イギリスは、ばら戦争後、ヘンリ7世の時代に王権が強化される。宗教改革を行ったヘンリ8世(位1509〜47)によって王権はさらに強化され、エリザベス1世(1533〜1603、位1558〜1603)の時代にイギリス絶対主義は全盛期を迎えた。
イギリスの絶対主義はフランスに比べ、強力な官僚制や常備軍が整備されず、州の有力者であるジェントリ(地主階級)の勢力が強かった。
エリザベス1世は、ヘンリ8世の第2王妃アン・ブーリンの子として生まれたが、3歳の時に母が刑死したので、以後メアリ1世によってロンドン塔に幽閉されるなど苦難の時代を送った。しかし、ヘンリ8世の遺言によってエドワード6世、メアリ1世に次ぐ王位継承者となり、メアリ1世の死によって、25歳で即位した。
即位の翌年(1559)に首長令・統一令を発してイギリス国教会制度を確立した。またその頃イギリスの国民的産業になっていた毛織物工業を保護・育成し、大商人に独占権を与えて国家財政の充実に努めた。
エリザベス女王は海賊船を保護し、ホーキンズやドレークらを援助した。海賊船は、新大陸のスペイン植民地と密貿易を行い、新大陸から大量の銀を本国に運ぶスペインの銀船隊を襲撃して巨利を得た。スペインのフェリペ2世は取り締まりを再三要請したが女王はこれを無視した。
ドレーク(1543頃〜96)は、イギリスの海賊で後にイギリス海軍提督となった人物であるが、ホーキンズ(黒人奴隷貿易で巨富を得た、後にイギリス海軍提督となる)の船団に参加し、海賊船の船長として各地を航海した。エリザベス女王から特許状を得て、女王の援助のもとに5隻の船を率いて西回り航路に出発し、2年10ヶ月かかってイギリス人として初めて世界周航(1577〜80)に成功した。途中至る所でスペイン船を襲って莫大な財宝を満載して帰国し、女王からSirの称号とナイトの位を与えられた。後にホーキンズと共にスペイン無敵艦隊撃滅(アルマダの海戦)に大活躍した。
エリザベス女王は多くの独占貿易会社を設立したが、特に1600年に設立された東インド会社は喜望峰からマゼラン海峡に至るアジア全域での貿易独占権を与えられ、イギリスのアジア進出、特にインドへの進出に重要な役割をはたすことになる。また新大陸へも進出し、寵臣ウォーター・ローリーはイギリスの北米最初の植民地であるヴァージニア植民地を創設したが失敗に終わった。
45年間にわたるエリザベス女王時代に、イギリスはそれまでの二流国からヨーロッパの強国に仲間入りし、イギリスは繁栄期を迎えた。
ジェームズ1世(1566〜1625、位1603〜25)は、スコットランド女王メアリ・ステュアートの子に生まれ、1歳でスコットランド王に即位したが、エリザベス1世の死で、曾祖母がヘンリ7世の娘であったことからイギリス王位を継いでジェームズ1世として即位した。
「監督なくば国王なし」と唱えて、イギリス国教会の監督制度(イギリス国王を首長として、教会は国家の監督・支配を受けるしくみ)を重視し、ピューリタン(イングランドのカルヴァン派)・カトリック教徒を圧迫したので、ピルグリム・ファーザーズの新大陸移住を引き起こした(1620)。
ジェームズ1世は、イギリスの議会についての理解が乏しく、王権神授説(国王の支配権は王の祖先が神から直接に授けられたものであるという論理)を信奉し、議会を無視して増税や大商人に独占権を付与したので、しばしば議会と対立した。
次のチャールズ1世(位1625〜49)も王権神授説を信奉し、フランスの新教徒援助に失敗し(1627)、戦費増大による財政難を打開するために課税を強化し、また国教会を強制してピューリタンを弾圧したので議会との対立が激化した。
この頃、イギリスでは毛織物工業を中心に商工業が発達し、市民階級の力が強まっていた。また農村でも荘園制が崩壊し多くの独立自営農民(ヨーマン)が生まれる。
多くのヨーマンは農耕とともに羊毛・毛織物生産に従事し、中には毛織物マニュファクチュアを営む富農も現れた。
このような中産階級の人々にはピューリタンが多く、彼らは議会を通して権利を伸ばそうとして貴族や特権大商人と結びついた王政と対立していた。
1628年、議会は権利の請願を王に提出した。全11条から成り、議会の同意なく課税することや不法な逮捕・投獄などに反対したもので、マグナ・カルタ,権利の章典と並んでイギリス憲法の三大法典といわれている。
チャールズ1世はいったんは承認したが、翌年議会を解散し、以後11年間にわたって議会を召集せず、専制政治を行った。
1637年には、カルヴァン派が優勢なスコットランドに国教会を強制してスコットランドの反乱(1639)を招く。 反乱鎮圧の戦費調達のために、翌1640年4月、11年ぶりに議会を召集したが、議会が課税を拒否したために3週間で解散した。
しかし、戦費調達の必要から、同年11月に再び議会を召集した。王と議会は対立し、議会はチャールズ1世の失政を非難し、政治の抜本的改革を要求する大諌議書をわずかの差で可決した(1641)。
チャールズ1世は、反対派の指導的な議員5名を逮捕しようと兵を率いて議場に乗り込んだが、彼らはすでに逃亡し失敗に終わった。
この出来事をきっかけに王党派と議会派の間に内戦が始まり、ピューリタン革命へと発展していく。
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王党派は経済的な発展が遅れたイングランド西北部を地盤とし、貴族・特権商人・保守的なジェントリに支持され、宗教的には国教徒が中心であった。
これに対して、議会派はロンドンを中心に商工業の発達したイングランド東南部を地盤とし、進歩的なジェントリ・ヨーマン・商工業者などに支持され、宗教的にはピューリタンが中心であった。
戦況は初め王党派が優勢であったが、やがてオリヴァ・クロムウェルが鉄騎隊を編成して次第に議会派が優勢となった。鉄騎隊は、クロムウェルが信仰心にもえるピューリタンのジェントリ、ヨーマンを中心に編成した騎兵隊で、規律と闘志にすぐれ、議会派の勝利に大いに貢献した。
議会派軍はネーズビーの戦い(1645)で決定的な勝利をおさめ、チャールズ1世はスコットランドに逃げ込んだが、議会派に身柄を引き渡されて幽閉され(1647.1)、第1次内乱は終わった。
この頃、議会派内部では長老派と独立派の対立が起こっていた。
長老派は、個別の教会を長老会の支配下におき、全国的な統一教会の実現をめざした。政治的には国王と妥協して立憲王政をめざし、進歩的なジェントリやロンドンの大商人に支持された。
独立派は個別の教会の自主性を尊重する教会制度をめざした。政治的には、最初は王権の制限と議会主権を主張したが、後には制限選挙による共和政を主張し、ヨーマンや商工業者に支持された。
さらに1647年頃から水平派が現れてきた。水平派は貧農・手工業者・小市民・軍の兵士などに支持され、普通選挙による共和政を主張した。
こうした議会派内部の分裂に乗じ、チャールズ1世が脱出し(1647.12)、翌年には第2次内乱が始まる。クロムウェルは王党派、国王と同盟したスコットランド軍を破って国王を再び捕らえ、第2次内乱は3ヶ月で終わった(1648)。
クロムウェルは、国王と妥協を続ける長老派を水平派と結んで議会から追放し(1648.12)、翌1649年1月国王チャールズ1世を国家に対する反逆者として処刑し、イギリス史上初めての共和政(1649〜60)を樹立した。
さらに49年春、普通選挙を主張する水平派が革命の徹底化を求めて反乱を起こすと、クロムウェルは中産階級や地主の利益を擁護する立場から、水平派を弾圧し、その指導者を処刑した。
チャールズ1世が処刑されると、子のチャールズ(後のチャールズ2世)が即位を宣言し、スコットランド・アイルランドは彼を支持した。チャールズはクロムウェルに敗れてフランスに亡命する(1651)。
クロムウェルは王党派の制圧を口実にアイルランドに遠征し(1649〜52)、アイルランド人の土地を没収、イングランドの地主に分与した。アイルランドは、ケルト人の住む島で、5世紀以後カトリックが普及していた。以後イングランドの不在地主の小作人となり、苛酷な収奪に苦しめられる。
またチャールズがスコットランドに拠って王権回復を謀ったので、クロムウェルはスコットランド遠征を行い(1650)、スコットランド軍を破ってこの地を征服した。
翌1651年、中継貿易を主体とするオランダに打撃を与えるため、航海法を発布し、イギリスとの商品輸出入をイギリス船または当事国(地域)の船に限定した。
航海法は、オランダの商船をイギリスから閉め出しイギリスの植民地貿易の独占を目的としており、オランダにとっては大打撃であった。
このため、第1次イギリス・オランダ戦争(1652〜54)が始まる。海上の覇権をめぐって激しく争ったが、オランダ側の貿易の損害が大きく講和条約が結ばれた。その後、第2次(1665〜67)、第3次(1672〜74)と続いたが、イギリスは次第にオランダを圧迫し、オランダから海上覇権を奪い、17世紀に繁栄したオランダが没落していく。
クロムウェルは、ピューリタンの禁欲主義に基づく軍事独裁制を行ない、劇場の閉鎖・賭博や売春の禁止など庶民の楽しみを奪ったので、次第に国民の反発が高まる中で、1658年9月に亡くなった。
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イギリスは、フランスに亡命していたチャールズ2世(位1660〜85)が即位し、王政に復古する。
帰国の直前に、政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収あるいは売却された土地に対する購入者の権利の承認、信仰の自由、軍隊の未払い給与の支払いなどを約束した。
即位後,この公約を守らず、すでに死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体を絞首刑にしたり、多くの政治犯を死刑や投獄刑に処した。また革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻し、ピューリタンを地方の公職から追放する。
チャールズ2世のカトリック擁護政策に対して議会は、1673年に官吏と議員を国教徒に限るという審査法を制定し、カトリック教徒を公職から追放した。
さらに1679年には人身保護法を制定し、国民を不当に逮捕しないことを定めた。これに対してチャールズ2世は議会を開かないことで対抗したため、議会との対立がますます強まった。
もはや国王は課税権を持たず、財政権は議会が握っていたので、国王は議会を無視して政治を行うことは出来ず、議会は立法府としての機能を発揮し始めていた。こうした状況の中で1670年代末頃からトーリー党とホイッグ党という2つの政党が生まれる。
トーリー党(アイルランドの無法者の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案への反対者で組織された。貴族や地主に支持され、王権や国教会擁護を主張した。トーリー党は後に保守党に発展していく。
これに対してホイッグ党(スコットランドの謀反人の意味)は、王弟ジェームズの王位継承排除法案に賛成する人々で組織された。都市の商人や非国教徒の支持を受け、議会を中心とし王権を制限することを主張した。ホイッグ党は後に自由党に発展していく。
王弟ジェームズの王位継承排除法案は下院を通過したが、上院で否決され、1685年にチャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームズがジェームズ2世として即位した。
ジェームズ2世は、即位すると専制政治の強化とカトリックの復活をはかり、議会と対立した。ただ、彼には男子がなく、断絶が予想され、トーリー党が多数の議会はあまり強く抵抗しなかった。
しかし、1688年に王子が誕生すると、トーリー党とホイッグ党は結束し、ジェームズ2世の長女メアリの夫・オランダのオラニエ公ウィレム(後のウイリアム3世)に招請状を送り、武力援助を要請した。
オラニエ公ウィレムが、14000の軍を率いてイギリスに上陸すると、軍や臣下にも見放されたジェームズ2世は抗戦をあきらめてフランスに亡命した(1688.12)。
翌1689年2月、議会は王位の空席を宣言した後に「権利の宣言」を議決し、オラニエ公ウィレムとメアリの即位の条件とした。両者はこれを承認し、共同統治者ウイリアム3世(位1689〜1702)ならびにメアリ2世(位1689〜1694)として即位した。
これが名誉革命(1688〜89)である。イギリス人はこの無血革命を誇ってGlorious Revolutionと呼んだ。
議会は同年12月、「権利の宣言」を「権利の章典」として制定した(1689)。権利の章典は、全13項目から成るが、これにより王権に対する議会の優越が確認され、イギリス立憲王政が確立された。
ウイリアム3世はトーリー・ホイッグ両党から半数ずつの大臣を任命して連立内閣を組織させたが政争が絶えなかったので、晩年にはホイッグ党に内閣を組織させ、トーリー党の大臣を退けた(1694)。ここに議会の多数党に内閣を組織させるという政党政治が始まった。
ウイリアム3世には子がなかったので、メアリの妹のアンが王位を継承し、アン女王(位1702〜14)が即位した。
アン女王は、ウイリアム3世の政策を引き継ぎ、スペイン継承戦争でルイ14世と戦い、北米でもフランスとの間にアン女王戦争(1702〜13)を戦って勝利し、ユトレヒト条約(1713)でフランスからハドソン湾・アカディア・ニューファンドランドを獲得した。
アン女王の時代の1707年に、1603年から同君連合の関係にあったスコットランドを合併して大ブリテン王国(Great Britain)となった。
アン女王の死後、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯が迎えられてジョージ1世として即位した。
ジョージ1世(位1714〜27)は、この時すでに54歳で英語を解せず、イギリスの制度・慣習などについても知識がなかったのでイギリスよりもドイツに滞在することの方が多かった。そのため政務をもっぱら大臣にゆだね、特に1721〜42年の約20年間はホイッグ党のウォルポールに国政を委ねた。
ウォルポール(1676〜1745)は、ジェントリの家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、1701年にホイッグ党から下院議員に当選して政界に進出した。ジョージ1世の厚い信頼を受け、健全財政と平和外交に尽力してイギリスの繁栄を支えたが、1742年に総選挙で敗れて退陣した。
このウォルポールによって、内閣は国王に対してでなく議会に責任を負うという責任内閣制度が確立し、「国王は君臨すれども統治せず」という伝統が生まれた。
しかし、議員の資格や参政権は相当の土地を所有する地主(ジェントリや貴族)に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買さえ行われた。
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3回にわたるイギリス・オランダ戦争(1652〜74)に敗れてオランダが植民地争いから脱落すると、イギリス・フランス両国の抗争が激しくなった。
ヨーロッパでファルツ継承戦争(1689〜97)が始まると、北アメリカでウィリアム王戦争(1689〜97)がおる。ついでスペイン継承戦争(1701〜13)が始まると、北アメリカでアン女王戦争(1702〜13)がおこった。
この戦いにはフランス側にスペインも参戦したが、イギリス優勢のうちに終わった。1713年に結ばれたユトレヒト条約で、イギリスはフランスからハドソン湾地方・アカディア・ニューファンドランドを、そしてスペインからはジブラルタルとミノルカ島を獲得した。
その後オーストリア継承戦争(1740〜48)・七年戦争(1756〜63)がおこると、イギリスはフランスの関心をヨーロッパ大陸に向けさせ、自らは北アメリカ・インドに総力を結集した。
オーストリア継承戦争と並行して、北アメリカでジョージ王戦争(1744〜48)がおこったが、勝敗はつかず、相互に占領地を返還して終わった。
インドではフランスのインド総督デュプレクス(1697〜1763)が活躍し、1746年以降、中・南部インドでイギリス軍を圧倒し、イギリス勢力をインドから一掃する勢いを示したが、デュプレクスは1754に本国に召還された。
七年戦争が始まると、フランスが宿敵ハプスブルク家と結んでヨーロッパでの戦いに全力を挙げたのに対し、イギリスは植民地争いに全力を注いだ。
インドでは、一時帰国していたクライブ(1725〜74)を急遽インドに呼び返した。クライブは、イギリス東インド会社の書記としてインドに渡り、傭兵隊の将校として活躍したが、当時は本国に帰国していた。彼はインドに戻るや、傭兵隊を率いてカルカッタの北方のプラッシーの戦い(1757)でフランス・ベンガル藩王連合軍に圧勝し、インドにおけるイギリスの覇権を確立した。
一方、北アメリカでは、イギリス植民地がアパラチア山脈を越えてオハイオ川流域に進出し、この地域のインディアン及びフランスと衝突し、フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)がおこった。インディアンと結んだフランスと戦い、1759年にフランスの拠点ケベックを占領して優位に立ち、この戦いに圧勝した。
1763年にパリ条約が結ばれ、イギリスはフランスからカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナ・西インド諸島の一部・セネガルを獲得し、スペインからフロリダを獲得した。
フランスはフロリダの代償としてミシシッピ以西のルイジアナをスペインに譲渡したので、北アメリカにおける植民地をすべて失った。
こうしてイギリスは北アメリカ及びインドでのフランスとの長期にわたる植民地抗争に勝利し、後の大英帝国の地位を確立した。
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貨幣による交易がおこなわれると、「富」は、金貨、銀貨となる。国王は、新大陸から金銀を集めた。それを略奪する王も現れる。
野蛮な海賊行為などしなくても、交易で売れる「商品」を「生産」すれば、金銀が集まる。
1492年のコロンブス新大陸発見から、1588年のスペイン無敵艦隊の壊滅の100年で、西欧社会は、それを学んだ。
農奴といえども、王様の金銀財宝は、年貢から生まれると分かってくる。神がお与えになったものではない。余剰生産物を増やせば金貨が手元に残る。中小地主の出現は、富とは何かという哲学を必要とした。
人間として生まれた以上、すべての人が生まれながらにして権利があるだろう。それは何か。生存権は当然だが、市民層の台頭で個人の財産権が認められてくる。
各人が自己保存の本能に従って権利を主張すると、「万人の万人に対する闘争」となる。そこで、闘争状態を避け、個々の生存権を守ってもらう契約として国家をつくった。この契約者、王や国家が我々の生命、財産を守れないなら、王は王にあらず、国家は国家にあらずとなる。
個々の生存権を守る為に、専制君主もやもうえない。 あるいは、信託した財産権を守れない政治体制は、変革する権利(抵抗権・革命権)があるとする主張も定着した。それが、イギリスの一連の革命といえる。
イギリスは、ジェントリ(地主階級)の勢力が議会を形成し、国王と対峙しながら、この革命を終えた。その中で、議会制民主主義の伝統を生み出したといえる。
ヨーロッパ大陸からドーバー海峡を隔てたGreat Britainという島国に、新教徒が集まって来た。ローマ・カトリック教会の政治勢力、中世貴族階級の影響力からいち早く脱したことが、その後の産業革命による発展の原因といえる。植民地抗争の勝利は、世界の工場イギリスの広大な商品市場を準備した。ここに、近代資本主義の誕生の秘密がある。
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税関吏を父としてスコットランドに生まれたが、父はスミスが生まれる前に死亡していた。洗礼日は1723年6月5日。母は亡夫と同じアダムという名前を息子につけ、並々ならぬ愛情を注ぐ。
グラスゴー大学で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学するが、1746年に退学。1748年からエディンバラで教えはじめ、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授。1759年に『道徳情操論』(The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立した。
この著書において、近代社会におけるバラバラの個人が、ある種の「共感」を秩序としていると述べている。
1776年,古典派経済学のバイブル的存在となった『国富論』を刊行。
『国富論』は、市場とそこで行われる自由競争の重要性に着目し、近代経済学の基礎を築いた。「見えざる手」という言葉は著書で一回使われているだけだが、利己的に行動する各人が市場において自由競争を行えば、自然と需要と供給は収束に向かい、経済的均衡が実現され、社会的安定がもたらされるというものであった。
スミスがモデル化した経済人とは、最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化した人間であり、分業によって技術革新が行われ、労働生産性が上昇し富が生まれると考えた。国と国との間についても適用しうるもので、各国は絶対優位性を持つ分野に特化するべきだとして、保護貿易を批判、自由貿易を支持した。
これは、モデルとしての経済学理論であり、現実的には、スミスが徹底的な自由放任主義信奉者ではなかった。
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人間は、仲間の助けを必要としている。だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してもむだである。それよりも、仲間の自愛心を刺激することができ、仲間がかれのためにすることが、自分自身の利益にもなるのだということを、仲間に示すことができるなら、目的を達しやすいのである。私のほしいものをください、そうすればあなたの望むこれをあげましょう、というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであって、こういうふうにして、自分たちの必要としている他人の好意をたがいに受け取りあうのである。
(第1編第2章)
すべてどの社会も、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値とつねに正確に等しく、いやむしろ、この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ、各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうと、できるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。
もちろん、かれはふつう、社会一般の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知らない。外国産業よりも国内の産業活動を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。
だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、みずからは意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合にくらべて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。
社会のためにと称して商売をしている徒輩が、社会のためにいい事をたくさんしたというような話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得してそれをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。
自分の資本をどういう種類の国内産業に用いればよいか、そして、生産物が最大の価値をもちそうなのはどういう国内産業であるかを、個々人だれしも、自分自身の立場におうじて、どんな政治家や立法者がやるよりも、はるかに的確に判断することかできる、ということは明らかである。個々人に向かって、かれらの資本をどう使ったらよいかを指示しようとするような政治家がいるとすれば、かれは、およそ不必要な世話をみずから背負いこむばかりでなく、一個人はおろか枢密院や議会にたいしてさえ安んじて委託はできないような権限を、また、われこそそれを行使する適任者だと思っているような人物の手中にある場合に最も危険な権限を、愚かにも、そして僭越にも、自分で引き受けることになるのである。
(第4編第2章)
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国家の役割は,防衛・司法及び個人ではひきあわない公共的事業にのみに限定,即ち夜警国家思想をとる。
ひたすら自由放任のなかで活動し,経済人の自然本能に任す考えは,勃興期の産業資本に好適の理論であったといえる。
労働を富の源泉としたスミスは,労働投入量が価格を左右するというリカードやカール・マルクスによって支持されることになる。
ヨーロッパ大陸を制した18世紀の大国フランスでは、富の源泉は「土地」であった。当時、フランスの人口2000万人。イギリス700万人。ヨーロッパにおいて、18世紀イギリスは二流小国であった。
カルバン派キリスト教徒をリーダーとする700万人の集団が、「天職」という教義を信念に、自らの労働による事業の「成功」を求め邁進する。そのためのバイブル。それが、『国富論』と見ることができる。
発刊の年は1776年。1750年頃、ロンドンの人口70万は別格とし、人口10万を超える都市は一つもなかった。だが、1830年にはマンチェスター、リヴァプール、バーミンガム、リーズ、プリストル、グラスゴー、エディンバラの7つの都市が人口10万以上の工業都市として急成長していた。1851年、イギリス最初の公式人口調査は、人口1800万と記録する。
人口の産業比率はどうか? 1760年の農業人口の比率が70パーセント。農業国である。1800年には36パーセント、1830年25パーセント、1850年には22パーセントへと急激に変化している。
さらに、1892年に人口が3800万人になり、カナダ、アメリカ、南米、オ−ストラリア、ニュ−ジ−ランド、及び南アフリカに500万のイギリス在外邦人がいた。その先に、膨大な植民地住民を市場として抱えていた。
近代工業主義は、「商品」を富を集めるキーアイテムとする。有無を言わさぬ侵略や、海賊行為は、一流国イギリスは卒業した。魅力ある「商品」で、スマートに富を集めるアイデア。『国富論』は、19世紀大英帝国のバイブルであったといえる。
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