リトアニア1940




 1939年夏  ポーランド

 1939年8月15日モスクワの独大使が、リッベントロップ外相とスターリンおよびモロトフ会談を申し入れる。モロトフ外相は独ソ不可侵条約と日ソ間の調停、バルト諸国に対する関心を表明。

 1939年8月18日「独ソ関係改善の第一歩は通商、クレジット協定の締結、続いて不可侵協定もしくは1926年の中立協定の再確認」、独外相のモスクワ訪問は「十分の準備時間を必要とする」と回答。
 リッベントロップの訪ソ日程の繰り上げはヒトラー自らがスターリンに訴える以外に手はないと独大使は本国に打電する。

 1939年8月19日ベルリンで通商、クレジット協定調印。
 1939年8月20日深夜、ヒトラーからの電報がスターリンの手元に着く。

 1939年8月21日夕方、独外相のモスクワ訪問受け入れの回答が届く。
 1939年8月23日独外相はモスクワを訪問、夜を徹し条約の細部合意に達する。独ソ不可侵条約が調印される。
 1939年8月24日朝、このニュースは全世界に伝わる。英国首相チャーチルは、「この不気味なニュースは爆発物のように世界の頭上で破裂した」とその衝撃を述べる。


 1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランド・ドイツ不可侵条約を破ってポーランドに侵入し第二次世界大戦が勃発。1500機からなる空軍部隊と戦車・装甲車を主力とする150万の地上部隊を投入し、わずか3週間で9月27日にワルシャワを陥れた。

 1939年9月17日ソ連もポーランド東部に進入、独立回復から20年余りでポーランドは再び地図から消える。政府首脳は国外に逃れ、ロンドンに亡命政府を樹立、国内では地下闘争組織が作られてゆく。


 1939年夏  ノモンハン

 1939年5月12日、外モンゴル人民軍がノモンハンからハルハ川を越えて満洲軍と衝突。付近のハイラル駐留の関東軍第23師団が、処理要項に従って出撃、外モンゴル軍を退却させる。

 5月28日、ソ連機械化部隊がハルハ川東岸に渡河(兵員約1000)。関東軍の捜索隊(機械化された騎兵隊)が包囲され全滅。
 関東軍司令部は、ソ連軍撃退の方針を決め、第1戦車団と第2飛行集団を新たに加え反撃(兵員約1600)。ソ 連側はハルハ河西岸に退却した。(第一次ノモンハン事件)


 スターリンは、司令官をジューコフ中将に替え、戦車旅団、 砲兵連隊、飛行旅団など大幅に戦力を増強して、再度の攻撃を命ずる。

 1939年6月17日ソ連空軍は満洲国側の数拠点への爆撃を行う。
 1939年6月27日関東軍は、ソ連のタムスク飛行場を爆撃機30、戦闘機77で急襲。撃墜99機、爆破25機、基地の半分を破壊する。 日本側の未帰還機は4機。
 ロシアとの全面戦争を懸念する東京の参謀本部は以後の越境空爆を禁止しする。

 ソ連軍は、大兵力をハルハ河東岸に展開。対する関東軍は二手に分かれ、一手はソ連軍を直接迎撃、もう一手は大きく北側を迂回してハルハ河を渡り、背後からソ連軍を襲う作戦とした。
1939年7月3日
 北側に迂回した一手は、ハルハ河に鉄舟を並べ渡河奇襲に成功し、戦車100両余りを撃破炎上。その後、ソ連軍が襲いかかり、師団参謀長は戦死、戦況悪化により同夜ハルハ河東岸に撤退。
一方、第1戦車団を基幹とする支隊はピアノ線障害物と砲火で潰滅状態となり、後退に至った。
1939年7月4日
再攻撃も敵戦車と高地からの砲火のため、戦線膠着。

東京の日本政府と大本営は、日中戦争拡大中であり、対ソ戦の不拡大を決定、外交的解決を模索する。

1939年7月23日
  関東軍参謀部が東京の方針を無視、重砲3個連隊を動員して砲兵戦で反攻勢に出る。
 ソ連軍は、第1集団軍騎兵3個師団、狙撃兵3個師団、5個機甲旅団を投入。持久線に入った。ソ連の圧倒的な物量作戦により関東軍は損耗を重ねていった。

 スターリンは日本軍への大攻勢の準備を急がせる一方で、8月12日にヒトラーに、 独ソ間の問題を論議する用意がある旨の電報を打つ。そして、「ドイツは日本に圧力をかけ、ソ連に対して別の態度をとれと説得するつもりはあるのか」と外相を通じ尋ねる。
 ドイツ外相は日本に影響力を使うことを約束、「総てはヒトラーが約束する。文句があるなら、日本の攻撃は止められない」と回答。

 ソ連軍の作戦構想は、関東軍の両翼に強力な打撃を加え、ハルハ河東岸に捕捉して包囲殲滅することであった。8月中旬までに兵員5万7千名、戦車498両、装 甲車385両、航空機515機、火砲・迫撃砲542門の大兵 力を展開。
1939年8月20日
 ソ連軍は総攻撃を開始。対する関東軍は兵員2万数千名 戦車0輌 火砲・迫撃砲100門 であった。
1939年8月23日
関東軍の攻撃兵力は弱小で、近代野戦の縦深の陣形ではなく防御用の鉄条網も設置されていなかった。第23師団は戦車主体の機械化師団に包囲され壊滅する。

全戦線にわたって関東軍を圧倒したソ連軍は、主張する国境線で進撃を停止。8月30日関東軍に攻勢中止の大命が伝えられた。

 1939年9月15日モスクワで東郷駐ソ大使とモロトフ外相の間で停戦合意が成立、 9月16日、日ソの停戦協定が発表される。ソ連軍がポーランドになだれ込んだのは、その翌日であった。

(第二次ノモンハン事件) 日本ソ連
兵員戦死8,741名9,703名
兵員負傷8,664名15,952名
航空機損害179機1,673機
戦車損害29台800台

 宣戦布告なき日ソ戦争といえるノモンハン事件は、1939年の歴史の足音のなかで、ひとまず終結した。 この戦果から何を学ぶべきか。第一次世界大戦で登場した航空機、戦車、装甲車を前提とした戦術に日本は初めて遭遇し、初めて敗け戦を経験した。近代戦争は戦場で先端兵器とその物量を競うもの。好むと好まざるに関わらず、進軍ラッパの鳴り渡る時代は過去の戦場であることを掴み取る必要があつた。それを最も拒否したのが職業軍人であったことは、皮肉な現実といえる。

 1939年9月2日 リトアニア

 1939年7月、フィンランド公使代理・杉原千畝は「欧州の政策」という2通の報告書を本国に送っている。そして9月2日、新任地リトアニアに着任する。

 杉原領事代理によれば、カウナス領事館の開設時期は、ご存異存なければ今月10月20日といたしたく。 また開設費は金庫、和洋食器類、装飾品を除き大体リトアニア貨で二万リストを要する見込み......。

 同領事館開設にあたっては、電信コードと電信用金庫を備えつける必要あり。杉原をベルリンに出張させ、同地大使館よりコードの配布を受けるとともに、金庫を購入させたし。この段、御許可願いたし。
            (ラトビア領事館大鷹正次郎)

 カウナスはポーランドからの難民で時ならぬ住宅難だった。千畝はカウナスの丘の住宅街に領事館用の住宅を見付ける。 当時、バルト三国のうちラトビアのリガに日本公使館があり、大鷹正次郎大使がリトアニア領事館 開設の本国との交渉役であった。ホテル住まいの千畝の報告を中継していた。

 1939年10月17日、杉原一家はバイツガンタス街30番地の領事館に身を落ち着けた。庭つきの眺望きく住居で、日本領事館をひらいた。
 1ヶ月半前、隣国ポーランドは ドイツとソ連の侵攻により消滅していた。十五世紀の同盟国の災いに リトアニアは平静であった。むしろ、ポーランドの災いはリトアニアの福といううわさが聞こえてくる。ポーランドに占拠された旧首都ビリニュスが返還されるだろうと。

 領事館から坂をくだるとスウェ-デン大使館があった。ある日のパーテイで日本領事館が雇い人を探していることを話題にすると、ポーランド青年が推薦されてきた。


1939年 ポーランド

 1939年8月24日。ポーランドの鉄道駅では、どこでも新聞売り子が「号外!号外!」と叫んでいた。ドイツ外相リッペントロップとソ連外相モロトフが昨日不可侵条約結んだ、とある。

 西ポーランドのソスノビエツで穀物商をしていたバーナードは、ワルシャワ行きの列車から降り、引き帰すことにした。ソスノビエツ駅についたのは午後2時だった。
 家につくと「午後4時の列車でここを出る」と妻ロシェルに告げる。妻は反対した。しかし、すぐに赤ん坊ジュリーを抱き、持てるだけの衣類を荷造りした。家も、商売も、かなりの銀行預金もそのままだった。4時の列車を待つ間、身内に電話して、一緒に来るようにいった。しかし、二人の両親は親族ととどまるほうを選んだ。

 1939年9月1日ナチスの攻撃が始まった。昼間、街道では避難民の列が戦闘機の機銃掃射で逃げ惑い、夜は宿泊した町が爆撃される。そんな日々が続いた。
 バーナードらは東へ、東へと進んだ。今まで会ったことはなかったが、行く先の製粉所に泊めてもらった。ソ連との国境、ルーツルで一休みすることにした。9月4日、故郷ソスノビエツでナチスがユダヤ人13人を射殺したと知らせを受けていた。だが、国境を超えたソ連には世界に開けた窓がないことは分かっていた。

 1939年9月18日、ソ連がルーツルに入ってきた。突然、ソ連がリトアニアにビリニュスを返還しようとしているうわさが流れた。もし、ビリニュスの明渡しの時、そこにいれば、ポーランドを脱出できる。国境のほうが頭の上を越して行く。バーナードはビリニュスを目指し、10月15日に辿りついた。


1939年 ジュネーブ

 1939年8月。ゾラとナオミは結婚して一年半だった。ワルシャワでゾラの弁護士の仕事は順調だった。ジュネーブでの国際シオニスト会議に彼は出席を求められていた。

 1939年8月24日、新婚旅行を兼ねたジュネーブでゾラはラジオのわきにいた。会議を中断して周りには一同が聞き入っていた。会議は中止となり、ポーランドに向けてユーゴ、ハンガリー経由の列車をチャーターした。その列車は、「ユダヤ人はパレスチナに帰れ」の声の中、故郷に辿りつくことになる。

 今の世界情勢を説明するひつようはないと思います。闇が私立ちを包み、暗雲のかなたを見ることは出来ません。私は、生きて再開できればと祈るだけです。生きてさえいれば、私達の事業は続けられると信じます。闇の中からだけ、新たな光は射してくる。
 あなたたちとともに、その日が来ることを祈ります。
               イスラエルに栄光あれ!

 1939年ジュネーブの国際シオニスト会議は議長のこの言葉で散会する。 ゾラはワルシャワに帰り、周辺に戦車壕をつくる義勇軍に参加する。1939年9月7日、ポーランド防衛体制は崩壊し、政府はパリに亡命する。
 ゾラ達は、ワルシャワが封鎖される寸前に東に向かった。夜歩き、ユダヤ人の村落を辿っていった。 最初はブレストを目指したが、ルーツルに向かうことにした。

 ゾラとナオミは杉原リストの455番である。リトアニアのビリニュスは、一万5千人のポーランド難民を抱えるようになった。ほぼ2週間の間の出来事である。1939年10月15日には国境は厳重に閉ざされる。 以後、国境近くの町村では越境難民は摘発されドイツ占領下のポーランドに送還された。それでも、国境無人地帯に人が集まる。飢えと寒さを凌いだ一団が獣の群れのように暴走を繰り返した。数人は撃たれたとしても、群れの勢いで大半は越境していった。

1939年 リトアニアのビリニュス

 1939年10月11日、ソ連はポーランドのビリニュスはリトアニアのビリニュスになると発表する。その後、リトアニアは返還祝賀行事のあと、「リトアニア人のためのリトアニア」措置を始める。
 9万人のリトアニア在住ユダヤ人は市民権を奪われ、20年前から在住のユダヤ人以外は経済活動の制限を受けることになる。

 反ユダヤ主義は西欧社会の宗教に根ざす深い根を持つ。19世紀末から20世紀始めにかけてロシア各地でボグロムがあった。1939年10月31日、ビリニュスで暴動が起きる。「パンだ、パンをよこせ、金を出せ!」とユダヤ人がふくろ叩きにあう。「見ろ、ユダヤ人が馬車に乗っている!」と引きずり降ろされる。
 すでに赤軍が略奪を欲しいままにしたビリニュスは、いっそうすさみ、暴徒は店や住宅を襲った。


1940年春 リトアニア

 1940年4月、トアニアは2万5千とも言われるポーランド難民を抱えて春を迎えた。住宅事情の予断は許されない。半年先の領事館の賃貸契約について、一年延長の約束を取りつけたので杉原領事代理は、同意依頼を本国に打電している。

 本省アメリカ局第3課からの依頼に、杉原領事代理は次ぎのように報告している。
 一月中旬の貴職よりの電報に基づき、小職は当国ビリニュス在住A・カッツに対し3月21日、本邦入国ビザを発給したので、本件ビザ調書を別添送付す。なお同人はナンセン旅券にて出国手続きを終えたあと、ビザ発給を願い出たり。もし当領事館にてこの旅券でビザ発給を拒めば、彼の出国は事実上不可能となる。よって情状やむをえざるものと認め、例外としてこれにビザを発給したので御承知ありたし。

 東京在住のMGM映画会社の支配人が義理の弟へのビザ発給を依頼した。「ナンセン旅券」 とは亡命政府が発行する旅券(パスポート)である。ポーランドはイギリスに亡命政府を置いている。したがって、まずイギリス領事館で臨時パスポートを取得する。つづいて渡航先のビザを申請するのが正規手順である。
 本国外務省を通じて、本人の身元引受けを確約しているのだから出先領事代理はスタンプを押しさえすれば事は足りる。杉原領事代理は何を意図して返電したのだろう。

 「ナンセン旅券」のナンセンは国際連盟の理事F・ナンセンの名前に由来する。変動する国際情勢のなか1922年に作られた。昭和8年(1933)に国際連盟を脱退した自国が、これを認めてよろしいですね。杉原領事代理は念押しをしている。


 1940年4月9日、ドイツは中立国のデンマークとノルウェーに対して最後通牒を突きつけ、受諾したデンマークを占領、受諾を拒否したノルウェーを攻撃してオスロを占領、ロンドンに亡命政権を樹立して抗戦を続けたノルウェーを6月に占領。

 1940年5月10日、オランダ・ベルギーに対する奇襲攻撃で西部戦線の大攻勢を始める。オランダは5日間で降伏、ベルギーも5月末に降伏した。ベルギー領内にいたイギリス・フランス軍はダンケルクへ退却し、30万以上の将兵がダンケルクからイギリス本土へ退却。
 1940年6月5日、ドイツ軍はパリの北方で総攻撃を開始し、6月14日にパリ陥落。ド・ゴールがロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言しレジスタンスを呼びかける。

 ドイツ軍の電撃作戦でイタリアのムッソリーニは6月10日にドイツ側に立ってイギリス・フランスに宣戦布告。 1940年9月27日日独伊三国同盟を結び、11月にはハンガリーとルーマニアを三国同盟に参加させる。ドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、ソ連のルーマニア侵攻に対抗して10月にルーマニアに侵入していた。


1939年〜1940年 東京

1939年8月28日
 独ソ不可侵条約の衝撃により平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を残し、総辞職。
1939年8月30日
 安部信行内閣誕生。外務大臣安部兼任。9月25日に外相野村吉三郎(元海軍大将)就任。
1939年9月1日
 第2次世界大戦勃発。翌日、「帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」と声明発表。
1939年9月15日
 モスクワで東郷駐ソ大使とモロトフ外相の間でノモンハン事件停戦合意。 翌9月16日日ソの停戦協定が発表される
1939年9月17日
 ソ連軍がポーランド侵入

1940年1月14日
 元陸軍大将安部内閣は難局を陸軍内部の不信任により乗切れず総辞職。
1940年1月15日
 米内光政(元海軍大将)内閣誕生。 外務大臣有田八郎。
衆議院において斎藤隆夫(民政党)の「反軍演説」問題(1940.2.2)が起った。  斎藤の演説の趣旨は、「戦争がおこってしまえばそれは聖戦とかなんとか言っても、結局は徹頭徹尾力の争いになってしまい、強弱の争いである。そこには八紘一宇とか東洋永遠の平和とか、そんなものは偽善に過ぎない」というものである。米内首相も畑陸相も、「なかなかうまいことをいうもんだな」と感心していたが、この発言を問題視する陸軍により倒閣計画が進められる。陸軍大臣が辞表を奉呈。米内首相は後任の陸相を求めたが、陸軍三長官は後任を推薦せず、米内内閣は総辞職する。
1940年7月22日
近衛文麿内閣誕生。 外務大臣松岡洋右。
1940年9月27日
日独伊三国同盟を締結


1940年夏 リトアニア

1940年6月15日
 ソ連はラトビア、エストニアにつづきリトアニアを占領。1ヶ月以内の選挙を要求。
1940年7月15日
 共産党員による選挙で新議会が発足。リトアニアのソ連併合が決まる。
ソ連はリトアニア日本領事館閉鎖期限を8月31日と通告。
 
 1938年夏、欧州のユダヤ難民について話し合うエビアン会議は、32ヵ国の代表者の間で具体策を打ち出せず幕を閉じた。特に中立国は難民援助に消極的だった。いかなる問題においても当事者にならない。それが中立国の建前。永世中立国スイスは、会議の主催国になることを拒み、会議はフランスのエビアンで開かれた。
 1939年8月北欧4国は中立宣言をする。自国を戦場にしないための選択だった。宗教も文化も違う異国の出来事ではなく、同じキリスト教という根を持ち、2000年にも及ぶ歴史と文化を隣人として生きてきた欧州の民族問題である。この問題で当事者にならないためには、卑怯といわれる程に身を引いて構える必要があった。例えば、スエーデンは15歳かた50歳のユダヤ男性の国内通過ビザ発行を拒否している。

 イギリスはパレスチナ移民制限をしていた。ローマ軍と戦い国を追われたユダヤ人が、急に故郷だといって入植してきたとして、毎年2万人押し寄せたら人口70万のアラブ人が平静でいられるだろうか。かってのカナンの故地は無人の広野ではなかった。
 自由の国アメリカもフロンテイアはすでに無く、議会でユダヤ移民拡大法案は否決されていた。当時のリトアニア米領事は「ユダヤ人は、その親類アラブと対決して、自らの運命を開拓することだ。十分な武器があれば、なんとかやれるだろう」と回想している。


 めまぐるしい戦況に合わせたように、ヨ-ロッパの片隅、バルト三国のリトアニアに日本領事館が開設され、杉原千畝が派遣された。ロシアと東清鉄道の買収交渉で満州国外交部担当者として成果をあげソ連通の千畝には、対ソ諜報活動のミッションがあった。当時の陸軍次官山脇正隆のラインであったと思われる。

 ノモンハンで遭遇した近代戦争においては、もうひとつ諜報活動(インテリジェンス)が重要な要素であった。ソ連は日本政府中枢の情報をゾルゲの情報網から入手していた。スターリンがノモンハンからポーランドに反転したのはこの情報を基にしていた。日本もポーランドを巡る重要な場所に杉原千畝を送り込んだ。その杉原千畝がここで見たものは、反ユダヤ主義で孤立したポーランド系ユダヤ人難民であった。

 イギリスやアメリカ大使館でビザ発給を断られ、途方にくれる難民に杉原千畝は手をさしのべようと考えていた。オランダ領事館が協力した。
 オランダは西インド諸島に植民地を持っていた。オランダ人の求めに応じ旅券に「キュラソー(およびその他のオランダ領西インド諸島とスリナム)へはビザは必要ない。現地の総督だけが上陸許可発行の権限を持つ」と注釈をいれた。これは、行き先明示のビザとして取り扱われた。後に、2行目は削除される。

 日本領事館は、これに日本の通過ビザを発給した。日本の通過ビザがあればソ連の通過ビザは問題無く発給された。
 絶望していたユダヤ人の間に、キュラソービザの話題が広まった。オランダ領事館と日本領事館の前には行列が出来た。

 7月末の数日間、カウナスの領事館はごった返した。イギリス領事館もイスラエル入国許可の証明書を出した。この時期、芋判を作り大量のビサが発行されるが、8月3日には閉鎖された。7月28日オランダ領事館も業務を停止していた。

 19740年7月28日発 電報50号

 リトアニアの共産党工作が急速に進展したのは、GPUの仮借なき、かつ電撃的なテロ工作が行われたためなり。GPUはまず赤軍進駐とともにポーランド人、白系ロシア人、リトアニア人、ユダヤ人の政治団体本部を襲い、団体名簿を押収せり。選挙三日前から団員の一斉検挙を開始。今も継続中で、今日までに逮捕された者はビリニュスで1500人、カウナスその他で2000人。その大部分は旧ポーランド軍人・官吏、白系ロシア人将校、リトアニア旧政権与党の幹部、シオニスト、ユダヤ人などで、前首相、前外相は家族とともにモスクワに送られたり。なお1週間前に抑留ポーランド軍人1600人がサマラ方面へ送られたことに対し、イギリス側はソ連に抗議中。
 粛清開始以来、危機を感じ、農村に逃亡したもの少なからず。ドイツ領に脱走した者数百人といわれ、ユダヤ人は日本経由で渡米すべく、ビザを求めて当領事館に押しかける者、連日百名内外におよびおれり。
 リトアニア日本領事代理から本国に極秘電が送られている。

 19740年8月17日発 

 カウナスのアメリカ領事館にビザ申請はあったが、申請の99%が無駄になった。適法の旅行書類を持った者は、ほとんどいなかった。その結果、出国ビザを得た者、そして交通期間の便を得た者は、さらにわずかだった。
 リトアニア米国副領事からアメリカ領事館閉鎖の日、本国に打電されている。法律で認められたポーランドに対する年間移民割り当てのうち5000人分は手付かず残された。

 日本領事館の2週間

 リトアニアにあったユダヤ教神学校の生徒、ズブニックは、学校の生徒らの300人分の旅券を持って 日本領事館の前に来た。最初の日は、ポーランド人のガードマンに遮られて用は足せなかった。次ぎの日、ガードマンに10リトス手渡し裏口から入らせてもらった。

「君はどういう人?」
秘書官のグッヅがたずねた。
「ミラー神学校の者です。キュラソーへ行くつもりです。なんとかしてください」
秘書官は領事代理に取り次いだ。
「私は君達が日本に来て、出られなくなると困るのだが、わが国の政府にどう説明したらいいのだろう。」
「アメリカに導師が待っています。心配はないといってくれています」
「だけど、アメリカ航路は今、就航していないのじゃないの?」
「導師は船を持っています。私達に用意すると約束しました」
「その証明は?」
「暗号で電報をやり取りしています。信用してください」
領事代理は、ズブニックの顔を何度も見た。
「わかった。君たちを信用しよう。だが、これは通過ビザである、必ず出国する、と日本語で書いた特別のスタンプを用意しよう」

2、3日してズブニックは日本領事館に行った。
「こんなに沢山!」と秘書官のグッヅが悲鳴をあげた。
「じゃあ、手伝います。」
「そうだ、手伝ってもらおう」と領事代理がいった。
それから2週間、秘書官のグッヅの横で神学生ズブニックはスタンプを押しつづけた。

 秘書官のグッヅはカウナスで生まれ育ち、ドイツ語、ロシア語、リトアニア語が話せた。 妻はドイツ人で高校の教師をしていた。グッヅの祖国はドイツで、ヒトラーの政策には批判的だった。 若い頃ユダヤ娘と付き合っていたとも言った。

「なんとお礼を言っていいやら...」
「まあ、私が君にしたことを忘れないでおくれ」
バルト海のほとり、リトアニア日本領事館で非アーリア系ドイツ人とユダヤ青年はこうして2週間の共同作業を終え別れた。

 1940年8月24日 ウラジオストックで乗船を拒絶されたし

 キュラソービザの話はリトアニアのユダヤ人の間に広まり、日本領事館の前に行列が出来た。カウナスにはソ連の旅行社が店をオープンした。

 1940年7月23日発 
 昨今、多数のユダヤ人および他の難民が、欧州より日本経由で米大陸各国に行けり。現在、日本郵線ベルリン支社のみで、600名の難民を日米間で輸送せんと作業中なり。さらに多数の要請が寄せられつつあり。貴殿におかれては、目的地および入国許可手続き完了にあらざれば、わが国通過ビザを発給されざるよう要望す。
  外務大臣松岡洋右の名前でベルリン駐在大使・来栖三郎に電報が送られている。同様な訓令は欧州の在外公館に伝わっている。リトアニア以外でも日本の通過ビザは多数発行する状況となっていた。

 1940年8月7日発  電報58号

 チェコスロバキア旅券に通過査証を与えることに差し支えなきや。回答ありたし。なお当地ドイツ公使館は、この旅券に例外的にドイツ通過査証を発給する場合もあり。
 チェコはドイツ侵攻で保護領となっていた。チェコ旧政府発行の旅券に対して日本通過ビザの発行に問題があるのか、リトアニア日本領事代理は本国に問い合わせている。
 1940年8月10日発  電報18号

 1939年3月16日前に発給されたか、期間延長されたチェコスロバキア旅券は、有効期間内のものに限って査証を与えて差し支えなし。ただし避難民については、行き先国の入国許可済みの者でない限り、通過査証を与えないよう注意されたし。


 1940年8月16日 松岡大臣発  電報22号

 最近、貴領事館発給の査証で日本経由アメリカ・カナダ行きのリトアニア人のうち携帯金が僅少のため、または行き先国の入国手続きが未完のため、上陸許可できず、その処置に困る事例があるにつき、この際、避難民と見なしえないものに対しては、行き先国の入国手続きを完了し、かつ旅費および日本滞在費などに必要な携帯金のない場合は通過査証を与ぬようお取り計らいありたし。

 キュラソービザの影響は、明らかい日本窓口で混乱をもたらし始めていた。本国から訓令が届いた。
 1940年8月24日 杉原領事代理発  電報67号

 この国の難民には、近くに中南米の大使・公使館がなく、日本領事館も間もなく引き上げることを見越し、現在、唯一通過査証を発行する当領事館に願い出る者多し。しかも、ソ連側においては、わが国の査証がアメリカ向け出国手続きの絶対条件である。これらの事情は考慮に値するものと思われる。したがって、確実な紹介者ある者に限り、ウラジオストックで乗船するまでに行き先国の上陸許可を取りつけること、日本以遠の乗船を予約すること、そして携帯金については為替管理が窮屈なため在外資金を日本に転送するとしても、敦賀に事前通知すること。これらの必要事項を承諾させたうえ、小職は査証を発給している。右手続き未完の者は、ウラジオストックで乗船を拒絶されたし。

 ウラジオストックでソ連官憲と押し問答して無限乗客を抱え込むことは船会社にしては迷惑な話。 そうなれば、どうなるか杉原領事代理には予想が出来た。敦賀にはユダヤ援護組織が手を打つだろうことも予測できた。
 ソ連に送られたポーランド系ユダヤ人は、二度と脱出は出来なかった。だが、一つだけ特例が残されていた。アメリカ向け出国手続きの絶対条件、日本の通過ビザである。この時、モスクワにはソ連大使として東郷茂徳がいた。かって、「東清鉄道」割譲でソ連を相手に一歩も引かない交渉をまとめあげた戦友であった。スターリンはウラジオストック近く、ビロビジャンにユダヤ自治区を設け「ドイツやアングロサクソンと違いソ連はユダヤを助けている」と宣伝していた。電文の「これらの事情は考慮に値するものと思われる」とは、この事を指している。
 
 1940年8月12日 カシム16歳

 1940年8月12日 カシムは姉といっしょに日本領事館の列に並んでいた。アメリカに渡った親類が ニューヨークで小さな商店を経営していた。姉妹二人の渡航費とニューヨークでの受け入れを約束してくれていた。姉は18歳、カシムは16歳だった。
 杉原領事代理は姉妹に両親のことたずねた。父は死亡し、母の渡航費用はなく書類もないことを告げた。 領事代理はとても気の毒そうな顔をしてスタンプを押した。「ありがとう、ありがとう」というのが精一杯だった。領事代理は微笑んで送り出した。事務所を出て感極まって泣いてしまった姉妹を、誰かが「無事を祈るよ!」と背中を押してくれた。

 カウナスの役人は、どこもぶっきらぼうだった。ビザの申請をしておいて取りに行くと逮捕されることだってあり得た。この国から出たいということは、すなわち反体制として処理される危険性は十分あった。領事館前に並ぶことさえ危険をおかしていることだった。その危険にたいし、日本領事館は善意で答えた。
 杉原千畝は有能な官吏だった。出先から組織の中の原則を確認し、実行したことの反応を確かめている。目的のための手段が受理されるかどうか探りもいれている。本国との電文に、巧みといえる手腕が読み取れる。それは、杉原千畝がスターリンのソ連について、他人は知ることができない情報を知り得ていた自信からの行動であったようだ。
 日増しに集まるユダヤ人は貧しき者、女、子供、老人が多くなってきた。書類など、始めから持ち合わせていなかった。千畝は「この国を出たいとおっしゃる。それはよくわかります。お手伝いいたしましう」、こう答えるよりなかった。
 色々方策は打ってある。「見解の相違」て処理できるようにはしてあった。だが、これから先は、そうも行かない。千畝は初めて家族に相談した。「この人たちを見捨て、私達家族だけの幸せはありません」、妻幸子の言葉だった。

 1940年9月6日 「領事館を4日に閉じ、ベルリンに向け当地を出発す」とベルリンの日本大使館に電報が届いた。列車が動き始めるまで千畝はビザを発給し続けた。この2週間、組織の人間としてでなく個人の良心に従って行動した。その責任は甘んじて受ける覚悟の上であった。
 歴史の谷間に薄日がさした2週間。彼はその日差しが、つかの間のものである事を知っていた。ロシア語を話す時、目まで大きくなってロシア人になりきる。セルゲイ・パブロピッチとして洗礼を受けた杉原千畝はソ連占領下のユダヤ難民の将来を十分予想出来た。

 
 1986年7月31日 千畝86歳

 1940年9月12日 杉原千畝プラハ日本領事館に着任
 1940年9月27日 日独伊三国同盟締結
 1941年3月6日 ケーニヒスベルク日本領事代理として着任
 1941年8月21日 トルコ大使館一等通訳官として転出
 1941年11月27日 ルーマニア公使館一等通訳官として転出
 1941年12月8日 日本軍真珠湾奇襲
 1943年11月16日 杉原千畝ルーマニア公使館三等書記官に任じられる
 1945年8月17日 杉原一家ブカレス郊外ソ連収容所に収容される
 1946年11月16日 ソ連収容所より開放
 1947年4月10日 シベリア鉄道経由でウラジオストックに到着。博多にて上陸
 1947年6月7日 杉原千畝 外務省退職

 哲学者カントの生地として有名なでケーニヒスベルクの日本領事として赴任した杉原千畝は、ケーニヒスベルク地方長官から更迭を要求される。リトアニアでの千畝の行動を、ナチスは情報を得ていた。前任地に近いバルトでの行動をドイツは拒否している。
 日本はドイツと同盟を結び、その後の方向を決定していた。一番重要な情報はドイツのソ連侵攻の時期であった。日本は石油資源を求めて南下する機会をうかがっていた。
 1941年6月22日そのソ連侵攻が始まる。これ以前、ナチスはユダヤ人を排斥していたが国外への脱出を制限していたわけではない。だが、ソ連侵攻とともにシベリア鉄道のルートは閉ざされた。

 ルーマニアのブカレスで三等書記官杉原千畝は終戦を迎える。戦争が終り、600万人のユダヤ人が消された事実を知ったのはいつだろう。千畝が「あれでよかったんだ」と納得したのはいつだろう。1986年86歳の生涯を終えるのは、ベルリンの壁崩壊3年前の夏の日であった。


参考Webサイト 日本近現代史研究

2004.9.16
by Kon