フランス革命と経済思想



 フランス18世紀の啓蒙主義経済人

 ヨーロッパの18世紀は,実にゆったりとしていた。声高な聖典談義は終り、スペインとオランダの栄光は、たそがれ時を向かえていた。イギリスはまだ後進国で、18 世紀はフランスの世紀だった。その栄光が,1789年の大流血で突然終る。

 社会も科学のように、逆らえない自然法則を持つている。この時代の思想家は、そう考えた。  何だろう?
 経済の「自然状態」、つまり、いろんな力が「自然なバランス」を保つ「均衡状態」。この裏には、どんな自然法則があるのだろう?

 このシステムを、明快に表現したのはリチャード・カンティリョン (1732) だった。
 問題意識は、「所得フロー」のバランス。カンティリョンは裏にあるのは「自然価格」だと洞察した。

 農業が優勢なフランスにいたカンティリョンは、財の自然価格は土地を尺度といた生産コストで決まると結論づけた。こうして、「価値の土地理論」を作った。
 生産に必要な土地が多い財は、少ない財に比べて、価格が高いのが「自然」なんだ、ということだ。一時的な市場価格は需要と供給のバランスだ。でも、長期的には、土地ベースの価格に近づく、と。

 フランスの理論に対し、イタリア「ナポリ啓蒙」派は、経済や社会政策の「効用主義」的見方を採用し、政策の結果は「自然」だけではダメ、「良い」ものでないといけない、と強調した。
 「需要と供給」で決まる市場価格こそ、「自然価格」と考えた。需要の根拠として主観的な「効用」に尺度を置き、土地理論を見捨てた。

 スコットランド人の見方は、スミスの「国富論」で見るように、見解の相違があった。

 まず、フランスの土地価値説は、労働価値説に置き換わっている。清教徒(カルビン派プロテスタント)にとって、価値は仕事であって、財産ではない。
 第二に、「効用」や「需要」が自然価格に影響するのを認めない。清教徒は、「需要」すなわち消費に価値を認めない。
 第三に、フランス式の「自然バランス」を、「富」と「成長」に統合しようとする。後進国イギリスは国策として「成長」が必要だった。

 フランスの啓蒙主義者は、経済の「自然な」働きに介入する政策は、「自然状態」の実現を邪魔すると思う。結果として、「自由な事業」を制限する政府規制を廃止または緩和させる努力をすることになる。

 啓蒙思想家は、自然状態こそ望ましいのだ、と思っていた。でもなぜ?
 これは、どうしようもなく 18 世紀フランス的な基準だった。彼らにとって、これが「最大多数の最大幸福」をもたらす疑問の余地のないことで、資源の最大有効利用が実現する当たり前のことだった。

 フランス啓蒙主義の経済学者たちは、存命中、ごくわずかな政策上の成功しかおさめなかった。派手な貴族階級は、哲学的な試みに既得特権を手放すつもりはなかった。テュルゴーが、賦役の廃止で改革を呑ませたが、王侯貴族は手を尽くして抵抗した。1789年のフランス革命で、問題はおおむね解決されるが、ナポレオン戦争経済が改革を減速させる。

 重農主義者 (フランス啓蒙思想家の一団)

 フランス啓蒙思想家で、剰余(produit net 純生産)を生み出すのは農業だけだ、と考えた一団を重農主義者という。
彼らによれば、製造業は産出を製造するとき、同じだけの価値を生産に投入して使い、純生産はまったく生み出さない。国の富は金銀のストックではない、国の富はその国の純生産の規模だと考えた。

 重農主義者たちは、古いコルベール主義(重商主義)政策のように,商業や製造業を奨励するのは誤りと考えた。商業や製造業を止めろとは言わないが、純生産を生み出さない政府の規制や保護関税で、経済全体をゆがめるのは無駄だよ、というのが理屈だ。

 当時のフランス農業は、まだ中世的な規制が生きており、事業性に富む農民の足を引っ張っていた。たとえば 、国に対し農民が労務を無料提供する「賦役」がまだあった。町の商人ギルドの独占力のため、農民たちは産物を一番高値で売ることができず、資材を一番安いところから買えなかった。

 もっと大きな障壁は、地域間での穀物移動に国内関税があったこと。これが農業取引の飛躍を押さえ、大事な公共資産、たとえば道路や排水は、田舎そのものだった。
 農業労働者の移住の規制で、全国的な労働市場も形成されない。生産的な地域の農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰したので生産量を下げていた。生産性の低い地域では、反対に失業労働者の大群が極貧の中でうろうろし、低く抑えられた賃金が、生産性の高い農業技術を導入する気さえ起こさせなかった。

 重農主義者たちは、「自由放任」を主張した。

 国内取引と労働移動に関する規制廃止、賦役廃止、国営独占企業や交易特権の廃止、ギルド方式の解体などを訴えた。
 財政面では、土地に対する「単一税」を推進した。経済に課せられる税金は、農業、工業、商業とめぐり、やがて純生産にかかる。富の唯一の源は土地だから、すべての税金の負担は最終的には地主にかかる。分散した徴税システムよりも、あっさり、地代に直接税金をかけるのが最も効率がいい。

 重農主義者たちは、自然法則から導かれる社会秩序 と望ましい秩序を区別した。「理想秩序」は、人工的な因習にすぎない。人間が思い込んだ理想に向けて社会がどうあるべきかという話にすぎない。一方、「自然秩序」は自然の法則で、神が与えたもの、人間の小細工では変えられない。人間に与えられた唯一の選択は、政治、経済、社会をこの「自然秩序」にしたがう形にするか、それとも逆らうかだ、と信じていた。

 では、「自然秩序」ってなに?

 重農主義者たちは、経済を三つの階級に分けた。
「生産的」階級(農業労働者と農民)
「無産的」階級 (工業労働者、職人や商人)
「所有者」階級(純生産を賃料として取得)
 所得は、階級から階級へと流れる。経済の自然状態は、これらの所得フローが「バランス」状態、つまりどの階級も拡大したり収縮したりしない時に生じる。いったん「自然状態」が実現されれば、経済は再生産され、そのまま維持続ける。自分たちのシステムを、フランソワ・ケネーの『経済表』Tableau Economique (1758)で説明した。

 1768 年に、フランスが飢餓寸前状態でも、重農主義者は相変わらず「何もしない」。「自然秩序」がどうしたこうしたとか、ケネーのすばらしい知恵が云々と言い続けていた。
 結果として、重農主義者がフランス経済に与えた影響は、わずかだった。テュルゴーが1774-76 年に財務総監として任命され、国内関税撤廃、賦役廃止、単一地租が導入された。その後、撤回されたけれど。

 アンシャン・レジーム   政治機構

 フランス革命前のフランスは、三つの勢力により構成されていた。

 第一身分 聖職者 約12万人
 第二身分 貴族  約40万人
 第三身分 平民 約2000万人

第一と第二身分、合わせて総人口の2%が、フランスの耕地の40%を所有していた。
 国の官職を独占し、免税の特権を持ち、年金も支給されていた。

第三身分 平民

市民 約450万人
 富裕市民(大商人・金融業者・徴税請負人・大地主など)
 中流市民(商工業者)
 無産市民(職人・徒弟・労働者)
 大部分は無産市民であったが、富裕・中流市民は経済の発展にともなって富を蓄積するに至っていた。

 農民
富農・自営農民・貧農に分かれ、大部分は小作の貧農であった。

 ルイ16世は、重農主義者のテュルゴーを財務総監に任命し、穀物取引の自由化、ギルドの廃止などによる財政再建を計画したが、特権階級の反対で失脚した(1776)。
 テュルゴーの後、スイス生まれの銀行家ネッケルが財務総監に任命され、宮廷費の削減や貴族の年金の停止によって財政危機を打開しようとしたが、王妃や貴族の反対にあって辞職した(1781)。

 後任のカロンヌは、特権身分の免税撤廃を名士会に提出したが、強硬な反対を受けて失脚した(1787)。

 課税の企てを失敗させた貴族は、さらに特権身分を再確認させようと、1615年以来開かれていなかった三部会の召集を要求し、第三身分もこれに賛同した。 再び財務総監となるネッケルの就任条件は、三部会を1789年5月に召集することだった。宮廷もこれを承認した。

 三部会の召集が決定すると、第三身分は
  • 代表者数を他の身分の倍にする
  • 身分制によらず多数決による議決
この要求が認められるまでは租税の支払いを拒否すると主張した。

 三部会の各身分の定数は、300・300・600と定められ、会議は議決方法をめぐる紛糾ではじまった。

 身分別の議決は、例えば「特権階級への課税」が議題のとき、第一身分と第二身分は反対、第三身分が賛成して、反対2・賛成1で否決される。結果は明白。

 三部会は40日間にわたって紛糾し、第三身分の代表者達は三部会より分離を宣言し、「国民議会」と称した(6.17)。第一身分の部会も国民議会に合流することを議決する(6.19)。
 翌1789年6月20日、国王が議場を閉鎖したので、議員達はヴェルサイユ宮殿内の室内球戯場に集合し、憲法制定まで解散しないことを誓い合った。

 国王は、国民議会の武力解散を企てたが、聖職者・貴族の中から同調者が国民議会に合流し、もはや身分別審議が不可能となった。ついに国民議会を承認(6.27)。憲法制定議会と改称して、憲法の制定に着手した(7.9)。

 テニスコートの誓い

 旧来の三部会の票決方法では、改革案実現は絶望的だった。第三身分は、票決方法の改革要求を表明した。
 要求を認めさせる戦術として、租税の不支払い戦術を採り、第三身分の団結を誓い合った。 これで歴史が動いた。

 フランスの第一身分 聖職者は、歴史的遺産として、三部会の一票を持っていた。 第三身分の分離宣言で、聖職者は国民議会に合流の議決をする。 ここに、フランス国民がカトリックを心のよりどころとする新たな歴史が刻まれた。

 国王は国民議会を武力解散させようとする。憲法制定議会を、いったん承認するが、保守的な貴族に動かされて外国人傭兵隊をパリ郊外に集結させる。 第三身分のテニスコートの誓いは堅く、2000万人の階級エネルギーで、歴史が進む。

 2000万人のエネルギーを先導したのは、450万人の市民階層であろう。40万人の貴族階級は内部分裂をしていた。市民階層に歩み寄った貴族が、フランス啓蒙主義シンパであった。歴史の結果として、重農主義者の成果は少ないのだが、以後の工業化に伴う経済思想史のなかで、過小評価をすると真実を見間違う。

フランス財政事情

 1715年、フランスでルイ14世が77歳で死去し、わずか5歳の曾孫、ルイ15世が即位した。孫のオルレアン公フィリップ2世が摂政となる。ルイ14世の残した莫大な借財のツケでフランスの財政事情はひどいものだった。

 フランスは、コルベールの重商主義政策により、1664年西インド会社を設立。北アメリカのセントローレンス川流域、五大湖周辺、ミシシッピ川流域の広大な地域を領有し、イギリスと争っていた。ミシシッピ川流域はルイ14世にちなみ、ルイジアナと命名されていた。
 オルレアン公は、スコトランド人ジョン・ローの進言で、国営特許銀行を設立し、発行した紙幣で借財を処理することにした。 Banque Generale が、1716 年に設立され、ルイジアナ運営と貿易の特許が与えられた。
 一方、フランス中の貿易会社を大合同させ、ルイジアナで金鉱を探す「ミシシッピ会社」を創設、この株はBanque Generaleの紙幣で購入できる、というわけだ。ミシシッピ河口には、オルレアン公の名前にちなんだラ・ヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)が建設される。

 国王の負債の返済に使われていた銀行券は、一般投資家によってミシシッピ会社株の購入に使われ、ミシシッピ会社の株高で、うまく循環していた。
 だが、人気の高い「ミシシッピ会社」の株を買えない貴族が、「株が買えないなら金に払い戻してくれ」と要求した。この件で、兌換不能のウワサが広まり、不安になった人々が銀行に殺到した。1720年7月、Banque Generaleの前で衝突が起こり、15人の死者が出た。
 この取付騒ぎで、フランスとヨーロッパが極度の経済危機に陥り、フランス革命の素因になる。

 フランスは、アメリカ独立戦争(1775〜83)に介入し、20億リーブルの戦費を費やした。
 当時のフランスの国庫収入は年間5億リーブルといわれ、1789年に累積債務は45億リーブルに達し、国庫収入の半分以上を国債の利払いに充てなければならない状況となっていた。

 ヨーロッパでは、1769年と1771年に大凶作に見舞われる。フランス・アカデミーは、飢饉の際小麦に代わる食物を賞金つきで募集する。七人の応募があり、七人全員がジャガイモ栽培を提案した。すでに、アイルランドでは南米産のジャガイモが主食となっていた。フランスは飢饉対策としてジャガイモ栽培を普及させる。


 アンシャン・レジーム   外交

 ルイ14世の時代は、フランス絶対主義の最盛期。フランスはヨーロッパ一の強国となり、ヨーロッパの政治・外交・文化の中心であった。

 カトリック教徒であったルイ14世は、絶対王政を強化するために、ユグノーを弾圧し、1685年のナントの勅令を廃止した。20〜30万人に及ぶユグノーが国外に逃亡する。ユグノーには商工業者が多く、フランスの商、工業への影響は大きかった。
 1540年代フランスでカルヴァン派が普及し、国民の3〜5%の人々がカルヴァン派に改宗した。フランスのカルヴァン派の人々はユグノーと呼ばれ、都市の商工業者、一部の貴族に広まり、ユグノー(新教徒)とカトリック教徒(旧教徒)の対立は宮廷をめぐる貴族の政争と結びついて内乱に発展した。30年に及ぶユグノー戦争の終結が、ナントの勅令であった。新教カルヴァン派は英国の清教徒であり、資本主義の勃興を担った人々である。この時代に選んだ宗教政策が、フランスという国を決めることになる。

 ヨーロッパ最強の陸軍を擁し、大西洋・ライン川・アルプス山脈・ピレネー山脈の内側はフランスの領土であるとする自然国境説により、しばしば隣国に戦争をしかけ、領土拡大をはかる。ライバルのハプスブルク家打倒、イギリスへの対抗がスローガンであった。

 スペインでフェリペ4世が亡くなると(1665)、ルイ14世はスペイン領ネーデルラントの継承権が王妃マリア・テレーズ(フェリペ4世の娘)にあると主張して、南ネーデルラント継承戦争(1667〜68)を引き起こし、フランドルに出兵する。が、アーヘンの和約(1668)で、フランドルの一部を得たにとどまる。

 この戦争の際に、オランダが妨害したとして、報復のために突如出兵する。各国の反対とオランダの激しい抵抗にあい、ナイメーヘンの和約(1678・79)を結ぶ。フランドル南部のいくつかの都市を獲得するにとどまる。

 1689年、ドイツのファルツ選帝侯領の継承権を主張して、アウグスブルク同盟戦争(1689〜97)を引き起こす。ヨーロッパ諸国が同盟を結んでフランスに対抗したため、フランスはライスワイク条約(1697)を結んで、獲得した領地を返還した。

 ルイ14世の戦争の最後にして最大の戦争がスペイン継承戦争(1701〜13)である。スペインでカルロス2世(位1665〜1700)が亡くなり、子供がなかった王の遺言によってルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世(位1700〜24、24〜46)として即位した。
 これに対して、オーストリア・イギリス・オランダは、同じブルボン家のスペインとフランスが合同すれば、海外の植民地を併せて飛び抜けた強大国が出現することになり、同盟を結んで対抗した。
 初めフランスが優勢であったが、1704年頃からは同盟国側が優勢となり、1706年にはマドリードが陥落してフェリペ5世が一時追放された。1710年頃からフランスが再び盛り返した。フェリペ5世の対立候補として同盟国側が推していたカールが神聖ローマ帝国ヨゼフ1世の死によってカール6世として即位すると、1713年にユトレヒト条約が結ばれて戦争は終結した。
 ユトレヒト条約では、フランスとスペインが合併しないことを条件にフェリペ5世の王位継承が承認された。英仏は北米でアン女王戦争(1702〜13)を戦っていたが、北米の植民地を失い、フランスは植民地争いで後退する。

 ナントの勅令の廃止、ユグノーの商工業者が大量に国外亡命。フランスは農業大国で生きる道を選んだ。宿命である。
 イギリス農業経済学者のアーサー・ヤングが『フランス旅行記』に革命直前のフランスを書き留めている。

「1789年7月12日、馬を休ませるために長い坂を歩いて登っていたときに貧しい女と一緒になったが、・・・女が言うにはこうだった。「私の亭主は一片の狭い耕地と一頭の牝牛と一頭のやせた馬しか持っていないのに、私たちは一人の領主に地代として1フランシャルの小麦と3羽のひなを、もう一人の領主には地代として4フランシャルの小麦と1羽のひなと1スーの貨幣を払わなきゃならない、もちろんこのほかに重い人頭税や他の租税が課されている。・・」この女は近くで見ても60歳か70歳に見えるだろう。それほど労働のために女の腰はまがり、顔はしわをきざみこわばっているのだ。しかし、女の言うところでは、まだ28歳にすぎないとのことだった。・・・」

 農業は、その地の気候に抱かれ、その土地の恵みを授かるもの。自然には逆らえない。農業を基幹産業とする場合、全国の各地方の個性に目を向けなければならない。その地に合った作物を選び、変化する気候風土にあった文化を育てる必要がある。農業の資本である、土地、自然環境を有効利用するには、その土地で生きる農民が主役となるのが、最も効率的である。
 不在地主が所有する農業資本では、資源の有効利用ができない。フランス啓蒙主義者、重農主義者は、この国の担い手になるはずだった。フランス革命前、この事に彼らは手を打てたろうか。

 耕地には、向いている土地と不向きな土地が有る。農業を基幹産業として推し進める場合、地域差を考慮する必要がある。無理な振興策の場合、飢饉が訪れると、やせた土地の農奴には餓死の危険がある。フランスは革命によってこれを克服できたのだろうか。

1789年7月12日 パリ

 7月12日、前年からの凶作でパンの値が上がりに苦しんでいたパリの民衆は、ネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリのあちこちに集まり不満や不安をもらしていた。
 パレ・ロワイヤル広場で、デムーランが6000人の群衆を前に「市民諸君、武器を取れ」と演説し、民衆は武器商を襲い市民軍が結成される。

 7月14日、パリの群衆は廃兵院に小銃が蓄えられているという情報を得、廃兵院を襲って3万2000の小銃と20門の大砲を奪った。弾薬がバスティーユ牢獄にあるとの情報でバスティーユに向かう。
 2万人以上のパリ市民は、100人ほどのバスティーユ牢獄守備隊と2時間をこえる砲撃・銃撃戦のすえ、夕方に占領して7人の政治犯を釈放した。

 7月15日、ラ・ファイエットはパリ国民軍司令官に就任した。

 全土に広まったバスティーユ牢獄襲撃の知らせに、農民暴動がおこった。貴族領主や大地主を襲撃し、封建的な租税や賦役の根拠となった土地台帳を焼却、抵抗した場合は館に火を付け、領主を殺害した。このような情勢に一部の貴族は国外へ逃亡を始めた。

 8月4日、国民議会は、「封建的特権の廃止」を決議した。自由主義貴族が暴動の進行を防ぐため提案したものである。
 これによって農奴制・領主裁判権・賦役・十分の一税などが無償で廃止された。
 生産物や貨幣で領主に納める貢納は、20年ないし25年分に相当する金を領主に支払わねばならなかった。実際に貢納から解放された農民は少なかった。
 特権身分の免税が廃止され、すべての人が収入に応じて税を納めることも決議された。
 8月26日全国的な暴動が一応沈静化し、審議を終えて人権宣言が採択された。  人権宣言は、主権在民・言論の自由・私有権の不可侵など革命の精神を明らかにした。

 しかし、ルイ16世は、封建的特権の廃止宣言や人権宣言の承認を拒み、軍隊をヴェルサイユに集めて議会の弾圧を企て、依然として食料品が値上がりして貧しい人々の生活を圧迫していた。パリの民衆は再び立ち上がった。


 パレ・ロワイヤル

 摂政オルレアン公は、居城の一画、庭園を一般に公開しテナント貸しをしていた。そこには商館やカフェが多く集まり、パリの一大盛り場となっていた。このパレ・ロワイヤルは貴族の特権、居城内治外法権であり、界隈では王妃を中傷するビラが出回ったり、革命家のたまり場でもあった。
 カミーユ・デムーランが民衆に演説したのは、カフェ・ド・フォワのあたり。城内のサロンで貴族の宴会が行なわれ、民衆はカフェで情報交換や議論をしていた。革命前フランスの文化的状況であった。

 一日おいて、7月14日、武装したパリ群衆は2万人以上に膨れ上がり、3万2000丁の小銃を手に入れる。革命家達の成功であった。
 バスティーユ牢獄守備隊は、スイス人傭兵100人。戦死する。この頃、王の軍隊は常設傭兵隊。伝統的に、スイス人がブルボン家に傭兵として仕えていた。

 パリの革命家とブルボン家の武装闘争事件が、全国の農民暴動にリンクする。ここにフランス革命として歴史に記される事件となる。それは、大国フランスの国内矛盾が爆発寸前であったことを示す。

 10月5日の早朝
 パリの広場に集まった約7000人が「パンをよこせ」と叫び、ヴェルサイユに向かって行進を開始し、ラ・ファイエットの率いる2万の市民軍が後を追った。彼らは雨の中を20km、6時間かけて行進してヴェルサイユに到着した。

 この日もルイ16世は狩りに出かけ、彼らは4時間待たされた。帰ってきた国王がパンの配給を約束した。

 10月6日、明け方
 武装した市民の一部が宮殿内に侵入し、傭兵と衝突して数名の兵士が殺された。これに興奮した民衆が宮殿に乱入して国王を捕らえた。国王がパリに帰ることを要求し、その日の午後に国王一家をパリに連行し、テュイルリー宮殿でパリ市民の監視下に置かれた。ヴェルサイユ宮殿守備隊のスイス人傭兵200名は戦死している。
 ルイ16世は封建的特権の廃止や人権宣言を承認したので、以後政局は安定に向かった。

 国民議会は、教会財産の国有化を決議し、翌1790年に実施に移された。 封建的な地方制度も廃止し、全国の行政区画を定め、ギルドの廃止や度量衡の統一などを実施した。

 立憲君主主義者ミラボー(1749〜91)は、名門貴族の家に生まれ、17歳で騎兵隊中尉に任官したが、イギリスに渡り(1784)、帰国後は自由主義貴族として名声を高めていた。三部会には第三身分の代表として選出され、雄弁をもって国民議会の成立にも大きな役割を果たした。しかし、90年3月頃から宮廷に出入りし、革命派の内情を知らせて宮廷から多くの金を受け取るようになった。

 1791年4月ミラボー急病死で、国民議会とのパイプが切れると、国王や王妃は内外の反革命勢力を頼ってパリから脱出計画を進めた。
 逃亡途中の国王がつかまる事件が発生。国民よりも外国の宮廷を信頼していた国王に、国民の信頼は完全に失われる。

 逃亡事件の2ヶ月後、神聖ローマ皇帝(マリ・アントワネットの兄)はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に共同抗議を呼びかけ、フランス王権の回復を求めるた。これが、フランス人の愛国心を燃え上がらせ、革命戦争の誘因となった。

 1791年、人権宣言を前文とした立憲君主制・制限選挙・一院制を主な内容とする憲法が発布される。国王は宣戦・条約締結などを除く行政権と法律議決に対する拒否権を持っていた。また選挙権は一定額以上の納税者に与えられた。

 ローマ帝国、西ローマ帝国、そして神聖ローマ帝国として文化的統一をした欧州にも、神の代理人としての王侯貴族の時代が終わる。この頃、フランスという国民国家は、まだ誕生していない。だが、敬愛で成り立っていた国王が、この場を逃亡する。今まで従っていたのは、何だったのだろう? と民衆に考えさせてしまった。

 イギリス帰りの立憲君主主義者ミラボーは、当時の平民リーダーで、王室顧問として王と民衆のパイプ役だった。だが、王からの顧問料は、民衆にとっては正義と見なされない。時代は、ミラボーを素通りして、先へ進む。

フランス革命戦争

 1791年9月30日
 憲法制定の役割を終えた国民議会は解散し、10月1日に立法議会が召集された。

 立法議会ではフイヤン派とジロンド派が対立した。

 フイヤン派は、自由主義貴族や富裕市民を代表する立憲君主派で、ラ・ファイエットや第三身分の代表として国民議会で活躍したバルナーヴ(1761〜93)らが指導した。
 ジロンド派は、中産階級や商工業者を地盤とし、穏和な共和主義を唱えた。

 立法議会が直面した最大の問題は対外戦争であった。この頃、亡命貴族が外国と結んで国境に軍隊を集め、国内でも反革命の動きが活発になった。ジロンド派の中でも、戦争によって内外の反革命勢力を一挙に倒す主戦論が強まった。

 1792年3月、ジロンド派内閣が成立すると、国王に迫ってオーストリアに宣戦させ(4.20)、ここにフランス革命戦争が始まる。

 しかし、貴族の司令官には戦意がなく、亡命する者が出る。ベルギー戦線では敗北、6月にはジロンド内閣が崩壊した。オーストリアと同盟を結んだプロイセン軍がライン地方に集結し、フランス国境に迫ってきた。

 立法議会は「祖国危機に瀕す」と非常事態宣言を発し(7.11)、各地から義勇軍がパリに集まってきた。義勇軍は、今までの豊かな市民を中心に結成された国民軍と異なり、一般の民衆や農民が自発的に応募してきたもの、装備や訓練は不十分であったが闘志にあふれていた。
 この時、マルセイユから来た義勇軍によって歌われて広まったのが、現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」である。

 義勇軍が前線におもむく。しかし、国王は義勇軍を認めず、外国と通謀し、王妃は敵軍の司令官に一刻も早くパリに入り国王一家を救出してくれるように要請した。
 これを受けて傭兵隊長は「もし王室に少しでも危害が加えられるならば、パリ全市を破壊して、永久に記念となるような復讐をするであろう」と宣言を発した。

 革命派の都市民衆は、当時の貴族や富裕市民が着用していた半ズボン(キュロット)は着けない。キュロットをはかない者の意味でサンキュロットと呼ばれた義勇兵は、ジャコバン派の指導のもとで、1792年8月10日早朝、テュイルリー宮殿を襲って王宮内に侵入し、近くの議場に難を避けていた国王を捕らえた。
 立法議会は、ただちに王権の停止を宣言し、男子普通選挙による国民公会の召集を決議した。そして3日後に国王一家はタンプル塔に幽閉された。

 この間も、戦況は依然として不利であった。1792年9月20日、フランス軍はパリ東方の小村ヴァルミーでパリに迫ろうとしていたプロイセン軍を初めて撃退した。この戦いは民衆の義勇軍が職業軍人の軍隊に勝利をおさめた歴史的な戦いであった。

 フランス共和政

 1792年9月21日  義勇軍勝利の報にわきかえる中で、男子普通選挙で選ばれた国民公会が開かれた。ただちに王政の廃止・共和政の樹立を宣言した。

 国民公会では議員の大半を共和派が占めた。なかでもジロンド派とジャコバン派が有力であったが、どっちつかずの中間派が大多数だった。

 1789年にパリのジャコバン修道院内に憲法友の会が設立され、92年9月にジャコバン協会と称した。91年夏までは立憲王政派が、92年夏まではジロンド派が、それ以後はジャコバン派がリードした。
 ジャコバン派は、下層市民や農民の支持を受け、急進共和主義を主張した。国民公会では最初ジロンド派よりも劣勢であったが、マラー、ダントン、ロベスピエールらに率いられて、革命の徹底を強調し、革命の激化を防ごうとするジロンド派と対立した。

 医師マラー(1743〜93)は、革命勃発とともに「人民の友」という日刊紙を発行してパリの民衆の間で人気を博した。国民公会議員に選出され、ジャコバン派の指導者として活躍したが、後にジロンド派の女性に自宅の浴室で刺殺された(1793.7)。
 弁護士ダントン(1759〜94)は、革命開始とともにパリで活躍し、ジロンド派内閣では法相に起用された。国民公会に選出され、ジャコバン派の指導者となり、公安委員会委員としてジロンド派の逮捕・反革命の鎮圧などに尽力したが、後にロベスピエールと対立し、ギロチンで処刑された(1794.4)。
 弁護士ロベスピエール(1758〜94)は、三部会に選出され、国民議会では左派に属し、立法議会への現国民議会議員の立候補を禁止する法案を成立させた。従って立法議会時代は議員でなく、ジャコバン・クラブを指導して対外戦争に反対し、ジロンド派と対立した。高潔な人格と清廉の士として評判が高く、国民公会にはパリから首位で選出された。国王裁判・ジロンド派の追放などに活躍する。

 国民公会が直面した最大の問題は国王裁判であった。ジャコバン派は、国王の処刑を主張してジロンド派と争った。国王裁判は11月に始まり、翌1793年1月14日に票決が行われた。
 「ルイは有罪か」は、693対28の圧倒的多数で有罪が決定した。「判決には国民の承認を求めるべきか」は大差で否決された。
 「いかなる刑をルイに科すべきか」の票決が行われ、387人が死刑に賛成し、334人は死刑以外の刑に賛成した。ただし、387人の中26人は死刑執行猶予の条件付き賛成であった。
 「刑の執行を猶予すべきである」という提案がなされると、これは310対380で否決された。
 1793年1月21日、午前11時頃、軍隊と群衆が取り巻く革命広場(コンコルド広場)で、ルイ16世はギロチンで処刑された。ルイ16世の処刑はヨーロッパ諸国の君主に強い衝撃を与えた。

 1792年秋頃からフランス軍は攻勢に転じ、国境を越えてベルギーやライン地方へ進出してベルギーを占領した(1792.11)。
 イギリスは、革命に好意的で不干渉主義を取っていたが、フランス軍がネーデルランド方面に進出すると、オランダを支援するようになった。そしてルイ16世の処刑が行われると、イギリスはフランスと国交を断絶する。国民公会はイギリスとオランダに宣戦を布告し(1793.2)、さらにスペインにも宣戦した(1793.3)。

 イギリス首相ピットの提唱によって、オーストリア・プロイセンの同盟にイギリス・オランダ・スペイン・ロシアが加わり、第1回対仏大同盟(1793〜97)が結成される。
 フランス国内でも王党派による反革命内乱が起こり、ジャコバン派とジロンド派の対立が激化する。この内外の危機に、ジャコバン派は革命裁判所(1793.3)・公安委員会(1793.4)を設置し、さらに最高価格令を公布して(1793.5)、民衆の協力によって危機を克服しようとした。

 革命裁判所は、政治犯の審理のためにパリに設置され、反革命分子や政敵を逮捕すると簡単な審理でギロチンに送り、テロ政治の重要な機関となった。
 公安委員会は、国民公会内の委員会として設けられたが、ロベスピエールの加入(1793.7)以後は、政治・軍事の最高指導機関となり、事実上の政府となった。
 最高価格令は、インフレと生活必需品の欠乏から国民を守るために、まず穀物に、9月以後は全生活必需品に適用された。最高価格が設定され、違反者は反革命容疑で逮捕された。

 国民公会

 1793年6月2日
 ジャコバン派は、サンキュロットの力を背景にジロンド派を国民公会から追放して国民公会の指導権を握り、以後急進的な諸改革を次々に強行する。

 国民公会は、まず「1793年憲法」を採択した。人民主権・男子普通選挙・抵抗権・生活権などを内容とし、1791年憲法に比べ、はるかに民主的な憲法であった。国民投票で承認されたが、革命の激化で実施が延期され、結局実施されなかった。
 7月17日
 「封建的貢租の無償廃止」を最終的に確定した。これによって領主権の無条件・無償廃止が行われた。この土地改革によって、多数の農民は中小土地所有者となり、以後フランス社会の中間層を形成していくことになる。
 同時に国外に逃亡した亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が分割されて競売に付された。支払を10年間猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れることができた。

 さらに、徴兵制の実施・革命暦の制定・理性の崇拝・メートル法の実施が行われる。

 徴兵制は、1793年2月に30万人の募兵を決定し、同年8月には世界史上初めて全国民を対象とする徴兵制が決定された。 義勇軍は正規軍に統合される。

 革命暦は、共和政が成立した1792年9月22日を紀元第1日とし、1年を12ヶ月、1ヶ月を30日、残りの5日をサンキュロットの日として祭日とし、1週7日制も廃止されて10日ごとに休日を設けた。1793年10月5日に採用が決定され、1806年1月1日にグレゴリ暦へ復帰されるまで続いた。

 理性の崇拝は、反キリスト教運動の合理主義的な宗教儀式で、1793年秋からパリをはじめ各地で行われたが、ロベスピエールは1794年春にこれを廃止して最高存在の崇拝に代えた。

 メートル法は、1793年に国民公会で実施が決定され、1799年に正式に採用され、現在でも全世界で行われている。パリを通る子午線(地球の周囲)の4000万分の1を1mとした。

 ジャコバン派は、急進的な諸改革と平行し、公安委員会や保安委員会の権限を握り、独裁体制を強化していった。

 事実上の政府とも言うべき公安委員会は、ロベスピエールの加入後(1793.7.26)権威が高まり、ジャコバン派独裁の中心機関となった。
 保安委員会は、国民公会内の委員会として設置され(1792.10)、治安・警察を担当し、公安委員会に継ぐ権限を有した。

 ジャコバン派は、ジロンド派の追放以後、国民公会の指導権を握り、公安委員会・保安委員会・革命裁判所などを指導下におさめる。

 1793年10月16日のマリ・アントワネットの処刑後、多くのジロンド派の人々や反革命容疑者がギロチンで処刑された(10月から12月までに177名)。

 徴兵制の実施によって、フランス軍は60万人以上に達し(同盟国軍は計40万人)、1793年の秋以後、フランス軍は各地で次々と勝利をおさめ、戦局は好転して対外的な危機は遠のいた。
 しかし、ジャコバン派が行った経済統制の成果は上がらず、物価の値上がりは依然として続き、また封建的貢租の無償廃止によって土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者は次第に保守化し、ジャコバン派の独裁に対する不満が高まり、テロ政治への不安も強まった。


 ジャコバン派独裁

 こうした状況の中で、ジャコバン派の指導者内部にも対立が生じた。ロベスピエールは過激派のエベールや穏健派のダントンを処刑して、独裁を強化する。

 エベール(1757〜94)は、大衆新聞を発行してパリ民衆に大きな影響力を持つようになった。8月10日事件を指導して台頭し、サンキュロットを代表して最高価格令や理性の崇拝などを要求してエベール派を率いた。しかし、ロベスピエール派と対立し、公安委員会への反乱を企て、逆に逮捕・処刑された(1794.3)。
 ダントンは、ジャコバン派の右派の中心人物として、革命の過激化を嫌い、テロ政治の緩和を主張してロベスピエールと対立し、1794年4月に処刑された。

 ロベスピエールは、ダントン処刑以後完全な独裁権を握り、革命の徹底化をはかり、反対する者を反革命容疑で続々と逮捕・処刑し、テロ政治は絶頂に達した。
 1794年5月には346人が、6月には689人が、そしてピークの7月には936人がギロチンによって処刑された。

 この間、ロベスピエールの独裁に反感を持つ人々によって反ロベスピエール派が形成される。ジャコバン派内にも、ロベスピエールの告発を恐れる人々がいた。彼らは自分がギロチンに送られる前に、先手をうってロベスピエールを倒そうと考え、ジャコバン派以外の国民公会議員と結んで反ロベスピエール派を形成した。

 1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)
 この日開かれた国民公会は反ロベスピエール派による演説妨害・ロベスピエールへの攻撃演説で大混乱に陥り、その混乱の中でロベスピエール派の逮捕が決定される。
 ロベスピエールは逮捕されて監獄に送られた。しかし収監を拒否されてパリ市役所に逃れた。

 翌28日午前2時頃、市役所は反ロベスピエール派の国民公会部隊に襲われ、ロベスピエールは再び逮捕された。そして革命裁判所で形式的な尋問を受けただけで死刑の宣告を受け、28日の夕方に処刑される。

 これによってジャコバン派の独裁とテロ政治は終わりを告げた。


 ロベスピエールとルソー

 ロベスピエール(1758〜94)
(Maximilien Francois Marie Isidor de Robespierre )
 代々アルトワ州アラスの弁護士の家系出身。6歳で母親を亡くし、10歳の時に父親が蒸発。きょうだいの面倒を見ながら、苦学して弁護士となった。
 貧しい庶民の弁護を多く引き受けて有名になる。愛読書はルソー。
 三部会アルトワ州第三身分代表となり、パリに出て政治活動を開始する。

 「貧困とは社会が生み出した罪悪である」というルソーの考えの信奉者であるロベスピエールは、金持ち(王家、貴族)も貧乏人(下層労働者や零細農民)も居ない国を作ろうと、中流以下の人たちの「武力」を背景に、非常手段としての高圧政権の代表になった。

 高潔な人格と清廉の士として評判が高く、国民公会にパリから首位で選出されたロベスピエール。自分の理論を信じ、自分の行動を律することができる人物だった。生涯独身で、女性と関係したことがあるかという研究まである。
 権力を握っても甘い汁を吸う気はない。パリでは指物(さしもの)職人の家に下宿暮らしだった。サンキュロットのリーダーなら高官になっても屋敷など持つ必要もなかったのだろう。
 彼の信念の根底にはルソーがあった。だが、「社会契約論」をテキスト通りに実行するのは、彼の本意ではなかった。ジャコバン派左派エベールの要望で「理性の崇拝」を実行するが、中止している。憲法友の会を指導した時も、対外戦争に反対している。

 最高価格令は、下層市民にとってはありがたい法律だが、商工業者の上層市民にとっては迷惑なこと。最高価格令を守らせるには、強引な手段が必要だった。非常時とはいえ、権力の集中と独裁は結果的に死刑の乱発を招いた。消すことのできない歴史の教訓といえる。

 ダントンは、ロベスピエールと並んで、かつてはジャコバン派のリーダーの一人だった。金銭スキャンダルが絶えず、上層市民に近い立場をとっていた。
 処刑場に連行されるダントンは、迫力ある表情でスケッチされている。画家ダヴィッドを見て、「この下司野郎!」と吐き捨てている。
 ロベスピエールの下宿の前を通ると、2階を見上げ、「ロベスピエール、次はおまえの番だ」と叫んで過ぎて行った。

 ロベスピエールは、市庁舎の一室で、パリ市民への指令書を書いていた。そこに国民公会から差し向けられた兵士が踏み込む。机の中のピストルをつかみ、振り向いたロベスピエール、兵士の撃った弾が顎をうち砕く。顎から、ボタボタと血が落ち、「Ro」の署名の横に血痕を残した。1794年7月28日夕刻。ロベスピエールは処刑された。

 ジャコバン派独裁が終わった1794年には、戦況は好転、物価も安定して、危機は山場を越えていく。
 1795年には新しい憲法が制定され、下層民を排除した制限選挙によって新しい政府がつくられました。この政府は、富裕市民、土地所有農民の利益を代表する。

 独裁をさけるために5人の総裁を置いた政府は、指導力の弱い政府になり、政治的な緊張がゆるむ一方で、政府転覆の策謀が繰り返され、政局は不安定になる。

 貴族社会を復活させようとする王党派グループの策謀はつづく。他方、バブーフは、共産主義社会をめざし、ごく少数のメンバーでの武装蜂起を計画していた。事前に計画が漏れて反乱は失敗する。


ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712〜1776)

 1712年スイスのジュネーブに時計職人の息子として生まれる。出産で母は死亡。
 10歳のとき,父が家出し,兄とともに徒弟奉公に出される。
 16歳でジュネーブを出て,カトリックに改宗し,フランスを転々とする。この間,13歳年上のワレン婦人と同棲し,後の思想形成の基本となる膨大な読書をする。
 家庭教師をしながら生活するが、音楽にこそ自らの才能はあると思っていた。

 1745年,のちに結婚するテレーズ・バシュールと同棲し,5人子どもをもうけるが,孤児院に入れる。
 1749年,のちに百科全書派の思想家となるディドロにパリのカフェで会い,百科全書の音楽の項目執筆を依頼される。

 ブルゴーニュの中心都市ディジョンのアカデミーが募集した論文に『学問芸術論』が当選。

 この後『人間不平等起源論』『ヌーベル・エロイーズ』『社会契約論』『エミール』を出版した。

 『エミール』はパリ高等法院が焚書としたため,ルソーは投獄を恐れてパリから逃れ,以後,各地を転々とする。

 死後出版の予定で『告白』を執筆。
 1776年,『孤独な散歩者の夢想』を書き,同年66歳で亡くなった。

 公募した「学問と芸術の復興は,習俗の純化に寄与したか,どうかについて」という課題に,学問や学芸を身につけることによって,かえって人間がもっている荒々しさが損なわれ,国家は衰亡すると論じた。
 当時のフランスはルイ15世の世紀であり,対外戦争に明け暮れていた。デビュー時は,国家の意思を代弁する知識人として認められたのだろう。

 ルソーは、『社会契約論』の最終章で「市民的宗教」について述べている。宗教には、人間としての宗教と市民としての宗教があるよ、とまず言う。宗教は、市民に「祖国」への愛と奉仕を結びつける大切なもの。共同体は「守護神」をもつべきだといっている。
 でも、間違えないでね、キリスト教は社会契約をする前の生まれたままの人間の心の宗教なんだ。それについては、各人のお好きにどうぞ。とも言っている。
 でも、キリスト教は隷属と依存しか説かない。専制者にとって、あまりに有利なので、利用されるけど、危険だよ。と言っている。

 フランス革命の共和政主義者はルソーを読んでいた。でも、大半の知識人は、読んでいない。「宗教には、人間の宗教と市民の宗教があるよ」という前提が分かっていない。1793年秋からパリをはじめ各地で行われた理性の崇拝は、いったい何 ?

 西欧の政治的統一原理に、キリスト教を利用したので、奴隷社会になってしまった。生まれたままの個人の心の救いとしては、キリスト教はいいんだけれど、共同体社会の教義に利用したのは間違いだった。市民としての宗教イベントをしよう。これが、「理性の崇拝」。
 フランス革命前に、こう論じたルソーは、当時の社会では拒絶された。だが、共和政主義者には理解されていた。ジャコバン派独裁で政策として実行されたが、いささか急進的ではあった。西欧民主主義の「正教分離」は、こうして一歩を踏み出した。極めて革命的な事件であった。

 ルターの宗教改革以来100年。やっとキリスト教は、個人の心のふるさとに回帰し、任を解かれた。パリ大学は、革命期に新しい社会の要請に応えることができず、廃止されることになる。神学の一部として論じられた「価値論」は、大学の外で経済学として生まれる。


  リチャード・カンティリョン

Richard Cantillon 1680?-1734

 スペイン名を持ち、フランスに住んで、2 千万リーブルを儲けてからイギリスに移住した。ロンドンの自宅の火災で死亡。
 1732 年頃、フランス語で書かれ「Essai」 は、死後 20 年して匿名でイギリスで刊行された 。フランスではよく知られていたが、英語圏では1880 年代になって再評価された。

 「経済」というものを市場の集合とし、それらが価格システムで結ばれて、バランスのとれた循環的なフローが存在している、というビジョンを提示した。
 単純明快に、地主と労働者の一般均衡で、「土地価値説」の完全なモデルを示した。

 生産要素は二つ(土地と労働)で、財は二種類(必需品と贅沢品)だとする。結果として、4 つの市場ができ、価格も 4 種類出てくる。
人には二種類あり、地主と労働者だ。
  •  地主は、土地を所有して贅沢品を消費する。
  • 労働者は、労働を所有して必需品を消費する。
 所得と支出で言えば、

  •  地主の、所得は地代、支出は贅沢品購入。
  • 労働者の、所得は賃金、支出は必需品購入。


 このような関係で、地主と労働者の間に所得と支出の循環的なフローがあると考えた。実線は所得、破線が支出。

 直感的に、所得、支出、労働供給のフローが「バランス」していないと、この経済単位が崩壊する。たとえば労働者が必需品を買うのに十分な賃金をもらえなかったら、飢え死にする。すると、労働を投入し必要な財が生産されなくなり、地主も贅沢品を買えなくなってしまう。

 土地の総量 T は決まっているとする。ある国の食料生産に使える面積は限られているという前提で議論する。

 一方、総雇用 L はどうだろう。カンティリョンは、「無限の生活資源があったら、人々は納屋のネズミのように果てしなく増殖する」と見た。生産される必需品の量 XN が、この経済単位の養える労働の総量 L を決めると予測した。

労働と土地の総需要を L = LN + LU と T = TN + TU としよう。

 利益は存在しないとする。ある状態が維持できればいいとしよう。 総収入と総コストが等しいということになる。

 総収入は、単純にそれぞれの財の生産量と値段のかけ算だ。一方の総コストは、財の生産で使われる労働と土地に、それぞれ賃金と地代のかけ算だ。数式で書けば、

pNXN=wLN +tTN   (1)
pUXU=wLU +tTU   (2)

 ここでpN ,pU はそれぞれ、必需品と贅沢品の単価
    w、t は労働の賃金単価と土地の地代単価

 この系が長期的にバランスするなら、必要な労働量を維持するのに十分な必需品が生産されなきゃいけない。
 これは、賃金総額が必需品を買えるだけの金額でないとダメ。つまり
pNXN=wL=wLN+wLU   (0)
となる。式(1)と比較すれば、
tTN=wLU

式(2)に代入すれば、
pUXU=tTN+tTU

 地主が消費する総額は、きっちり地代だけしかない。当然の話。


 労働者は均質としよう。c=XN/L は、一人の労働者の必需品の量という意味になる。

式(0)より、
w/pN=XN/L=c  つまり  w=cpN

 これは、一人の労働者が必需品を買う収入が賃金ということを意味する。これが所得フローを維持するメカニズムである。

 さて、この条件で、他の価格も決まり、土地Tによってすべての価格が決定される。土地が市場を決める源泉。カンティリョンは、「土地価値説」を唱えた。

 数値モデルで「土地価値説」を表現する前に、準備として「技術」を定義する。
XNを作るのに必要な労働を、次ぎのように表現してみる。
  LN=αLNXN
同じように、XNを作るのに必要な土地は
  TN=αTNXN
贅沢品についても
  LU=αLUXU
  TU=αTUXU

 例えば、αTUは1単位の贅沢品を作るために必要な土地(単位投入量)という意味。 耕作技術が進歩すると、少しの土地で1単位の贅沢品を作ることができるようになる。土壌改良であったり、品種改良であったりする。これは、その時点の「技術」といえる。ここでは、「技術」は決まっているとして議論を進める。

式(1)に単位投入量を代入すると、
   pN=wαLN +tαTN   (1’)
   w=cpNを代入して、   pN=cpNαLN +tαTN  (1’’)
結局、
   pN=tαTN/(1-cαLN
同様に、
   pU=(cαLUtαTN/(1-cαLN )) + tαTU
  w=ctαTN/(1-cαLN
 これで、地代 t を基準として、他の3つの価格が決まる。

 カンティリョンは、土地 T と、そこに住む労働者一人当たりの必需品の量 c と、生産「技術」によって、すべての価格が決まることを示した。

 結論から遡ると、
   L=αLUT/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))
で、その土地に投入する労働量が決まる。

 地主は地代 t を提示して、賃金 w を約束する。
    w=ctαTN/(1-cαLN

 労働によって無事収穫される必需品と贅沢品に相当する量は、
   XN=cαLUT/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))
   XU=(1-cαLU)T/(αTU + cαTN αTULUTULNTN ))

 一旦、 XNとXUに相当する収穫物は市場に出され、
tTとwLの収入を得る。tTは地主、wLは労働者に分配される。

 労働者は、賃金すべてを生きるための必需品に消費する、その物価は
   pN=tαTN/(1-cαLN

 地主は、生産に直接タッチせず収入を得て、消費する。その意味で、贅沢品と呼ぶが、その物価は
   pU=(cαLUtαTN/(1-cαLN )) + tαTU

 地代 t により、賃金w、物価pN、pUが決まる。四つの市場の価格が地代 t の比率で確定する。具体的な金額は時代やそれぞれの国の物価水準で決まる。物の「価値」は、何かを基準にして相対比率がきまれば、それでいい訳だ。小麦とりんごを交換する時に、一旦「金」に換算して交換する。合理的な交換尺度を決めることが経済学の「価値理論」。

 カンティリョンは、経済学の最も基本となる、財の「価値」は、地代 t 、結局は、土地 T で決まると代数学で表現してみせた。

 この「土地価値説」は、革命前のフランスで唱えられた。すでに十字軍の11世紀にフランス農業は荒地を開拓する時代は過ぎていた、商業も発達していた。穀物生産を主体とする農業国フランスの事情を整理したものだ。

 地主と農民(労働者)の「経済単位」があり、小麦を生産する大多数の集団と、塩、乳製品、ブドウを生産する集団が商人によってリンクされると考えてみよう。
 塩に特化した集団の商品「塩」の価格は、「小麦」を生産する集団の必需品価格とリンクして決まってくる。乳製品もブドウも同様。
 こうして、所得と支出の循環的なフローが、商品リンクにより社会全体でバランスすることを明示した。

 当時のフランスは啓蒙主義の時代。自然科学の原理のようなものが経済にもあるはずだ。自然の摂理に逆らえないように、原理にしたがう経済活動が真理で、それが「自然状態」なんだ。こんな社会風潮だった。ケネーは「経済表」でフローの説明を試みている。カンティリョンは数理経済学の元祖として代数を使った。

 りんご三つ、ミカン三つから「3」という数を抽象化する。これが数学。3、5、9といった数字から変数Aを抽象する。これが代数学。このような思考能力は、物物交換を貨幣尺度で合理的にする商人、特にに異国間の交易をしたアラビア文化で発展した。スペイン名を持つカンティリョンが、数理経済学の元祖ということに、妙に納得するのである。

 カンティリョンは、「価値」と「価格」はちがうよとも言っている。市場で今日決まったパンの「価格」は、今日の需要と供給で折り合いがついた。その日によって変動する。でも、長期的に「自然状態」で落ち着く理論値があるはずだ。それがパンの「価値」。それを知るには、代数学で整理できる経済モデルが無くちゃいけないよと明示してくれた。1732年の「Essai」は文化遺産といえる。


    「自然」の掟

 自然科学の法則と同じように、人間の社会にも法則があるはずだ。時代の最先端をゆくフランスのサロンで、議論していた啓蒙主義者は確信を持っていた。
 自然科学と違って、社会科学には人間の思惑が入る。市場の売り買いがそうだ。 だから、まず「価値」と「価格」は同じような物だけど、二つに分けて考えよう。「価格」つまり市場の値段は、その時々の人の駆け引きによるけど、裏に本質があって、それを「価値」としよう。そりは、こんなに完璧な数式で表せる。これこそ、真理で「自然」なんだよ。と、カンティリョンは示した。

 その法則に従えば、労働者の賃金は必需品を買う値段ということになる。農民が、日の出から日没まで働き、空腹を満たすのに必要なお金。この金に手をつけたら、王様や貴族は、自分で農業しなければいけない。とカンティリョンは言っている。

 王様や貴族は、決めた地代以上の贅沢をしては駄目。越えてはいけない掟だ。とも言っている。
 総人口の2%の特権階級が、フランスの耕地の40%を所有していた。いくら贅沢三昧でも、2000万人から徴収した地代で、50万人の特権階級は、十分満足なはず。マリー・アントワネットが、いくら派手だって知れている。問題は戦費。

 28歳の農夫が60歳の老婆のようだった。農奴の暮らしは限界に近かった。気候不順で飢饉が起こることは、農民に蓄えが無い事を証明している。ところうが、「パンをよこせ」と迫ると、王様はパンを出してくる。結局、余裕は特権階級に吸い上げられていたことが、分かってしまう。

 飢饉の時は、振る舞いが王様の義務。そういう知恵を王様は持っていた。でも、その非常時の蓄えを戦費に使ってしまっていたら、どうなる?

 ドイツで1618年から1648年まで、30年戦争が続いた。新教と旧教の宗教戦争なのだが、連続30年じゃない。4回の戦争が、5年程の期間くリ返されている。これか見ても、農民から吸い上げた余裕が戦費に使われ、その蓄えが底をつくと和議になる。領土が広がって気分のいい王様が半分。土地を奪われた王様が半分。結局戦争はビジネスになるの? 傭兵隊長はしっかり儲けているけれど。 耕地を荒らされた農民はどうなの? 略奪、暴行を受け、戦場となった人達はどうなの?

 大国フランスの場合、財政事情はもっと深刻だった。年間の収入は5億リーブル。その数倍を前借してしまっていた。この不良債権を債権化した金融商品は、取り付け騒ぎで破綻していた。1789年に累積債務は45億リーブルに達し、国庫収入の半分以上を国債の利払いに充てなければならない状況となっていた。 この債務の債権者は誰?

 「パンをよこせ」から始まった暴動は、自由主義貴族で収拾はつかない。債権者の貴族が、あっさり債権放棄をするはずはない。ロベスピエールがテロ政治で刑場に送った人達の中に、何人大口債券者がいたのだろうか。こいう歴史資料はあるのだろうか。

 国内が処理されたとしても、債権者は国外にいる。革命干渉が必ず起きる。ブルボン家は、伝統的にスイスの傭兵隊長に戦費の債権があるだろう。フランスは、大包囲網の中、ナポレオン戦争を戦う。


 フランス・リベラル学派 (The French Liberal School)

 19 世紀フランスの経済学者で、古典派経済学に従いつつ、効用や需要に役割を認めている人達がいた。かれらは、機械化による失業、一般的な過剰など、古典派の悲観的な話しを避け、階級間の「調和」や市場の自律システムの万能ぶりを強調したかった。急進的自由放任主義路線を支持し、イギリスの「マンチェスター学派」に共感していた。

 ナポレオンの政権は、保護主義と規制による「戦争経済」を作ろうとしていたので、リベラル派は弾圧された。
 1815 年以後、ブルボン王朝が復活し、リベラル派は、体制派と親密な関係となるが、ブルボン政権の絶対主義的な傾向が不満で、1830 年の七月革命を支持した。
 リベラル派の最大のライバルはシスモンディとフランス社会主義者たちだった。両者の中間にサン・シモンがいた。

 19世紀中頃、フランスのリベラル派の自由放任経済政策支持は、マンチェスター学派よりもっと極端だったし、政府への影響力は大きかった。フランス国民の心や思考をめぐる争いで、ライバルの社会主義者が多少成功したが、1848 年の六月暴動とナポレオン3世の第二帝政の成立で勢いを失った。

 第二帝政の間、フランスの大学職はほとんどリベラル派に占められていたが、 経済政策のあれこれに専念し、まともな理論展開を試みず、漠然とした「需要と供給」的な思考を展開していた。
 1878 年以後、フランスの大学法学部に、政治経済の教授職が設けられるようになった。その職は、ほとんどフランス歴史学派の人々だった。フランスは、経済学では経験論的な方向に、政策提案では協調組合主義 (corporatist) 的な方向に向かった。

参考Webサイト 経済思想の歴史

2004.12.26
by Kon