども密航させ、長崎奉行所の詰問を受けている。

 下関砲撃、薩英戦争でアームストロング砲の威力を知った幕府が、1865年(慶応元年)グラバーに21門注文してきた。グラバーは早速英国から輸入したが、幕府の支払いが滞り、引き渡されなかった。この大砲が官軍の手に渡る。

 1866年(慶応2)9月に、英国公使ハリー・パークスの鹿児島訪問をお膳(ぜん)立てし、グラバー自ら随行、大名なみのもてなしを受ける。このときのパークスと島津久光(藩主の父)との会談は、日本の流れを変えた。

 この会談で、パークスは幕府の側から、薩摩藩の側に考えを変えた。

「このグラバーが、日本のため一番役立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩、長州の間にあった壁をブチこわしてやったということだ。これが私の一番の手柄だと思う。  私は日本の大名たちと何十万、何百万の取引をしたが、私は日本のサムライの根性でやった。徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分が最も大きな叛逆人だと思っている」
(長州毛利家維新史『防長回天史』編集人の取材に対しグラバー談)

 西郷隆盛

 1827年(文政10)12月,下級武士の子として西郷隆盛は生まれる。幼い時のけんかで、右ひじを完全に曲げることが出来ない。武術をあきらめ、学問に精を出す。16才の時、藩の郡方書役助に任命される。

 1851年(嘉永4)、島津斉彬(なりあきら)が第28代薩摩藩主に就任する。
 蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のため溶鉱炉の設置、大砲製造のため反射炉の設置、小銃の製造、、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良、等々、すさまじい改革を推進した。ガラス加工で有名な薩摩切子(さつまきりこ)は、この時に始まる。
 斉彬は、「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」と布告を出す。その頃、西郷は、同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門、上之園郷中の伊地知竜右衛門、高麗町郷中の有村俊斎(後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた大久保正助(後の一蔵、利通)らと誠忠組を作っていた。
 郡奉行の迫田太利済(さこたとしなり)から学んだ「国の根本は、農民である」という考えに拠って意見書に書き、度々提出していた。この建白書が斉彬の目に留まる。
 1854年(安政元年)1月、28歳の西郷は中小姓となり、1857年(安政3年)4月、藩主に召し出され、問答を受けた。翌年10月、庭方役(にわほうやく)を拝命する。幕府でいえば御庭番に類する役であった。


 斉彬の密命を帯び、庭方役としての初仕事で江戸へ向かう途中,下関の豪商、白石正一郎を訪ねている。一橋派の福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)にあてた斉彬の密書をしのばせていた。1857年(安政4)11月のことであった。
 中央進出のライバル、長州藩。その動向を、情報が集積する下関の回船問屋白石家で聞き出す。西郷の行動の意図と推定できる。

 1858年(安政5)7月、斉彬が急死。西郷は殉死を考えるが、京都清水寺の成就院住職、月照にいさめられて思いとどまる。

 薩摩藩は、斉彬の遺言により久光の子忠義が跡を継いだ。久光は「国父」として実権をにぎる。
 将軍継嗣問題が、安政の大獄に発展する。幕府から追われる立場となった月照の保護を近衛家から頼まれ、西郷は、月照をともなって帰郷する。しかし、藩は月照の保護を拒否した。
 月照は「東目送(ひがしめおく)り」となる。国境に赴かせ殺すことを意味する。船に同乗して随行の途中、絶望した月照と共に西郷は海に身を投げた。救いあげられ、老齢の月照は死ぬが、西郷は息を吹き返す。幕府から捕縛命令が出ていた西郷は、奄美大島に身を隠すことになる。

 1860(万延元年)井伊大老が桜田門外で水戸藩士に殺害される。徳川幕府は薩摩藩と共に朝廷と国政を運営する「公武合体運動」を進めることになる。朝廷内部では、長州藩が掲げた「開国論」に傾く。
 1861年(文久元年)、奄美大島にいた西郷に、藩主久光から呼び出しが来た。 藩主は中央をめざし、兵を率い薩摩を出発しようとしている。親友の大久保一蔵が、西郷の起用を進言し、復帰した西郷は、いきなり藩主に直言する。
「国父が兵をひきいて上京するためには、事前に朝廷、幕府の了解をもとめるべきなのに何もしていないではないか。そんなことで天下の事を尽くそうなど、妄動も甚だしい」

 1862年(文久2)3月、久光に先発すること一ヶ月、肥後の形勢を視察し、西郷は下関についた。そこで、久光上洛の意図を勘違いした薩摩藩の尊攘(そんじょう)志士が、討幕挙兵をくわだてていることを聞く。下関での待機命令に背き、西郷は緊急出発する。大阪で彼らの暴発を制した。

 1千名の兵を率いて上洛した久光は、薩摩藩過激派の動きを封じる。彼らの計画は、京都市中に放火し、その混乱に乗じて関白 九条尚忠と京都所司代 酒井忠義を殺害。薩摩藩兵によって一気に倒幕まで持ってゆく計画だった。
 4月13日、40余名が集結する京都伏見の船宿寺田屋に鎮圧の者が向かう。君命を伝えて藩邸に戻るよう説得したが、紛糾。有馬新七ら6名が闘死、2人が重傷を負い、翌日自刃が命じられる。
 西郷も、下関での待機命令違反により逮捕、家禄と家財没収。島送りになる。

 これが、寺田屋事件であるが、この件で久光は朝廷の信任を得、薩摩藩が政治の表舞台に立つ。

 1862年(文久2)6月、久光は勅使 大原重徳の護衛という名目で江戸へ向かう。幕府に対し、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩主 松平春嶽を政事総裁職につけさせ、京都守護職の設置、参勤交代を3年に緩和、洋書調所の設置などなど「文久の改革」を断行する。

 1862年(文久2)8月、目的を果たした久光の行列が、江戸から引き上げる際、東海道生麦村(横浜市郊外)において、事件は起こる。久光の行列に4人のイギリス人が馬で乗り入れ、横切ろうとした。薩摩藩士・奈良原幸五郎(喜八郎)は、「無礼者」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、そのイギリス人の一行に斬りかかりました。そして、日本に観光に来ていた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンは、その太刀をまともに受け、死亡した。これが「生麦事件」(なまむぎじけん)。

 1863年(文久3)5月、イギリスは幕府から生麦事件の賠償金を受け取る。
 6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)鹿児島湾に遠征する。同行したイギリス代理行使ジョン・ニールは、薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族への賠償金2万5000ポンドを要求した。
 薩摩側は拒否。7月2日イギリスは薩摩の汽船3隻を拿捕。暴風雨の中、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で激しい砲戦が展開された。鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けました。イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出しました。備砲の射程はイギリス軍艦の方が上回っていたのですが、薩摩藩は二週間ばかり前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために正確にねらい撃ちできた。
 イギリス艦隊は翌3日桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理し横浜に戻る。
 9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判がおこなわれ、薩摩藩は2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払うことで、10月5日和議が成立した。

 薩摩藩による幕政改革も、下級公家や志士、浪士には評価に値するものではなかった。長州藩は、長井雅楽の「航海遠略策」による開国論を主張していたが、これは「幕主朝従」の公武合体策であり、薩摩藩主導の改革と同じことだった。長州藩の方針は、松下村塾メンバーを中心とした、尊王攘夷に転換する。
 長州の急進派は、公家達に尊王攘夷論を説き、1863年(文久3)3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させる。

 1862年(文久2)閏8月、会津藩主・松平容保は、幕府より京都守護職を拝命し、12月に藩兵3千人を引き連れ京都に入っていた。薩摩藩の久光が帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き荒れる。会津藩は長州藩に反感を持つ。
 天誅と称した長州や土佐のテロリストの背後には、急進派公家がいた。長州藩の尊皇攘夷論の勢いで「公武合体運動」の努力が水泡に帰す薩摩藩も長州藩に反感を持つ。
 1863年(文久3)8月18日未明、薩摩・会津の兵が御所の門を固める。穏健派公家の中川宮朝彦親王(あさひこしんのう)は御所に参内し、天皇から急進派公家の三条実美ら7名の国事掛免職の勅許を得る。長州藩は、堺町御門の守衛を免じられ、三条実美らと長州藩は、京から追放となる。この会津と薩摩の軍事クーデターを「八月十八日の政変」という。

 幕府側の会津と同盟した薩摩藩内部で、西郷赦免運動が起こる。寺田屋騒動の生き残り柴山竜五郎と三島源兵衛(後の通庸)、福山清蔵といった西郷と縁の深い人々は、「西郷吉之助しかいない」と主張する。
 三人は、久光側近の高崎左太郎、高崎五六に、西郷赦免を願い出る。三人の熱意に心を動かされ、両名は申し出た。
西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす。

 久光は、こう言った。
「左右みな賢なりというか・・・。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」

 1864年(元冶元年)2月28日、西郷は鹿児島に帰り、京へ呼び出される。軍賦役兼諸藩応接係を拝命。京都駐留薩摩軍司令官となった西郷は、薩会同盟を結んだ人々を薩摩に帰国させる。

 1864年(元冶元年)6月5日、長州・土佐藩士の尊攘派志士30名が、新撰組の襲撃を受け、7名が死亡し、残りが捕縛される。これが新撰組の池田屋事件

 長州藩内の急進派は、福原越後ら三家老を将として、京に向けて2千の大軍を進発してきた。伏見、嵯峨、山崎に陣を構える。その事態に京都守護職の松平容保は、薩摩藩に出兵を要求した。しかし西郷は、「池田屋事件といい、これは会津と長州の私闘でごわす。」と出兵を拒否する。西郷の薩摩藩兵は御所警護という原則に徹した。

 1864年(元冶元年)7月18日夜、長州藩兵が、御所の蛤御門(はまぐりごもん)を中心に攻撃をかけてきた。長州兵の勢いは凄まじく、会津兵を蹴散らし、御所に迫る勢いを見せた。西郷は、藩兵を率いて駆け付け、軽傷ながら被弾するが、長州勢を退けた。「蛤御門の変」または「禁門の変」と呼ぶこの戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ち、西郷の名が京に知れ渡る。

 1864年(元冶元年)9月11日、福井藩の堤正誼(まさよし)と青山貞(さだ)の二人が、突然西郷を訪ねてきた。二人は西郷に、大阪に幕臣の勝海舟という人物がいる、是非面会なさった方がよい、と進言した。
 西郷に顔を合せた勝は、ざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について話した。
 西郷は、大久保宛の手紙に、こう書いている。
「勝氏と初めて面会したが、実に驚くような人物。やっつけるつもりで会ったのだが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどだ。」
 この対面は、後年、江戸無血開城につながる。

 1864年(元治元年)11月、長州征伐の幕府軍が、長州の国境に迫る。西郷は征長総督の参謀だった。総督より先に広島へ行き、不戦の工作を開始する。幕府征長軍は撤兵して第一次長州征伐は無血で終結した。

 1866年(慶応2)1月、長州藩の桂小五郎・三好軍太郎・品川弥二郎が京都薩摩藩邸を訪れ、土佐藩小松帯刀(たてわき)、坂本龍馬の立会いで密談がもたれた。長州人桂小五郎の痛切な薩摩批判で話しが始まる。黙って耳をかたむけていた西郷は、「ごもっともでごわす」としか言わなかった。
 この時点で、西郷は討幕の意志をかため、薩摩と長州の連合しかないと考えていた。

 1867年(慶応3)10月14日、徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還を奏上した。
 土佐藩の脱藩士 坂本竜馬は、藩主山内容堂に、政権奉還を建白させる進言していた。しかも、政権返上後の民主的な国家構想を描いてみせた。「船中八策」である。構想の見事さに感嘆した土佐藩士の後藤象二郎は、諸藩の有志にそれを説く一方、容堂を説得し藩論の統一に成功した。10月3日、後藤は上京して容堂の建白書を老中板倉勝静に提出した。慶喜は、10月13日在京40藩の重臣を二条城に集め大政奉還の決意を表明し、翌14日大政奉還の上表を朝廷に提出した。
 翌15日朝廷は、慶喜の参内をもとめ、小御所において大政奉還勅許の御沙汰書を渡した。

 王政復古の大号令が出た。だが、200年にわたり力をたくわえてきた徳川幕府は、一夜にして変わる組織でない。まず、徳川将軍の処分である。将軍慶喜の官位と所有土地の処分をしなければ、幕臣以下武士階級は動かない。社会は変わらない。

 1867年(慶応3)12月9日夜、京都御所紫宸殿(ししんでん)の東北、小御所(こごしょ)で会議が開かれた。
 出席者は、総裁・議定(ぎじょう)・参与など新政府の最高幹部たちである。  薩摩藩の大久保一蔵(利通)・岩下佐次右衛門・土佐藩の後藤象二郎ら各藩の重臣も部屋の敷居際に陪席した。議論が白熱すると、大久保や後藤らも発言して、互いに舌戦を展開する。
 徳川の権威を温存させようとする土佐藩主山内容堂らが慶喜を擁護する。議論が出尽くしたあたりで、一時休憩に入った。薩摩の岩下佐次右衛門は、御所内の警備を担当して議場に入らない西郷に、「形勢すこぶる悪し。いかがしたものでごわしょう」と、低く抑えた声で言った。
 「この期に及んで…」と、西郷は腰の小刀をゆびさした。世迷いごとを言っている場合か。西郷は武人であった。

 西郷の気迫は、岩倉具視らに伝わり、みずから短刀をふところにしのばせた岩倉から出席者のあいだに広がった。
 再開した会議で、慶喜の追放、土地返上を決議して終わる。

 西郷は江戸にいる腹心に密命を出す。大金をまいて浪士・無頼漢を募り薩摩藩邸を根城に江戸内外を横行させる。豪商の家に押し入り、幕吏の邸宅を襲って略奪・殺傷をくり返させた。
 幕府は大捕物をくりひろげ、賊が薩摩藩邸から出動している事実をつきとめた。12月25日、幕兵は薩摩藩邸と支藩の佐土原藩邸を焼き打ちする。
 年が明け、慶喜が「討薩の表」を朝廷にさしだした(1868・明治元年1月1日)。
 薩摩の罪状をあげ、奸臣(かんしん)どもを引き渡すように朝廷に要求、これが採用されないなら誅戮(ちゅうりく)する。朝廷への宣戦布告ともいうべき内容である。

 ここから、鳥羽・伏見の戦いにはじまる戊辰(ぼしん)戦争に突入する。武力倒幕の官軍が京から江戸へと進む。維新の大デモンストレーションである。新政府に対して、参加するのか、反抗するのか、各藩主に決断を求められる儀式であった。江戸無血開城のクライマックスは、すでに決まっていたといえる。

 1871年(明治4)11月、右大臣岩倉具視を正使とする米欧回覧の岩倉使節団46人が出発した。上層部は薩長で占められている。新政府要人の勉強会であった。

 留守をあずかったのは、西郷隆盛を最高責任者に、板垣退助・大隈重信・後藤象二郎・江藤新平らで、肥前藩出身者が主導だった。留守政府内での派閥抗争、樺太・朝鮮・台湾など外交問題で三条太政大臣は、ヨーロッパにいる岩倉に早く帰ってくるように要請する。明治6年3月のことだった。
 10月の閣議で西郷の遣韓大使が認められるが、岩倉・大久保・木戸らにより、上奏の段階で粉砕される。

 10月23日、西郷は参議・陸軍大将・近衛都督の辞表を出した。説得されて陸軍大将の地位にはとどまったが、郷里の鹿児島へ帰って行った。他の征韓派参議たちも全員が辞職した。「明治六年の政変」である。征韓論といいながら、実態は藩閥権力抗争にすぎなかった。
 明治7年の佐賀の乱、明治9年の萩の乱と士族反乱がつづき、1877年(明治10年)の西南戦争が勃発する。

 明治政府軍は、各地に鎮台を設け、国内動乱に対処していた。1877年(明治10年)2月15日、1万3千の士族兵士が、鎮台兵のいる熊本城にむかった。
 西郷は求められ、盟主の座につき、戦線は九州全域に拡大する。薩摩軍の士気は凄まじく、政府軍を悩ませたが、しだいに追いこまれる。9月24日の午前3時、薩摩軍の立て籠った城山の総攻撃が、山県有朋の指揮する政府軍によって決行された。

 西郷は前夜に別れの宴をひらき、着物に兵児帯(へこおび)といういつもの姿で岩崎谷をくだり、島津応吉邸の前にさしかかったとき、流れ弾が太股に命中、歩行不能となった。

 「晋どん、もうここらでよか

 西郷はその場で切腹。介錯した別府晋介をはじめ桐野利秋・村田新八・池上四郎らがそれを追って自決した。

 政府軍の戦死6278人、負傷9523人。西郷軍の戦死は2万人を超えるとみられ、その後に2764人が処刑されている。最後にして最大規模の士族反乱は終結した。

 坂本龍馬
 1835年(天保6)11月、土佐高知藩の郷士の次男として生まれる。本家は高知の豪商・才谷屋で、龍馬の祖父八平直海が才谷屋の長男でありながら、郷士株を取得して分家し、郷士・坂本家が誕生している。
 龍馬14歳の時、自宅近くの鏡川河畔・築屋敷にあった日根野弁治の道場に入門。19歳まで修行し、剣術や居合い、槍や薙刀、騎射、水練(水泳)等の武芸を身に付ける。
 10才で実母が他界。後妻の伊與は、龍馬を厳しくしつけた。
  • 一、相手にやられたらやり返せ。
  • 二、自分から進んで手を出したらいかん。
  • 三、男は強くて、優しくないといかん。
 伊與の実家は、種崎の御船倉御用商人下田屋として、回漕業を営んでいた。当時地元でヨーロッパと呼ばれていた下田屋に龍馬は出入りし、海事と商業の実際を見聞していた。

 1841年(天保12)、足摺沖で操業していた漁民が漂流し、鳥島に漂着する。偶然、米国の捕鯨船に救出され、米国に上陸した。ホイットフィールド船長の厚意で、初等、中等教育を受け、航海、造船学の高等教育の後、3年4ヶ月にわたり世界の海を巡る捕鯨船の副船長を務めた。
 この漁民、万次郎がハワイを経て、1851年(嘉永4)琉球に上陸した。鎖国の掟を破 ったことで、長期にわたりくり取り調べを受け、故郷、中の浜に帰り着いたのは翌年であった。
 土佐藩で取調べたのは、河田小龍。彼は万次郎を3ヶ月間自宅に逗留させ、口述をもとに、文章と絵で『漂巽紀略』四巻をまとめ、藩主山内容堂に献上する。1854年(安政元年)龍馬は小龍と面談している。

 黒船騒動で、幕府は、急きょ万次郎に出頭を命じ、幕府直参とした。「日米和親条約」の 締結に至るまでの万次郎の功績は計り知れない。

 1853年(嘉永6)龍馬は江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事するため上京。6月初旬、ペリー提督の率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた。土佐藩は品川近辺の警備を割り当てられ、19歳の龍馬も藩の動員令に従って現地に赴いた。三ヶ月後、龍馬は父八平に手紙を書き送っている。

異国船所々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕るべく候

 12月佐久間象山に就き砲術入門。翌年土佐に戻る。1856年(安政3)江戸に再遊学。修行満期に、一年の延期を許され、千葉定吉から北辰一刀流免許を受ける。1858年(安政5)9月、高知に帰る。

 1861(文久元年)、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。
 1862年(文久2)春、龍馬は家人に「神田の桜を見に行く」と言い残して高知本丁筋の自宅を出た。小高い水谷山にある和霊神社(標高50m)に詣でた。土佐勤王党の同志と脱藩し、下関に向かった。
 1862年(文久2)4月1日 下関の回船問屋白石家を訪問。5月 単身九州放浪に出る。1851年(嘉永4)から1858年(安政5)の薩摩藩主島津斉彬の改革で、薩摩には造船所や反射炉などが建設され、先進工業化が行なわれていた。坂本龍馬は、他の志士達と違って京都ではなく薩摩を目指す。あいにく、薩摩には入国できなかった。
 6月下関、7月大阪、京都と放浪し江戸へ出る。閏8月26日に松平慶永(春嶽)に拝謁し勝海舟・横井小楠への紹介状をもらう。10月 龍馬は勝を訪ね、海舟の門下生となる。

 幕府の兵庫海軍操練所の準備組織、勝海舟の私塾「海軍塾」が、「海軍操練所は激徒の巣」と疑いをかけられ解散。勝から西郷への依頼により1864年(元治元年)4月、薩摩藩船に乗り、塾頭竜馬らは鹿児島へ向かった。 鹿児島に到着した彼らは、薩摩藩家老小松帯刀とともに長崎へ向かう。

 1865年(慶応元年)長崎の亀山に社中(のちの海援隊)を開く。

 亀山社中は1865年(慶応元年)閏5月に坂本龍馬が中心となって組織した海軍・商社的な浪士結社だった。薩摩藩の船舶の運用を実施することによって、報酬を得ている。当初は薩摩藩の交易仲介や物資の運搬等で利益を得るを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走した。

 長州藩は37,000両を投じ、グラバー商会から「ユニオン号」を購入する。名義は薩摩藩。亀山社中が薩摩旗を掲げて薩長両藩のために操船・運用する(桜島丸条約)。長州海軍局が「長州が購入費用を負担するからには長州で使用すべき」と主張し最終的には長州海軍局の所属となり船名も乙丑(いっちゅう)丸と改名する。ユニオン号は長州海軍局の統制下におかれ、亀山社中が自由に運行することはできなくなった。だが、亀山社中の同志が乗り組み運行することに変わりはなかった。

1866年(慶応2)1月、坂本龍馬は西郷隆盛と木戸孝允の盟約に立ち会い、薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。

 1866年(慶応2)ユニオン号が、下関から薩摩へ進呈する米を積み、同盟親善のため出港。4月28日、途中長崎に寄港。
 亀山社中が薩摩藩名義で購入した洋帆船ワイルウェフ号(木造、159t)が、荒鉄約7百石、銅地金などの貨物と、乗組員15名、便乗者1名を乗せ、ユニオン号に曳航され、出港し、鹿児島に向かった。

 4月30日暴風雨に遭い、ユニオン号は引き綱を切断。五島列島中通島の潮合崎でワイルウェフ号は難破し、12名が溺死する。
 ユニオン号は薩摩に入港。竜馬が1月の寺田屋事件の傷治療で鹿児島に来ていた。受け取りを拒否された米を積んだまま、6月2日、下関へ出港。途中、6月14日長崎へ寄港し、竜馬は「お龍」を預け、遭難地、江の浜に立ち寄って墓碑の建立を依頼している。

 6月16日ユニオン号は下関へ入港。17日に第二次長州征伐の小倉口開戦となり、ユニオン号は参戦した。

 1867年(慶応3)4月、亀山社中は大極丸の代金未払い等、経済的に行き詰まり、土佐藩の援助を受けることになり、名を海援隊と改める。龍馬は脱藩の罪を許されて隊長に任ぜられ、隊士22人、水夫30数人の構成であった。

1967(慶応3)年4月、龍馬は、諸藩に売る武器(鉄砲・弾薬)・商品を満載し、紅白紅の海援隊旗を掲げて意気揚々と大坂方面を目指した。この海援隊の操る「いろは丸」が紀州藩の船に衝突され瀬戸内海で沈没。龍馬は紀州藩に「万国公法」で交渉、最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれた。紀州藩は賠償金8万3000両を支払うことで決着。実額支払いは7万両。両者が航海日誌を持ち出す日本最初の海事事件談判であった。
 1867年(慶応3)6月後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、国家構想である「船中八策」をまとめた。

 1867年(慶応3)年11月、中岡慎太郎と共に京都で暗殺される。


 長州の高杉晋作

 元治元年(1864)7月、京都三条木屋町で学者が暗殺される。蛤御門の変の7日まえのことだった。勝海舟の妹を妻としていたその学者は、佐久間象山。

 信濃松代藩の下級武士の子として生まれた佐久間啓之助は、16歳から漢学を始め、天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎に学ぶ。天保10年(1839)江戸に私塾象山書院を開いている。
 1842年、老中で海防掛となった松代藩主・真田幸貫(ゆきつら)の命により、江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学に傾倒する。
 象山の父は、藩内一の剣術の腕前で、算術にも明るかった。象山も、熱心に数学を学んでいる。洋学を実践していた伊豆韮山代官の江川太郎左衛門から知識を吸収するのに、この数学の素養が活きた。
 長崎から入る情報で、アヘン戦争により中国がイギリスに敗れたことは知っていた。学者として、その原因を学問のあり方の問題と捉え、西洋に関する知識の探求をする。

 1854年(安政元年)、門人の吉田松陰が、伊豆下田港に停泊中の黒船に密航を試みる。この事件に連座し、象山は松代に蟄居。赦免後、幕命により京都の徳川慶喜に時局を講ずる旅先で暗殺された。

吉田松陰

 1830年(天保元年)、吉田松陰は長州(萩)藩士杉百合之助常道の次男として生まれた。 長州藩山鹿流兵学師範の吉田家に養子となり、19歳の春、師範として藩校明倫館で教える。
 21歳の秋から、肥前平戸に遊学。1851年(嘉永4)、兵学研究のため藩主に従って江戸に行く。江戸、水戸、東北地方、再び江戸、長崎、江戸と旅行を続けた。多くの学者をたずね、学事や時局を論じた。
 近海に姿を見せるようになった異国船に対し、江戸近郊の海岸でさえ防備が整っていない。では、北辺の地の海防はどうなっているのか。自分の目で確かめようと、津軽半島の竜飛崎まで行っている。陽明学を信奉する兵学師範としては、当然の行動であったといえる。だが、当時としては異端であった。

 1853年(嘉永6)6月、ペリー来航の報に浦賀に行き、黒船を眼前に見た。象山の勧めで海外渡航の志を立てる。

 長崎来泊中のロシア艦に乗り込もうとするが失敗。  翌1854年(安政元)3月、再度来航し下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求めたが、拒絶されて自首。江戸伝馬町の獄より萩の野山獄へ移される。12月出獄して杉家に幽居された。

 1857年(安政4)11月、杉家宅地内の小屋を教場とし、叔父玉木文之進がおこした私塾松下村塾を主宰、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋ら約80人の門下生を輩出した。
 日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したために再入獄。 翌年、幕府から東送の命が下り江戸に送られる。訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判して処刑された。享年30歳。

朱子学
 徳川幕府は、朱子学を国学とした。

 907年、世界帝国、唐が滅亡し、960年、宋が中国を統一する。宋は官僚による行政機構を整備し、科挙(かきょ)を始めた。皇帝直属軍(禁軍)を強化し、地方豪族の軍隊を弱体化する。貴族は消滅し、科挙に合格した官僚一族「官戸」の特権階級による支配社会を生み出した。

 日本の平安末期から鎌倉初期のころ、宋の朱子(1130〜1200)が儒学を理論体系化する。その理論は、自然哲学の基礎の上に人間論を加えたものだった。人間は宇宙万物で一番優秀な存在であるから最も純粋な「理」を持っている。朱子は、これを「本然の性」とした。人間は感情や欲望から完全に自由になることはできない。「気質の性」の状態にあるとした。
 心の運動が人間を悪い方向に導く。だから常に人間は動かない物体を研究して、本性である「理」を確認しなければならない。物を究めて知識を確実にして修養をつまなくてはならない。 と、朱子は説いた。

 「文治主義」の宋は、軍事国家「金」に追われ、杭州に南宋(1127〜1279)を建てる。
 朱子学では国の支配者を『王者』と『覇者』に分ける。『徳のある者が国を支配する』という中国伝統が形成される。伝説的な三皇五帝の物語が整備され、北の「金」、北宗は正統な王権ではないよ、『覇者』だ。南の政権は『王者』で、こちらが正統なのだ。 と、主張する。

 「国の正当な支配者は我々である」と言う理念は 、
  • 正当なる支配者は常に絶対の正義である
  • 反抗するものは常に絶対の悪である
  • 従って悪は滅ぼさなくてはならない
  • 正義である支配者に忠誠を尽くすのは絶対の善
 『王者の理論』は、政治体制を安定させる役目をする。しかし、変革の時代には 無力となる。

 江戸時代は朱子学が儒学の正統とされた。武士の行動規範を表した「武家諸法度」は朱子学に拠っている。武士道の理論武装は朱子学であった。
 水戸藩2代目藩主徳川光圀が朱子学の大義名分論の立場で「大日本史」の編纂をはじめた。この大義名分論で日本史を書くと、天皇が正統政権で徳川幕府は『覇者』になってしまう。御三家の立場で、この歴史観を主張することは問題が大きすぎる。水戸藩は大混乱する。

陽明学
 幕府の昌平欝(しょうへいこう)の塾長、佐藤一斎は、表向き官学の朱子学を標榜していたが、実際に信じるところは陽明学であった。陽明学者として"東の一斎、西の大塩"とも称された。大塩は1837年(天保8)乱を起こした大坂の与力大塩平八郎である。

 中国の明の時代、王陽明(1472〜1528)によって危機の哲学「陽明学」が確立される。数万の軍を率いる司令官で勇猛果敢な歴戦の武将王陽明は、戦場の実践学として、「致良知」「知行合一」を主張した。
 朱子学の「理」を「良知」と言い換え、それを実行することを「良知を致す」、つまり「致良知」として、教育の中心に据えた。
 知っていながら行わないということは,まだ知らないということに等しい。知は行なしに成立しない。これが「知行合一」。「誠」は「言」と「成」。つまり、言うを成す。陽明学の知行合一を表す一文字である。

 佐久間象山から洋学を学び、常に海外事情を求め行動した吉田松陰の行動原理は、陽明学の「知行合一」であった。佐藤一齋に学び、一齋が陰で唱える陽明学を排した佐久間象山とは、この点が違う。
 幕末のこの時代、「知行合一」は死を覚悟しなければ実践できない。武士は、戦場で常に死を覚悟する職業軍人のはずだ。わずか3年の松下村塾は、下級とはいえ武士である志士と、「知行合一」を貫いた松蔭との教場であった。

 理気二元論の朱子学は、「理」を建前に権威主義になる。陽明学は、「理」を曇らす心の中にこそ「良知」があるんだよ、と説く。正に、民本主義に帰着する。黒船と大砲で揺するられた日本には、西欧の宗教改革と戦争によって生まれた近代思想を、無血で受け入れる素地があった。自分達の血を犠牲にし、民の血を流すことを避ける知将が幕藩体制内に存在した。これが近代化日本の秘密である。

高杉晋作

 1839年(天保10)萩藩八組士高杉小忠太春樹の長男として生まれる。石高二百石の中級武士の家であった。  1857年(安政4)、藩校明倫館に入学。19歳のとき松下村塾に入門する。

 1858年(安政5)7月江戸の昌平黌に入学。獄中の松陰より10数通に及ぶ書簡を受け取る。翌年、帰藩して明倫館の都講(塾頭)に進みむ。帰藩の10日後、吉田松陰処刑されるの報。松陰より手渡された手紙には次のように記されていた。

死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。
つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。

 1861年(文久元年)、藩主世継毛利定広の小姓役となり、藩政に関与する。

 1862年(文久2)幕府貿易船『千歳丸』が上海に行く。『千歳丸』はイギリス船を買い上げ、船長以下イギリス人により運航されていた。
 高杉は、藩命により上海実情把握のため派遣された。佐賀藩士の中牟田、薩摩の五代友厚らも参加している。中牟田は、長崎海軍伝習所出身で英語ができ、操艦術にも通じていた。

「ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽しているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。」「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためである。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」と高杉は「遊清五録」に記す。

 当時の清朝は、アヘン戦争(1840〜42)の敗北により1842年、南京以下5港を開港し、香港をイギリスに割譲していた。上海は、翌年虎門条約で開港した。
 嘉永3年から太平天国の乱(1850〜63)が起こる。南京条約以降、銀価騰貴と税金の増加により困窮化した貧農が洪秀全革命政権「太平天国」を支持し、1853年に南京を攻略し、天京と改称し首都とした。清朝は、外国軍隊の力を借り鎮圧している。

 高杉が上海を訪問した時、上海攻撃軍が県城を目指して進撃していた。租界からの上納金が目当てだった。高杉はイギリス人やフランス人による自衛中隊が上海の外側防衛線の守備につくのを目撃する。そして次ぎのように記した。
「5月7日払暁、小銃声が陸上に轟いた。みなこれは長毛賊(太平天国軍)と支那人とが戦っている音だろう、という。これが本当ならば実戦を見ることが出来るとひそかに悦んだ。」
「5月10日夕刻オランダ人が来て長毛賊がすでに上海の外3里まで接近している、明朝は大砲の音を聞くことになろう、と告げた。幕府の人々は驚いたが、私は却って喜んだ。」

 「中牟田と支那人の練兵を見る。銃砲は中国の制で甚だ精巧でない。 兵法・器機はみな洋式でない。支那の兵術は西洋銃隊の強堅に及ばない」(6月14日)
「支那人は外国人の役する所となる。憐むべし。我が邦、遂にこれに如かざるを得ざるか。務防これ祈る。」


 長州,長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」は、公武合体的開国通商論であった。京都の朝廷にも江戸の幕府にも受け入れられ、公武合体運動が始まる。薩摩は藩兵を率いて行動を起こした。ここで、長州は藩論を尊王攘夷に転換する。長井雅楽の開国論は薩摩藩久光の公武合体運動と同じものだ。政局の主導権は取れない。
 吉田松陰の門弟であった久坂玄瑞を中心とした松下村塾出身者が、長井の排斥を企てる。師である松陰を幕府に引き渡した張本人は長井であると恨みがあった。長井を支持していた老中・安藤信正が、1862年(文久2)1月15日江戸城の坂下門外で水戸の尊攘激派浪士に斬られる。これを契機に、長州は長井の論は私案にすぎなかったと藩論を転換した。長井は切腹を命じられる。
 薩摩の島津久光が江戸へ向かうと、京都では長州・土佐を中心とする尊攘派の破約攘夷論が盛んになり、尊攘派の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする第ニ次の勅使が送られることになる。土佐藩主山内豊範と500名余の藩兵に護衛されて、1862年(文久2)10月11日勅使が京都を出発する。
 1862年(文久2)11月、松陰門下など25名は、品川御殿山に新築中の英国公使館の焼打ちを敢行。尊攘派公家は、1863年(文久3)3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願の行幸をする。

 上海から帰った高杉は、江戸で英国公使館の焼打ちに参加、京都で加茂神社攘夷祈願を見届け、萩に帰った。10年先に備えるため、10年の暇を申し出て許される。

 1862年(文久2)11月28日、後見職一橋慶喜は、フランス軍艦が大阪に入港し京都に迫る噂もあるが、「余自ら二万の兵を以って大坂に上り、一時彼の地に滞在して、内は京都を警衛し、外は沿岸を防御せんと欲す。然る上は将軍家にも、なるべく速やかに御上洛ありて、京都を守護したまうべきこと勿論なり」と、総裁職松平春嶽の意見を求めた。春嶽の反対により、京都方面武力制圧は実行されなかった。
 1863年(文久3)3月4日、将軍家茂が入京した。将軍に先立って上洛していた後見職慶喜と総裁職春嶽は、尊攘派の勢力を覆すことができず、攘夷の期限を4月中旬と約束していた。総裁職春嶽は、政権返上覚悟で攘夷はできないと断るしかないと進言する。春嶽自身も辞職する覚悟であった。

 3月14日、薩摩島津久光が入京する。久光は公武合体派の近衛前関白に、攘夷の決議を簡単にしないこと、幕府へ大政委任することなど建白書を提出し、尊攘派公卿主導の国事御用掛を廃止することを建議する。しかし、朝幕の反応に見切りをつけ、滞京5日にして鹿児島に引き上げる。
 26日には前土佐藩主山内容堂、27日には宇和島藩主伊達宗城が退京し、3月末までに公武合体派大名は京都からいなくなった。春嶽は21日、総裁職を返上し国に帰った。

 攘夷を行っても勝つ見込みなど無い。負ければ「巨額の賠償金」が待っている。将軍後見職・一橋慶喜は苦悶する。 だが、長州の攘夷派志士による朝廷工作で「条約破棄、鎖国」の勅書が幕府に下る。将軍は大阪に退く、後見職慶喜は江戸に帰る。これとひきかえに、幕府は攘夷を受け入れ、諸大名への布告の期限5月10日と約束した。

 後見職・慶喜は、各藩に対して「おのおの管内の海防をかため、もし外夷が来襲すればこれを掃攘せよ。」と命令を出した。

 1863年(文久3)5月11日未明、長州藩が馬関海峡(関門海峡)に投錨中のアメリカ商船「ペンブローク号」を砲撃する。長州藩の軍艦2隻に追われ、ペンブローク号は周防灘に離脱。
 5月23日、フランス艦キャンシャン号を砲撃。砲弾7発命中、水夫4名死亡。
 5月26日、オランダ艦メデューサ号を砲撃。砲弾17発命中。死者4名、重傷者5名。

 砲術家、中島名左衛門は、高島秋帆の門下で、オランダ人から西洋砲術を学んでいる。長州藩は彼を砲術教授として藩に招いていた。
 3回の戦いの後、戦術会議が開かれる。戦勝気分で楽観的な久坂玄瑞の率いる光明寺党に、「砲台は急ごしらえ、砲の性能は悪い。砲の扱いも照準の定め方も下手。これでは海上を動き回る軍艦に命中させる事は困難。軍艦も同じ、ペンブローク号にあれほど近づきながら1、2発しか命中していない。加えて軍律不完全で統制がとれていない。烏合の衆である。精神力だけでは精鋭を誇る外国海軍には勝てない。」と彼らを批判し、さらに訓練を行う事を進言する。戦術会議の翌日、中島は暗殺される。

 馬関海峡は、長崎への要衝。封鎖されると、長崎での貿易に障害が出る。長州藩の馬関海峡封鎖は、横浜-長崎−上海を結ぶ国際貿易の重要なシーレーンであった。

 1863年(文久3)6月1日未明、アメリカ軍艦ワイオミング号は、長州藩砲台の射程外を悠々と進んだ。下関港に停泊していた庚申丸、癸亥丸、壬戌丸を発見すると、進路を北に直進し、亀山砲台の死角に入り込んだ。
 長州艦庚申丸から砲撃があると、ワイオミング号はマストに軍艦旗を掲げて、32ポンド砲と11インチ自在砲を発射しながら、庚申丸と癸亥丸の間を抜き壬戌丸に攻撃を集中させた。
 壬戌丸は沈没する。庚申丸も致命的な打撃を受けて浸水、癸亥丸がワイオミング号を迎え撃つ。
 癸亥丸の砲弾を一発被弾するが、ワイオミング号は攻撃を続行。沈みかけている壬戌丸の乗員を救出に接近した庚申丸と癸亥丸に、ワイオミング号は猛射。庚申丸を撃沈。癸亥丸を再起不能に大破させる。長州艦隊は壊滅した。
 ワイオミング号は亀山砲台にも甚大な被害を与え、戦闘中は亀山砲台を沈黙させている。そして、馬関海峡を抜け横浜へ帰還していった。

 1863年(文久3)6月5日、昼。フランス軍艦2隻が馬関海峡へ現れる。フランス艦タングレート号は大砲4門の小型艦。セミラミス号は大砲35門のフランス東洋艦隊旗艦であった。
 フランス艦隊は九州方面から接近し、小倉藩に敵意が無いことを確認すると、長州の出方を伺った。長州各砲台は沈黙。
 フランス艦隊は陸上砲台を砲撃し、威力偵察を試みる。長州藩は沈黙。艦隊が壊滅した長州は反撃のしようがない。
 タングレート号が、陸上から200メートルまで接近し、砲撃を開始する。前田・壇ノ浦砲台の射程内から反撃が開まる。砲撃2時間余りで両砲台は沈黙する。
 セミラミス号から陸戦隊70名、水兵180名を出し、前田砲台上陸を試みる。長州藩兵の抵抗を排し上陸に成功、砲台を占拠する。
 長州藩兵は砲台を放棄して内陸へ後退。ほら貝を吹き、鉦、太鼓で鼓舞して必死の反撃をする。火縄銃、弓、槍の武士は、分散するフランス陸戦隊の小銃に狙撃され惨敗。
 フランスは、敵の抵抗が激しいのを知ると前田砲台の大砲を打ち壊し、食料や武器弾薬を燃やして、前田村に火を放ち撤収していった。前田村33戸のうち18戸が焼失。長州藩とフランス艦隊の4時間の戦闘が終わる。
 民衆は、この外国の報復を見ていた。自分たちの村は武士が守ってくれる。その信頼は打ち砕かれた。武士は外国軍に大敗し、とても自分たちの村を守れそうにない。

 1863年(文久3)6月5日,藩主の呼び出しに高杉晋作は、奇兵隊創設を建言し、認められる。下関の豪商白石正一郎の屋敷で奇兵隊を結成する。
 奇兵隊は、藩正規軍ではなく民兵組織を意味する。奇兵隊だけでなく、遊撃隊や力士隊などの長州諸隊が各地で誕生する。領内の寺に鐘の供出が命じられ、軍需工場で115門の大砲が作られる。

 武士、農民や町人の区別なく、志のある者を集めた新しい組織、 奇兵隊は、隊士が増え、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ移る。高杉晋作は奇兵隊結成2ヶ月後に総督を免じられ、河上弥一と滝弥太郎が指揮することになる。

 1863年(文久3)8月16日、急進派公家の三条実美ら7名の国事掛免職の勅許が下る。 三条実美らと長州藩は、京から追放となる。会津と薩摩の軍事クーデター「八月十八日の政変」である。
 長州藩内の急進派は、福原越後ら三家老を将として、京に向けて2千の大軍を進発させる。1864年(元冶元年)7月18日夜、御所の蛤御門を中心に攻撃をかけ、御所に迫る勢いを見せた。西郷の薩摩藩兵が、これを退ける。この変で松下村塾門下の久坂玄瑞が戦死する。

 幕府は、1863年(文久3)5月に横浜鎖港を諸外国に通告していた。9月14日、オランダとイギリスを江戸の軍艦操練所にを招き、横浜鎖港交渉にあたる。
 5月の攘夷談判の書簡は、老中格小笠原長行の独断であったとし、横浜の一港を閉鎖するが、交易は長崎・箱館の二港に移す申し入れをする。
 「国内の騒乱を鎮静することに努めないで、かえって外国に対しこのような談判を開くのは、全く政府の弱力を示すもので、国辱の最大なるものである」とイギリスは忠告する。このような重大事に即答はできぬ、本国に報告し、英仏公使相談をすると答えた。
 幕府は、同年12月外国奉行池田筑後守を正使とする使節団をヨーロッパに派遣する。兵庫港・新潟港の開港と江戸・大阪の開市を申し入れているヨーロッパ各国が承知する訳もなく、最初の訪問国フランスで見切りをつけた使節団は翌年7月横浜港に帰国する。世界情勢の中で、鎖国はもうあり得ない状況であった。

 アメリカは、幕府に長州処罰を求める。だが、当時南北戦争のただ中であったアメリカは、自国の軍艦を増派することは出来ない。動かせるのは一隻程度である。
 フランスは幕府を支持しており「幕府が長州処罰を行うという事だから」と直接行動は考えない。
 イギリス議会は、直接の被害を受けていないのに戦争を仕掛ける事は不当という見解だったが、イギリス公使オールコックは、自己の責任で四カ国連合艦隊による長州砲撃を決定する。長州処罰を名目の軍事行動となる。

 イギリスから井上と伊藤が帰国する。藩の説得を試みる。長州藩は止戦を決定した。しかし、すでに四カ国連合艦隊は出航していた。

 1864年(元治元年)8月5日、午後。馬関海峡に、アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの連合艦隊が現れる。軍艦17隻、大砲300門におよぶ。
 午後2時、砲撃が始まる。2500発の砲弾が降り注ぐ。奇兵隊の手記には「砲台兵士は 即死し、その体は粉々に吹き飛ばされ、再び拾い集めることはできなかった」と記されている。
 二日目、2600の兵士が上陸、砲台を破壊し、再度の前田村を焼き討ちする。大砲すべてを戦利品として収用。8月8日正午,戦闘は終了する。

 諸外国との停戦交渉には、伊藤と井上が適任だった。彼らは「高杉晋作」を推薦し、通訳を務めた。高杉は、四カ国連合艦隊旗艦ユーリアラス号の船上で交渉を開始する。26歳の高杉は家老・宍戸刑馬と名乗った。
 「馬関海峡の安全航行」、「下関港での食料や水、石炭の補給」の要求を認めた。
 「長州攻撃に掛かった費用の負担と賠償金の支払い」を高杉は拒絶する。イギリスが提示した金額は「三百万ドル」。長州の払える金ではない。 妥協案として「彦島租借」が出される。これも拒否した。
 「攘夷は幕府の命令、賠償金は幕府に掛け合ってくれ」と高杉は主張し続けた。

 300万ドルが長州に払えないことは、イギリスも承知の上だった。300万ドルを、横浜鎖港の撤回という交渉のカードにしようとしていた。交渉3回目に講和条約を締結して交渉は終了する。
 この結果、攘夷論の長州藩は、実質開国となる。高杉は暗殺の危険にさらされる。しかし、長州藩が,交戦権と外交権を独自で行使した実績が残った。
 薩英戦争で、幕府は10万ポンドの賠償金を払った。薩摩藩は英国人遺族補償金2万5000ポンド(6万300余両)に応じている。300万ドルは 、日米修好通商条約の1ドル銀貨と1分銀3枚の交換比率からすると、銀貨900万枚。1両=1分銀4枚なので、225万両。
 長州は、村田清風による天保の改革で財政再建を果たし、周布政乃助(すふ まさのすけ)がこれを継いだ。1850年頃(嘉永年間)5万両に及ぶ蓄えがあったと言われる。
 それにしても、300万ドルは大金。万国公論により交渉の余地はある。もし、「高杉晋作」が、合理的な論で賠償金を値踏みし、100年払いの具体案に交渉をまとめ上げたらどうなったろう。彼の持論の「割拠論」が現実となり、防長国独立と言う一大旋風が巻き起こったかもしれない。だが、藩論はそれを許す情勢でなかった。

 幕府は長州処罰を実行する(第一次長州征伐)。1864年(元治元年)11月、幕府軍が、長州の国境に迫る。西郷は総督の参謀だった。西郷の不戦の工作で幕府軍は撤兵して第一次長州征伐は無血で終結した。長州藩は3家老の処刑を実施。 藩主は蟄居して謹慎の意を表した。急進派(正義派)の政務役筆頭であった周布政乃助が自害している。

 椋梨(むくなし)藤太をはじめ保守派(俗論党)が台頭する中、藩内の制裁から免れた高杉晋作は,起死回生の巻き返しを図る。
 脱藩して福岡にいた高杉は、11月27日奇兵隊陣営を訪ね1泊する。奇兵隊長、赤根武人は萩政府との調和論を主張。軍監山県狂介は「時期尚早」と動かなかった。
 12月15日夜半、高杉は雪の功山寺を訪れ、三条実美ら五卿に挨拶を行う。高杉晋作の挙兵に賛同した伊藤俊輔(伊藤博文)を筆頭とする力士隊および石川小五郎総督による遊撃隊の総勢80名により行動を起こした。
 高杉晋作はその日のうちに新地会所(下関奉行所)を占拠,続いて三田尻港の軍艦3隻を接取することに成功した。

 この動きに萩政府は奇兵隊を含めた諸隊に非協力令を発布する。藩兵の出動に際し、藩主は「人命を断ち候儀は、まったく好ましからず候事」と命令する。「そうせい」が口癖の藩主が、この時は命令を変えようとしなかった。
 中立姿勢を保っていた奇兵隊は、翌日長府を出発、吉田を経て19日には伊佐(美弥市)に第一次の布陣を敷いた。対する藩政府は12月26日に萩を進軍し,12月28日に絵堂に陣する。両者は約20kmの距離を保ち対峙した。
 年が改まり1月6日の夜半,奇兵隊による絵堂への奇襲が行なわれる。奇兵隊は本陣を大田の金麗社へ前進させ、1月10日は長登,大木津,川上の三箇所で局地戦が展開され,1月14日の呑水峠の戦いとなった。
 1月14日午前8時、風雨の中,藩政府軍側が先に地理上有利な地点を確保する。2時間経過し遊撃隊と奇兵隊の援軍が藩政府軍の側面を衝く。
 この日の先鋒を務めていた藩政府の荻野隊は火縄銃による武装であった。導火線を雨に濡らし,後退時には約8割の火縄銃が使用不可能になったとされる。形勢は奇兵隊有利となった。
 1月16日,高杉晋作が合流し、最後のとどめとなる赤村を襲撃したが,藩政府軍は武器を遺棄して退却する。

 椋梨藤太以下,保守派は一掃され、藩論は統一された。藩の軍制は大村益次郎の改革案によって西洋式となり、奇兵隊は長州藩の正規軍に組み入れられた。そして,翌年,慶應2(1866)年の四境戦争(第二次長州征伐)を迎える。

 1866年(慶応2年)1月、長州藩の桂小五郎・三好軍太郎・品川弥二郎が京都薩摩藩邸を訪れ、土佐藩小松帯刀(たてわき)、坂本龍馬の立会いで密談がもたれた。薩長同盟が成立する。
 同年3月、高杉は長崎へ向う。外遊を志すが再びグラバーに止められる。軍艦オテント丸(後の丙寅丸)を独断で購入する。代価36250両。ねらいはオテント丸に搭載されたアームストリング砲であった。
 長州藩は薩摩藩を通じて、英国貿易商グラバーから4300のミニエー銃を購入している。

 1866年(慶応2年)6月5日、幕府の第二次長州征伐始まる。この2ヶ月前、長州の漁師たちは「諸処に商売」という名目で一斉に姿を消していた。この頃から幕府軍の動きは長州軍に筒抜けとなっていた。
 「小倉戦争作戦要図」と題された関門海峡測量図が残っている。馬関の各砲台から敵陣までの距離が細かく記されている。長州軍はこの図をもとに大砲の照準を合わせ、的確な攻撃を展開する。大村益次郎の軍制改革は、戦闘地域地図の作製、図上作戦、戦場事前偵察、兵站線確保、これら近代戦術理論を忠実に学び訓練実行されていた。

 大島口、芸州(広島)口、石州(島根)口、小倉口。長州の四方から幕府軍15万が迫った。
 1866年(慶応2)6月7日、幕府軍艦が 大島沿岸を砲撃した。6月8日、大島の久賀を砲撃。6月11日、幕府軍2000が上陸し、大島守備兵は対岸の遠崎へ撤退する。
 海軍総督を命じられた高杉晋作は、12日丙寅丸で久賀沖に停泊中の幕府軍艦4隻へ夜襲をする。混乱により守備軍が大島を奪い返す。

 幕府軍は、小倉城を本拠とし、唐津藩主で老中小笠原長行を総督に、小倉、熊本、柳河、久留米、唐津藩兵と幕府の千人隊など2万の兵力を配置した。
 6月17日、長州は丙寅丸以下4隻で小倉領を砲撃。田の浦を占領し、つづいて門司を制圧する。一旦下関に撤収する。
 7月3日、再び長州軍が海峡を渡り、大里を攻撃。長州軍が有利な戦況に、他藩は兵を動かさなかった。長州軍は、一旦下関に撤収する。
 7月24日、長州軍は小倉城を目指す。城の3キロほど手前、標高50mほどの山がある。その山を越えた赤坂口・大谷口に熊本藩(肥後細川藩)が布陣していた。熊本藩が据えた8門の大砲のうち4門はアームストロング砲と言われる。熊本藩兵が持っていたのもミニエー銃だった。
 800名の長州軍は、114人の戦死者を出す。熊本藩も、弾薬2500を使い尽くし、補給の急使を本国に派遣する。双方ゆずらず、膠着状態が続いた。

 7月30日に突然熊本藩が退却し始め、幕府軍の総督小笠原も富士山丸に乗って去った。幕府軍は8月1日の朝までに、すべて退却した。小倉藩は自ら城に火を放ち、小倉口の戦いは長州藩の勝利で幕を閉じた。
 孤立した小倉藩兵は山岳からゲリラ戦術で長州軍を悩ませたが、翌1867年(慶応3)1月20日に和議が成立した。

 1866年(慶応2年)7月、将軍家茂が死去していた。突然熊本藩が退却したのは、このためであった。将軍は慶喜となる。

 1866年(慶応2年)9月4日、晋作血痰を吐く。長州軍を指揮した高杉晋作は、病魔に敗れ1867年(慶応3年)4月14日死去。享年29歳。 この年の10月15日、徳川慶喜は大政奉還をする。

 関ケ原の合戦より260年、伝来の火縄銃を最も組織的に用いて天下統一した徳川が、新式西洋銃の用い方で自滅した。時代の流れだった。
 三河武士の家臣団を模して作られた徳川幕府は、260年で大きく変質をしている。支配階級となった武士は、旗本・御家人という官僚群に変質していた。200年で培われた特権意識は、新たな軍事的外圧に対応できなかった。本営を守る武士団が「銃を持つ事は足軽身分のする事だ」と拒否してしまう。公武合体の改良主義では、この意識改革は出来ない。時代の荒波を正面に被るリーダー達は、そう理解した。西南戦争で終わる内乱は、避けては通れないことであった。もし、公武合体の旧体制て時間をかけていたら、イギリスとフランスの武器ビジネスにより、国を二分する大流血の内乱になっただろう。
 神聖ローマ帝国の30年戦争、フランスの血の革命、アメリカの南北戦争。アームストロング砲は、このような流血の中から生まれた商品であった。徳川幕府は、家臣団養うと同額の武器購入費を投入しないと生き延びれない。毎年200万両の大金は、到底維持できなかったろう。

 明治維新に先立ち、革命家「高杉晋作」は消えて行った。彼を先導したのは、先に自害して果てた政務役筆頭の周布政乃助ではないだろうか。


 ガラバさの陸蒸気

 グラバー商会は、輸出では茶、絹、木蝋、樟脳、海産物など、輸入では綿織物、毛織物、石炭、砂糖などの商品を扱っている。だが、武器、艦船の取引が、大きな利益を出す。
 1862年(文久2)7月に、幕府は外国艦船の購入を許可する。1864年(元治元年)から1868年(慶応4)にかけて、薩摩、長州、熊本、佐賀、宇和島などの諸藩や幕府に合計24隻を売り込んだ。最多は薩摩の6隻だった。
 艦船取引は利潤も大きく、佐賀藩に売却したカーセッジ号の販売価格は 12万ドル。簿価は4万ドルとなっており、この取引でジャーディン・マセソン商会は5万8千ドルの純益をあげている。(石井寛治の『近代日本とイギリス資本』東京大学出版会)

 グラバーが送り出した英国留学生の世話役になっていたのはヒュー・マセソン。マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めた。
 イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から1898年まで努め、宣教師の人選、現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた。 ビジネスマンであり宗教家でもあった。
 英国人といっても、スコットランドの「ケルト辺境」の出身者である。1873年3月に鉱山採石最大手リオ・ティントを設立し、1898年まで会長を務めた。設立に関わった事業家の中にはロスチャイルド家の名前もある。英国のエスタブリッシュメントにちがいはない。

 上海を拠点とする英国東インド会社をは、1833年に独占権を民間会社に解放する。マセソン商会は、日本に「左手に兵器、右手に文明」というビジネスをしたのだろう。密航という手段を用い、「文明国」の中心に若き国の担い手を送り込む。「非文明国」を教化するミッションに殉じる正義であったのだろう。

 スコットランドでは、ジョン・ノックスにより宗教改革が達成され、カルバン派が主流であった。スコットランドの長老制は合議を特徴とし、各教区の小会、教区からなる長老中会、最高議決機関としての総会で組織されていた。各レベルの代表は選挙で選出され、聖職者でない信徒も「長老」としてこれらの合議体で重要な役割を果たす。総会は「議会」より実質的スコットランド議会であったとされる。

 幕末から明治にかけて、西欧列強の植民地化の波の中に日本は放り出される。 歴史的事実として、このイングランド長老教会とパートナーを組んだことを見落すことはできない。
 幕末のエリート達は、アヘン戦争を最も恐れた。長年にわたり信奉した中華文明に決別せざるを得ない。だが、アヘン戦争のもう一方の文明を恐れた。

 イギリスのキリスト教は、1534年の首長法によりローマ教皇から分離しているが 、教義的にはカトリックといえる。プロテスタント主流のスコットランドにイギリス国教会を強制してピューリタン革命がおこる。スコットランドでは、『神は自ら助かるものを助く、成功、富、財産は、個人の勤勉、倹約と神の選びの証である』とする近代資本主義のバックボーンをキリスト教として継承していた。
 1707年、イングランドとスコットランドの連合で「大英帝国」が成立するが、スコットランド人は独自の議会を失っても、北アメリカなどのイングランド植民地との通商権利を手に入れている。送り出したピューリタンとのネットワークで、大西洋横断貿易によるグラスゴーの発展が始まる。経済学者アダム・スミス (A. Smith)はグラスゴー大学の教授だった。
 グラスゴーは、1830年代以降製鉄業や造船業を主とする重工業都市へと変貌、世紀後半には人口規模においてロンドンに次ぐ帝国第2の都市となっていた。

 日本からの密航者「マセソン・ボーイズ」は、このような情勢の中で西欧文明にめぐり合う。


 1865年(慶応元年)、グラバ−は上海博覧会に出品された英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号を輸入して、大浦海岸に300mほどの線路を敷き、客車三両をつないで走らせてみせた。「ガラバさんが大浦で陸蒸気(おかじょうき)ば走らさす」と話題になる。
 その後、グラバ−は高島炭鉱、長崎造船所とビジネスを展開する。だが、内戦終結で武器、艦船が売れなくなり、薩摩藩などの売掛金返済が滞るようになる。マセソン商会の資金援助に抵当としていた高島炭鉱を処分にするよう迫られた。グラバーは明治3年8月、英国領事裁判所に破産を申告、ここに幕末動乱とグラバー商会の歴史は幕を閉じた。負債総額は50万ドルであった。

 グラバー商会は消えたが、明治14年(1881)岩崎弥太郎の三菱商会が経営権を握ると、グラバーは高島砿業所所長に任命され、後半生を三菱とともに歩む。
 明治26年にグラバ−が住居を東京に移した時、三菱の特別役員として最高役員の二割増の給与を得ている。

 岩崎弥太郎は、1834年(天保5)土佐藩の地下浪人の子に生まれた 。1866年(慶応2)土佐商会主任として長崎に赴任。土佐藩直営の「開成館」は、藩の物産を売りさばき、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎に出先を設けていた。これが大阪土佐商会、長崎土佐商会となる。
 土佐商会の主な取引先は、英国のグラバ−、オ−ルト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュ−ト、ベルギ−のアデリアンなど各商会で、買い取った商品のほとんどは、武器だった。
 1868年(慶応4)9月8日、年号が明治と改まった。長崎土佐商会は閉館し、土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐藩の財政を握る。外国商人と直接交渉できる人物は弥太郎以外にいなかった。
 土佐大阪商会は土佐開成社へと脱皮し、九十九商会になる。この時、藩籍を離れて私企業になる。

 九十九商会は、紅葉賀と夕顔の藩船を貰い受けて、海上運輸業を開業する。船の旗印として三角菱をつけることにした。

 1871年(明治4)7月、廃藩置県の詔書が発せられた。弥太郎は、藩札を政府が買 い上げると知ると、10万円分の太政官札を借り、ただ同然の藩札を買い集めた。7月14日の相場で、藩札と太政官札を引き換え、ぼろ儲けをする。藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらう。そして、川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として船会社を作る。川の字を持つ3人の集まりなので、社名を三川商会と改称した。航路は東京−大阪、神戸−高知間であった。
 競争相手は、郵便蒸気船会社。半官半民で、民間は三井を筆頭に、東京・大阪の豪商や船問屋が資本金を出した。これが赤字となり、明治4(1871)年、政府は会社の始末を三井大阪店の番頭吹田四郎兵衛に一任した。8月になると、三井、鴻池、小野、島田といった富商が株主となって、日本国郵便蒸気船会社(後の日本郵船)が発足した。
 1873年3月(明治6)、弥太郎は「三川商会」を「三菱商会」と改称する。汽船事業は赤字続き。そこで料金を半額にし、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。
 三井は料金を3分の1に下げる。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始ま る。ダンピングに堪えられない中小の船会社は倒れていった。
 西南戦争が起こると、三菱は兵員と物資の海運で巨利を得る。三井は陸軍の経理を引き受け、三井物産は糧食で、大倉組は紺の脚半や足袋や干物の魚で、藤田組は軍服と靴でといった状況。西南戦争の戦費4200万円のうち、三菱は1500万円のビジネスをした。

 こうして、日本の近代資本主義が始まる..................


 花のパリ万国博覧会

 1867年(慶応3)パリで万国博覧会が開催された。幕府は将軍の弟、徳川昭武はじめ25名の使節団をおくる。
 等身大の武者人形が飾られた日本コーナーは、サムライ人気で盛り上がり、茶室コーナーでは芸者がお茶を振る舞つていた。佐賀藩の展示した有田焼は、ペルシャ絨毯のように緻密で綺麗だと大変な興味を持たれた。佐賀藩は佐野常民ら5人の使節団を送っている。

 当時のパリは、ナポレオン3世がパリ大改造を行なっていた。信じられない話なのだが、中世のままのバリは、下水は道の真中の溝に垂れ流され悪臭はひどいもの。 裏町は迷路のように入り組み、犯罪の巣だった。ロンドンで亡命生活を送ったフランス第2共和制大統領、ナポレオン3世には絶えられないことだった。1853から1870年にパリの外科手術をおこなっていた。1855、1867、1878、1889年パリは万国博覧会を開いて宣伝に努める。1889年にエッフェル塔が建設され、華のパリとなった。

 パリの新聞には、「江戸グーベルマン」と「薩摩グーベルマン」として博覧会の日本を紹介している。グーベルマンとはガバメントのこと。
 確かに、日本コーナーの真向かいに「薩摩琉球国」のコーナーが設けられていた。 薩摩は家老、岩下方平(みちひら)を全権として11人の使節団を送りこんでいた。
 薩摩藩は,琉球を石高8万9000石余の属藩としていたが、外交上は琉球王国として独立とみなし、中国との朝貢貿易を継続していた。事実、琉球は将軍が代わるごとに慶賀使を幕府に派遣していた。

 1860年代後半、横浜の英字新聞『ジャパン・タイムズ』にイギリス大使館通訳のアーネストサトウが匿名で「英国策論」 という論文を発表している。「将軍は大名達の盟主とも言うべき存在であり、日本の元首ではなく幕府も日本の公式政府ではないため、幕府と外交交渉を行うことは無意味であり、イギリスとしては天皇を奉戴する雄藩連合に手を貸して、日本の政治形態を一新させ、対日交易の円滑化を図るべきである」というものであった。

 幕府では、遣米使節の一員であった小栗忠順が軍艦奉行になると、念願の製鉄所(造船所)建設に着手する。小栗の盟友で親仏派の栗本瀬兵衛の仲立ちで、フランスの援助に目処がついた。
 調査・測 量の結果、湾の形態や海の深さが最適で、フランスのツーロン港以上の適地である横須賀に建設が決定した。総工費240万ドル。工期は4年。毎年60万ドル支払う約定書をフランス公使ロッシュと交換した。仏人技師ヴェルニーを招聘し、1865年(慶応元)年11月建設が始まる。
 製鉄所1カ所、ドック大小2カ所、造船所3カ所、そのほか兵器廠が造られることになる。慶応4年の完成時には、東洋一の造船所が出現する。

 苦しい台所の幕府は、緊迫する情勢の戦費を工面できない。幕府は、フランスの銀行から借款することにし、600万ドルの仮契約をした。
 パリ万国博覧への使節団は、フランスにおいて本契約の重大な任務を持っていた。

 当時の幕府の年費は歳入700万両。平時でなんとかバランスする。軍艦、武器購入費が 300万両目論まれる。勝つためにはいたしかたない。
 600万ドルは、450万両。この借款の条件は、良質な日本の生糸を販売する合弁会社を設立、幕府が独占権を与えるというものだった。合弁会社の株式は市場で売買され、優良会社の株式は莫大な利益を生む。 だが、大半は紙くずになる。フランス植民地、ニューオルリンズの金採掘会社の同様なプロジェクトでフランスは手痛い失敗をしている。フランス革命の引き金ともなった。幕府が日本国の統治者でありえるか、否か。借款には、厳しくリスク調査がされたと推測できる。

 1851年ロンドンのハイドパークで万国博覧会開催された。5月から10月の会期のうちに、入場者は600万人を超え、当時としては未曾有の動員となった。栄光の大英帝国を象徴する、一大イベントになった。薩摩の英国留学生は、フランスの有力者とコンタクトを取り、準備万端だった。幕府とフランス銀行のビジネスを阻止するには、花のバリ万国博覧会は絶好の外交舞台であった。

 「600万ドルの借款は、にわかにあい破れ候」。会期も終りに近い秋、パリから江戸に報告が届いた。11月にパリ万博は閉会し、6日後、徳川幕府は大政奉還を発表する。 パリの新聞は「日本で革命が起こる!」と大々的に報道した。


参考Webサイト 経済思想の歴史

2004.11.20
by Kon