ハルピン1935




 1900年  1月1日

 1900年1月1日杉原千畝は、岐阜県八百津町に父杉原好水、母やつの次男として生まれた。千畝は,この山と川のある美しい町で収税史の子として7歳までの少年期をすごした。

 その後、三重県桑名市、岐阜県中津川市、愛知県名古屋市古渡と転居している。父の勤めの関係だったろう。聡明な千畝少年の通知表は尋常小学校6年の時、全甲(オール5)であった。

 愛知県立第五中学(現 瑞陵高校)に進学し、4年の時、単身で朝鮮総督府財務部に務めていた父のもとに家族は引っ越していく。
 中学校時代の千畝は英語が得意で、英語の教師になる夢を抱いていた。父、好水は医者になることを希望し、京城医学専門学校の受験手続をする。父の希望通りに受験はしたが、白紙答案を出してしまう。勘当の身で、1918年(大正7)に早稲田大学高等師範部英語科に入学する。
 家からの仕送りのない苦学生であったある日、「外務省留学生」の公募に目を留めた。外務省の費用で語学を学び外交官になれる。試験までの一ヶ月間、猛勉強で合格する。

 聡明で社交的で、それでいて一徹な千畝の性格は、この少年時代にかたちづくられたようだ。少年にとって転校は大きな出来事だ。わずかばかりといえども、方言の違いで標準語しか話せなくなる。そこで卒なく生きることは、ある種の社交性をうえつけ、一つの物にこだわらなくなるが、心の中で、どうしても譲れないものを育くんでいくことにもなる。千畝にとって、「英語教師になる夢」がそれであったのだろう。


 1919年  ハルピン

 1919年(大正8)9月21日、外務省留学生としてロシア語を学ぶため、満州のハルビンへ行くことになった。当時のハルビンは、ロシア革命により多くの白系ロシア人が移住していた。月額120円という高額支給の官費留学生としてハルビン学院に入学することになる。

 松花江(スンガリー川)のほとりのハルピン(Harbin)は、現在人口550万人の黒竜江省の省都。 冬期にはマイナス40度まで気温が下がり、毎年1月5日開催される「氷祭り」には国内外から大勢の観光客が訪れる。
 松花江の小さな漁村にすぎなかったハルピン(哈爾濱)は、ロシアの東清鉄道の建設で都会となった。今でも残る欧風建物で、東の小パリと呼ばれる。

松花江の鉄橋(ロシアが建設した東清鉄道)

 日本の満州国時代、遼東半島の先端の大連から奉天-長春-ハルピンと南満州鉄道が敷設された。ハルピンは南満州鉄道のターミナル駅にあたる。ウラジオストックからハルピンを通りシベリア鉄道が走っている。移民都市であるため市内に住む中国人は非常にきれいな標準語(北京語)を話す。現在15日以内の滞在はビザ不要。ハルピンは古くから国際都市であった。


キタイスカヤ街(1989年9月)

 千畝がハルビンに到着した時にはロシア語教育の機関はなく、下宿先で個人教師にロシア語を習い、わずか数ヶ月で日常会話が行える語学力を身につけた。翌年に日露協会学校が開校され入学、兵役の期間をはさみ、1923(大正12)3月に卒業した。
 南満州鉄道の初代総裁であった後藤新平が日露協会学校の創設者であった。後に「ハルビン学院」と呼ばれ、1945年の閉校までに1585人の卒業生を送り出している。その校訓は、1.人の世話になるな、2.人の世話をせよ、3.報酬を期待するな、であった。
 松花江は、大陸の川なのだが、河というより海であった。外国船の港と大陸横断鉄道の駅を持つハルビンが国際都市となるのは自然なことであった。駅と港の間に1907年に建てられたソフィスカヤ教会があり、この一画はロシア人街であった。ハルビンでは夏時間になると午睡の習慣があった。学生の千畝は、それを利用してロシア人街、中国人街に足をのばしていた。

モストワヤ街の寺院

  シベリア鉄道を最初に計画したのはユダヤ系の事業家といわれる。帝政ロシアでは、ユダヤ人は定められた居住区に住むことが法律で定められていた。ボルシェビキに追われてハルビンに来た白系ロシア人と反ユダヤ主義を避けて全欧州から集まるユダヤ人で1920年頃のハルピンはごった返していた。「ハルビン学院」は、そんな国際都市にあった。
 1923年から千畝はロシア語教師として教壇に立っていた。それは夢が叶ったことになる。流暢な彼のロシア語はすでに学院の伝説になっており、開放的で外交的な千畝にとって、ハルビンのロシア人街は我が家の庭であったと伝えられる。

 第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命が起こりロシアは戦線離脱。ロシア軍の捕虜となったチェコ兵をすくう口実で,アメリカ・イギリス・フランス・日本がシベリアに出兵する。各国7千名の協定に対し日本は1918年(大正7)7万3千名を派兵している。ソ連国内の革命・反革命内戦が本格化した1920年6月までに各国は撤兵したが、日本は内外の批判の中1922年(大正11)までシベリア派兵を続けていた。日本は戦死者3,000人 戦費10億円という巨費を使い、パルチザンとの戦いに苦労し点と線の確保が精一杯だった。しかも、全軍の3割が凍傷者となる。シベリアとは、そういう地なのである。

1924年2月8日、千畝は正式に外務省書記官に採用され、満州勤務を命じられている。

 中部ロシアの貴族の娘、クラウディアと千畝は酒場で知り合い、ダンスホールに誘い親しくなってゆく。優しい杉原は、よくキャンデイをポケットから取り出しクラウディアを喜ばせた。クラウディアはその時16歳だった。
 ロシア正教の神父パーベルの前で二人は婚姻の誓いをする。杉原千畝はセルゲイ・パブロピッチとして洗礼を受けた。クラウディア・アプロノフの父は、東清鉄道の租借地を守る守備隊に勤務していた。自由ロシアの義勇軍の大佐でもあった。

 1930年 満州国

 1931年(昭和6)9月18日、奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破された。中国軍の仕業として関東軍が出動する。当時、関東軍兵力は1万人に対し中国軍は25万人という状況であった。5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国させる。周到に計画されたこの軍事行動により、関東軍は南満州鉄道沿線の守備隊から満州国の軍隊として表舞台に登場する。
 この事件を調査する国際連盟のリットン調査団は、6ヶ月の現地調査の結果「関東軍の行動が正当な自衛措置とは認めがたい」と報告書をまとめた。日本は、自ら提唱する「大東亜共栄圏」構想を国際世論に訴えるため松岡洋右を日本代表として送った。
 二千年前、人はイエスを十字架にかけました。そして今、わが日本は裁判に引き出されています。この二十世紀に、欧米は日本を十字架に架けようとしています。しかし、わたしたちは信じています。確信もしています。数年後、国際世論が変わることを。そして日本がイエスのように理解されるだろうことを。

 オレゴン大学に学び、自身キリスト教徒であった松岡洋右の国連演説は、西洋を理解した東洋人のメッセージではあったが、国際世論は動かなかった。満州国を承認したのはエルサルバドル、バチカン、ドミニカ共和国だけだった。

 日本自身にとっても、この軍事行動は危険をはらんでいた。1932年の5.15事件、1936年の2.26事件と軍事クーデター未遂事件が起こり、ファシズムに傾斜して行った。

 1932年杉原千畝はハルピン大使館の二等通訳官に昇進している。と同時に外務省を退官。満州国外交部北満特派員公署事務官に任命されている。

 新生の満州国の国内にソ連の権益が残った。東清鉄道とその租借地である。荒っぽい言いかたをすれば第二次日露戦争を引き起こし戦利品として分捕る方法がある。もう一つは買収交渉による平和的取得である。どちらが賢明かといえば、いうまでもなく後者。シベリア出兵、満州事変に学ぶまでもなく第二次日露戦争は世界の世論が認めない。ボーツマス条約で軍事的勝利と外交的勝利の両方を手にすることがいかに困難であるかは経験済みであった。先進欧米列強と同じ事をしてなぜ認められないのか。そんな国内世論の不満は国内で議論の対象になるとして、世界の舞台で主張できるものではない。1930年代の世界のパワーポリテイックスにおいて、悲しいかな日本は孤立無援の東洋国であった。

 満州国外交部は日本の外務省にあたる。ソ連の東清鉄道の割譲の値段は、当初3億円が提示された。この案件の担当者杉原千畝はすでに「ソビエト連邦国民経済大観」という膨大なレポートを作成している。あらたに、現地調査による鉄道の資産価値を積み上げ、旅客数や貨物輸送量の正確な実態をつかみ、 シベリアを迂回する他の路線の量と比較し、日本の経営改善による将来的経済効果を数値化してみた。ソ連が自国に移した機関車や車両の数や位置を克明に情報収集しておいた。結果、日本の当初提示額1億円に5千万円上積みして「東清鉄道とそれに付随する事業・資産に関する全権利」が満州国に割譲された。この協定を日本の外務省として担当したのは東郷茂徳だった。1935年ヒトラーがベルサイユ条約を無視して再軍備を宣言した数日後、東京でソ連と満州国の協定書に署名がされた。 この外交交渉はソ連に暗黙のうちに満州国を認知させるという効果があった。文明国としての外交交渉の貴重な成果でもあった。
 ソ連は鉄道を巡る小競り合いを心配することなく経済五ヵ年計画に邁進し、近代戦争に対応できる軍備改革を実行してゆく。それが4年後のノモンハン事件で両国の明暗を分ける結果となる。

 軍事と外交。この2つがドラマチックに展開するのが近代パワーポリテイックス。外交官松岡洋右-東郷茂徳-杉原千畝というラインが「東清鉄道」割譲というプロジェクトを通じて誕生したといえる。

 1935年7月23日杉原千畝は満州国外交部を辞任、外務省情報部第一課勤務となる。その年の12月30日、クラウディアとの協議離婚届が提出されている。


 シベリア鉄道 ピロビシャン

 1480年、イワン3世のモスクワ公国はモンゴル帝国への献上物を廃止し、ルーシー(後のロシア)として独立する。イワン4世の時代、ストロガノフ家がシベリア開拓を始め、1578年、銃と大砲を持った数百名のコサックがシビル・ハン国の首都イスケルを陥落させる。「シベリア」は、もともと 「シビル・ハンの国」という意味であった。シベリアのゴールドラッシュは森の黄金「黒テン」の毛皮を求めて東へ東へと進んだ。

 1891年ロシア帝国のアレクサンドル3世がフランス資金の援助を受け鉄道建設を始める。難工事は日露戦争最中の1904年9月に一応の全線開通をしている。ハルビン経由の短絡線「東清鉄道」を1903年に開通させておいて、その後、アムール川北岸を迂回してハバロフスクを経由する現在の路線を1916年に完成させている。
 東終点のウラジオストックから列車は北上してハバロフスクで西に向きを変える。アムール川(黒龍江)沿いのハバロフスクはとても美しい町だ。モスクワへの特急「ロシア号」は、ハバロフスクの次にビロビジャンに停まる。ビロビジャンはユダヤ自治区の州都。ここには検問所があった。
 1935年(昭和10)ソ連は満州国から撤退するが、ビロビジャンにユダヤ自治区を設けた。もともとロシアではユダヤ人はゲットにしか住めなかった。日本との国境沿いにユダヤ人を集め、「ドイツやアングロサクソンと違いソ連はユダヤを助けている」と国際世論に訴えかけている。



 1938年 ハルピン

 1937年(昭和12)12月26日ハルピンで第1回極東ユダヤ人大会が開催された。アメリカのヘブライ移民援助協会などと連携するユダヤ民族会議の支部がハルピンにあった。1920年当時、ハルピンの人口構成は、 日本人1万3千、ユダヤ人1万3千、ロシア人12万、中国人33万9千。1935年頃、ユダヤ人は5千人に減っていた。この頃、白系ロシア人はすでに帰る故郷を失っていた。白系ロシアと組んだ日本人はユダヤ人に寛容ではなかった。多くのユダヤ人は上海に移っていった。

 シベリア鉄道は、上海を目指すユダヤ人難民で混雑していた。ソ連にとって彼らは大切な旅客である。 終点のウラジオストックから日本経由で上海に行くには日本の通過ビザが必要。日本通過ビザがあればソ連の通過ビザは問題無く手に入った。

 1938年(昭和13)3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポール駅に数百人のユダヤ人が来て滞留し、食糧はつき、飢餓と寒さで凍死者がでているとの報がハルピン特務機関に入る。当時満州の関東軍情報部にあたるのが特務機関、その指令部的なものがハルピンにあった。ハルピン特務機関長の樋口季一郎少将は満州国外交部と協議し、満鉄本社の松岡総裁を呼び出し交渉を行った。数日後ハルピン駅に救援列車が難民を載せて到着した。凍死者十数人をのぞいた全員が学校等に収容され炊きだしをうけた。その後、難民の大半は上海を経由してアメリカへ渡っていった。

 当時、満州国と国交樹立しているのはエルサルバドル、バチカン、ドミニカ共和国だった。ほとんどの欧米諸国は満州国を独立国として承認していない。ドイツ、ポーランド、ハンガリーの承認は予定に上ってはいた。だから旅行者がビザを前もって申請、取得するルートがなかった。陸路で上海をめざすシベリア鉄道旅客はどうしても満州国を通過する必要があった。満州国としては、ユダヤ人難民に対する通過ビザの処理方法は具体的に決められていなかったようだ。こんな場合、原則論で、不充分な条件では発給しないことになる。この問題を軍主導で解決したのが、この「オトポール事件」といえる。

 日本はユダヤ人難民を国内への定住者として受け入れていたわけではない。満州国にユダヤ人難民を受け入れる構想はあった。移民国家アメリカを一つのモデルとして、台湾、朝鮮とは別の統治を割り切って出来たかといえば、それは無理な話。この件にしても、積極的な方針があるなら旧東清鉄道に分岐するシベリア鉄道のチタ駅で満州国の業務を代行する日本領事館を置くべきだった。そのような形跡はない。
 この一件でドイツから抗議が来た。樋口は、関東軍司令部から出頭命令を受ける。関東軍参謀長・東条英機に対して「日本とドイツの友好親善を望むが、日本はドイツの属国ではない、また満州も日本の属国ではない。」と述べた。これ以後、オトポール駅の満州側、満洲里駅で入国ビザが発給されることになる。
 この後、樋口は本国参謀本部へ栄転している。彼は陸軍大尉としてシベリヤ出兵に出動していた。少佐のときポーランド大使館付武官として赴任もしている。ソビエト視察旅行でロシアのユダヤ人と親しく話もしている。その経験から、マルクシズムの覇権主義とユダヤ人による世界征服陰謀説をハッキリ見分ける見識を持った武人であった。だが、それはごく一部のエリートの特筆される存在でしかなかった。


 1938年 上海

 1932年(昭和7)1月18日の夜、上海の路上で日本人3人が暴漢に襲われ1名死亡、2名が重傷を負う 事件が起こる。中国の警官の到着が遅れ犯人は逃亡した。上海の日本人居留民の青年団が中国人街に殴り込みをかけ暴動に発展する。上海市は戒厳令をしいた。上海の日本人を保護するために海軍陸戦隊約1000名が派遣される。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、発砲事件が引き金で、1月28日、日中両軍が戦火を交えた。国際都市上海を戦場に世界世論の注目を浴びた戦闘は3月まで続き、5月5日停戦協定が成立する。3月1日に満州国が建国宣言をしている。

 1937年8月9日、海軍中尉が路上で狙撃され死亡する事件が起きる。緊張は再び高まり、日本は2個師団を派遣する。8月13日、上海にて日中両軍に戦闘がはじまり、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。8月14日、中国空軍が日本艦隊を空襲、フランス租界や共同租界(日米英)に爆弾が落ち、2000人あまりの死者が出た。その同じ日、日本海軍は大村飛行場より南京への空襲を始めた。こうして日本は宣戦布告しないまま、中華民国との本格的な戦争へと進んでいった。一連の事件に先立ち、7月7日の盧溝橋事件が起こっている。

上海の夜景 (2000年9月)


 1938年夏、欧州のユダヤ難民について話し合うエビアン会議は、32ヵ国の代表者の間で具体策を打ち出せず幕を閉じた。それぞれの国の事情は単純ではなかった。例えば、永世中立国スイスは、会議の主催国になることを拒み、会議はフランスのエビアンで開かれた。いかなる問題においても当事者にならない、それが中立国の建前なら、ユダヤ難民問題は国の根本理念に関わる問題であった。
 1938年(昭和13)11月9日 ドイツとオ-ストリアの各地でユダヤ人襲撃事件が起こる。ユダヤ人経営の商店の飾り窓が打ち砕かれ、闇の中でガラス片は水晶のようにきらめいた。この恐怖夜をユダヤ人は「水晶の夜」と呼んだ。

 1938年(昭和13)12月6日 第一次近衛内閣はユダヤ人対策要綱を発表している。
・現在の日本、満州、中国に住んでいるユダヤ人は他国人と同様に公平に扱うこと
・新しく日本、満州、中国に渡来するユダヤ人については、
 一般の外国人入国規則の範囲で公正にすること。
・ユダヤ人を積極的に日本、満州、中国に招致するのは避ける。ただし、資本家や技術者のように利用価値のあるものは例外とする。

 日本にはユダヤ人に対する恩義があった。日露戦争の戦費17億円は外国債を発行して賄われた。当時の国家予算は7億という時代であった。日銀副総裁・高橋是清は苦労の末、英国銀行団やシフの協力を得て公債発行に成功する。その必要額の半分の面倒をみてくれたのがニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。ロシアで虐待される同胞のためにユダヤ人はロシア政府を援助していた。結果ははかばかしくなかった。ロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、投資先を日本に変えてくれた。

 ビザを必要しいない国際都市上海は日本にとって世界金融にリンクする重要な外交拠点であった。 この上海を目指し人が動き、情報が集まる。1940年前後の上海は、ユダヤ難民にとって闇夜に浮かぶ希望のともしびであった。


 1936〜1938年 センポ・スギハラ

 1936年4月7日杉原千畝は菊地幸子と結婚。外務省外務書記生としてペトロパブロフスクに在勤を命じられる。

 1936年12月26日ソ連大使館二等通訳官を命じられる。ロシア語を話す時は目まで大きくなってロシア人になりきる。と妻幸子がいうように杉原千畝はセンポ・スギハラとしてモスクワで活躍したのだろう。
 1937年8月12日フィンランド大使館二等通訳官を命じられる。
 1938年7月20日リトアニアのカウナス領事代理に任命される。


参考Webサイト シベリア鉄道ガイド

2004.10.4
by Kon