アウグスブルグのフッガー家 |
免罪符 |
ローマ教皇レオ10世は、フィレンツェのメディチ家出身で,芸術に造詣が深かく、1514年からのサン・ピエトロ大聖堂の大改築には、装飾にラファエロを担当させていた。莫大な改築費用を捻出するため免罪符の販売を行なう。 免罪符は、十字軍に参加を勧めるため、従軍者に罪の許しを与えるものだったが、その後、教会に金銭を提供するものに与えるようになっていた。 免罪符の販売は、免罪符説教師を先頭とする一行が町の中央広場に紅の十字架と教皇旗をもって現れ、 「お金が箱の中でチャリン と鳴るや否や、霊魂は煉獄から飛んで出る。おまえさんがたは、それじゃ、4分の1フローリンでこの免罪のお符をいただきたくないのか。このお符によって、おまえさんがたは、神聖な不死の霊魂を、パラダイスの祖国へ連れ込むことができるのだよ」と始まる。 それを買った当人の罪を帳消しにするだけでなく、すでに死んで、煉獄で苦しんでいる人にも効能あるとした。 王権の強いフランスは、自分の国内に免罪符販売部隊を入れなかった。ドイツは皇帝の権威は小さく、国内がバラバラだった。「ローマの牝牛」と呼ばれ、教会の資金供給源になっていた。 ローマ教皇は、フッガー家から莫大な借金をしていた。ドイツで販売された免罪符の代金は、いったんフッガー家の金庫に収められ、そのうち半額がローマの教皇庁に届られ、残った半額は、借金の返済に当てられた。 1517年、この免罪符にルターは疑問を感じ、質問状「95カ条の論題」をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りつけた。 主な主張は次の3つ。 1,お金を払えば救われるという免罪符の考え方はおかしい。 2,人は何によって救われるのか。「人は信仰によってのみ義とされる」。 3,では、どのように信仰すればよいのか。聖書を読み考えよう。 ローマへの不満と批判が渦巻いていた社会に投じられた一石は、波紋を広げていった。 |
マルティン・ルター(1483〜1546) |
1483年ルターは、ザクセンのチューリンゲン近くで、鉱夫の息子として生まれ、父は、溶鉱炉3基をもつ小企業家となる。ルターは、教育熱心な両親のおかげで、エルフルト大学で法律を学び、修士課程を17人中2番で卒業している。 1505年の夏休み、かれは突然、修道院の扉をたたく。父は激怒したが、ルターの決心は固かった。同級生の死に直面し、落雷の経験によって自己の死を考えたのが契機といわれる。 1508年ヴィッテンベルク大学に講師に招かれ、のち神学教授となった。 聖職者の妻帯は禁じられていたが、42歳のとき、脱走尼である26歳のカタリナと結婚した。2人の間には6人の子どもが生まれている。 1545年2月アイスレーベンで亡くなる。 |
ドイツ語訳聖書 |
当時発明されたばかりの印刷機を使って、ルターの「95カ条の論題」はパンフレットに印刷されてヨーロッパ中に出回った。ヨーロッパを二分する大論争に発展する。
ローマ教会は、ルターとライプチヒで公開討論をし、自説を撤回させようとするが、ルターは論争を通じローマ教会に対する批判を増していった。 1520年、ルターがローマ教会と教皇の権威を公然と否定すると、ついに教皇はルターに破門状を送った。ルターは学生を集め教皇の破門状を破いて燃やしてしまう。学生たちも、ローマ教会の出版物を炎の中に放り込んで気勢をあげた。 ローマの使節は教皇に「ドイツ人の9割が『ルター』と叫び、残りの1割が『教皇を死刑にしろ』と叫んでいます」と状況報告する。 ローマ教会は、即位したばかりの二十歳の神聖ローマ皇帝カール5世に、ルターを改心させるよう伝えた。 1521年、カール5世は国会を開いてルターを召喚する。呼び出されたルターは、自分が到達した信仰上の立場を捨てることもできないと弁明する。 結局、皇帝はかれを法の保護の外に置くことにし、「いっさいの権利を奪われる刑」とした。ルターの肉体を傷つけたり殺したりしても、罪に問われないことになる。 学生たちがガードしてヴィッテンベルグに帰る途中、ルターは襲われる。森の中から覆面をつけた騎士が現われ、ルターをさらっていつた。 さらったのは、ザクセン侯フリードリヒだった。彼はルターの支持者だった。法の保護の外にあると宣告されたルターを堂々と守ることもできない。誘拐という手段をとって、城にかくまった。ルターは、世間から姿を隠して聖書のドイツ語訳に専念する。 聖書第一主義と言え、この時代ドイツ語の聖書はなかった。聖職者はラテン語の聖書を使っていた。ドイツ人が信仰心を深めるために、ドイツ語訳聖書が是非とも必要だった。 ルターの翻訳は名訳で、現在のドイツ語標準となった。 |
ウェストファリア講和会議 |
ルターの教えをきっかけに、ドイツは政治的な運動を活発に始める。 騎士戦争(1522〜23) 騎士は、300にも及ぶ領主階級の中で規模も小さく、都市と商業の発展で没落しかけていた。かつての地位を取り戻そうと団結して、ローマ教会(カトリック)側の諸侯領地を奪い取る戦争をした。 ドイツ農民戦争(1524〜25) 以前から農民反乱はおきていた。ルターの宗教改革をバネに「戦争」規模の反乱になる。僧侶ミュンツァーはルターの教えを急進的にして、農民を組織した。聖書の言葉しか権威を認めないとし、領主の支配に抵抗し、農奴制の廃止を訴えた。農民グループ同士の団結がなかったので、領主側に鎮圧される。 ルターは、農民を応援したが、かれらの要求が急進的なことを知ると積極的に農民の弾圧を応援する。奴らを木に吊るせ!と過激なことを言うようになる。ルターにとっては、内面での神との対話、それを通じた魂の救済が最も価値のあることであった。秩序の安定を求め、政治的には諸侯、封建領主の側に立つことがはっきりしてくる。 1526年皇帝カール5世は、ルター派を禁止する。ローマ教会側に残った諸侯は、ルター派諸侯の領地に攻め込み、ルター派諸侯もローマ教会の破門を恐れずローマ教会側諸侯を攻める。 ドイツ中騒然となるが、皇帝はルター派諸侯をつぶす実力はなかった。ローマ教会との関係上ルター派を認めるわけにもいかなかった。 1529年ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が神聖ローマ帝国に攻め込み、ウィーンを包囲に至った。ウィーンは皇帝ハプスブルグ家の本拠地。カール5世はルター派諸侯の救援を求め、信仰を認める。キリスト教徒はまとまり、オスマン帝国はウィーンを攻めきれずに撤退する。が、再びルター派を禁止してしまう。 シュマルカルデン戦争(1546〜47) これに対してルター派諸侯が抗議する。シュマルカルデン同盟をつくって皇帝に反乱をおこす。戦争は皇帝の勝利に終わるが、カール5世は退位。そのあと即位したカール5世の弟は、1555年にルター派の諸侯と都市に信仰の自由を認め、「アウグスブルグの宗教和議」を結ぶ。 この和議では、諸侯の信仰の自由が認められた。諸侯には、ローマ教会(カトリック)かルター派の選択の自由が認められた。だが、個人の信仰の自由ではなかった。ある諸侯がルター派を選択すれば、その領地の住民はルター派を信仰しなければならなかった。 ルターは、内面での神との対話を説いた。それは、自分の死を考えた時に宗教の出発点をもつルターにとって、当然の帰結だった。ここからドイツ観念論という哲学が生まれてくる。個人という概念が芽生える。 だが、政治的には、まだ個人は登場しない。これまでの時代、キリスト教は、統治者の政治原理であったことは明らかである。都市の市民の中に、ドイツ語の聖書によって精神的な「個」が誕生する。それは、これからである。 この60年後に再び宗教問題でドイツには大きな戦争が起こる。 |
ハプスブルク家とボヘミア |
1617年にハプスブルク家のフェルディナント(神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に選出される。 熱狂的なカトリック教徒が王になり、国内の新教派の教会を次々に閉鎖し、カトリックの信仰を住民に強制した。 憤激した新教派の人々がプラハの王宮に乗り込み、弾圧の急先鋒であった二人の皇帝顧問を王宮の窓から20m余り下の壕に突き落とした。二人は奇跡的に助かった。 ボヘミア(Bohemia、ベーメン、現在のチェコ)は、当時人口400万人を擁する中欧最大の先進地帯だった。人口の90%までがスラヴ系のチェック人で、ヨハン・フスの先駆的な宗教改革運動が行なわれた地で、新教が根をおろしていた。 9世紀に、部族割拠状態をプシュミスル家が克服し、君主の傭する精鋭騎兵隊の力で、強力な国家を建設しボヘミアが興った。その後、10世紀に神聖ローマ帝国に編入され、12世紀末には世襲の王号を獲得し、ボヘミア王国が承認される。 1376年、イギリスでジョン・ウィクリフが聖書の英語訳に着手し、ローマ教会に教会財産の放棄を訴えた。教会でなく聖書こそ信者に対する唯一の権威であると主張した。この教えは、イギリスに留学していたボヘミアの大学生たちによって伝えられ、プラーハ大学学長のヨハン・フスに影響を与えた。ローマ教会はウィクリフ、フスらを異端者とし、フスは火刑に処せられる。フスの弟子の一部はタボル派と呼ばれ、1450年代にボヘミア兄弟団が出来、そこからモラビア派が生じ、やがてイギリスで1750年代にメソジスト教会を生み出す。 ローマ教会のカトリック教徒に対して、ルターなどの改革派をプロテスタントあるいは新教徒と呼ぶ。 ローマ・カトリック教会は宗教改革の拡大に、1542年宗教裁判所を設けプロテスタントを撲滅しようとした。イグナチウス・デ・ロヨラは、1534年パリ大学の学友6人と共に修道会を結成する。このイエズス会は教育、異端との対決、外国伝道を目標に活動し、南ドイツ、ポーランド、フランス、ベルギー、ハンガリーなどでカトリックの力を回復させた。また外国伝道に熱心なイエズス会はポルトガル、スペインの通商ルートでアジア、南米アメリカに布教を進め、初代の大宣教師、フランシスコ・デ・ザビエルは、喜望峰回りのインド航路によってインドのゴア、東南アジアへと進み、1549年鹿児島に上陸している。 名門ハプスブルク家の一員としてイエズス会で教育を受けたフェルディナント2世は 、忠実に使命を遂げようとする。しかし、祖国でもない国の伝統や宗教を理解する寛容は持ち合わせていなかった。不幸であった。 1618年ボヘミア戦争がおこり、1625年反乱は鎮圧される。 デンマーク戦争(1625〜29年) スウェーデン戦争(1630〜35年) フランス戦争(1635〜48年) 三十年におよぶ戦争で、戦場となったドイツ農村は荒廃し、戦前に1800万人であった人口は、終戦時には700万人に激減したと言われている。 キリスト教徒の新旧の宗教戦争であった内乱は、同じプロテスタントのフランスとスペインが戦う国際戦争で終結する。この欧州大陸で行なわれた戦争により、多くの教訓を 引き出す事ができる。 一つだけ上げるとすれば、傭兵軍による戦争は、凄惨な結末になる。外交努力で避けるのが鉄則である。 傭兵隊長が、自費で傭兵を集め、その軍隊を皇帝や諸侯に売り込む。傭兵隊長は民衆から軍税と称して臨時の租税を徴収し、兵士達の掠奪・暴行もおこる。傭兵軍の規律は低く、給料は戦時にのみ支払われるので、戦争が無いときは徒党を組んで村落を襲い、略奪・暴行が繰り返される。補給線が当初から考慮されていない。現地調達すなわち、掠奪・暴行ということになる。 戦場を祖国としないもの同士が戦う戦争は、すべきでない。あるいは、補給線を確保できない戦争は、継続してはいけない。戦争は掠奪・暴行を認めるものではない。 |
謎の物価上昇 |
1480 年から 1650 年にかけて、ヨーロッパの価格水準はどんどん上がった。この現象は、「大エリザベス朝インフレ」とも呼ばれるが、当時の人には謎だであった。 アメリカからスペインへの大量の金銀が流入していた。だから、金銀の量と価格水準との間には直接的な関係があるんだろうと思われてはいた。しかし、まともな金の理論がなかった。 |
キリスト教徒と価値、価格、「お金」 |
5世紀に、聖アウグスチヌスは「父としての神」、「子キリストとしての神」、「聖霊としての神」は、本質的な「神」の三つの姿だと論じた。2世紀にまとまった新約聖書と、このアウグスチヌスの外典によって、キリスト教は世界宗教となり、西ローマ帝国をひとつの文化圏にまとめる政治原理となった。ローマ教会がそれをつかさどった。 人は、神の財産の「管理権」しか持たず、財産は「公共の利用」に供すべきだと強調された。神の御側に立ち管理権を預かる王は、神から守られ、権威が保証される。寄進により教会には莫大な財があつまった。 教会から距離を置き、清貧と学問に専念した修道会も、いつしか蓄財と無縁でなくなる。それは、生産性の向上と貨幣経済の発達という時代背景の中で、止めようもない波だった。 12世紀半ば,西方に知られていなかったアリストテレスの著作が,アラビア語訳やギリシア語原典からラテン語に訳される。トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を取り込み、キリスト教神学を大成する。これは、スコラ哲学と呼ばれた。 トマス派は、アリストテレスの考え方を聖書と折り合わせようとした。 最も基本の問いは、「私の身体は、誰のもの?」 ここから出発して、
私有を認めると、財産、取引における正義、お金、利息といった諸々の考え方を明らかにしなければならない。突き詰めれば、「価値は、どうして決まるの?」という大問題になる。 最初、「内在的価値」といものを決めようとした。創世記に登場する順序によって「財」には「内在的価値」があると解釈してみた。そうすると、 ネズミのほうが小麦よりも高いことになるけれど、本当にネズミのほうが価値が高いの?
でもこれは、財に「内在的価値」があるという考えを否定する。だって有用性というのは、財そのものの性質じゃなくて、財と人との関係の中にあるものだから。 アリストテレスは、人々のニーズはちがっているのが自然、だから有用性の度合いもちがうと主張している。スコラ学派は「価値」は「有用性」であり、普遍ではないとした。
サラマンカ学派は、何が「有用」か、いちばんよく判断できるのは人だから、ダイヤモンドだって何か謎めいた形で有用にちがいない、と結論づけた。
これは、ある財の「有用性」を推定するいい方法に思えた。 それでは、「価値」と「価格」はちがうの? フランチェスコ会派は、公正な価格は、その生産コスト、つまりその財の供給者の「労働コスト」と「費用」だと論じた。でも、「費用」が、本当にその財の生産に必要なもの以上に誇張されていることは十分にあり得るので、「公正な価格」が過大になっている可能性がある。 やがて、公正な価格を決めるには「競争」が必要であり、独占は不道徳であるという考察に達した。
交易者は、各種のちがったニーズを満たすことで公共の福祉を高めている。 商人は純粋な儲けだけを動機にしてはいけないが、労働コスト(犠牲)に相当する利益を得ていい,とした。 「労働コスト」は「犠牲」なの? 「儲け」は「労働コスト」だけなの? 「費用」を含むんでしょ? 「利益」は「儲け」で、「労働コスト」と「費用」だけなら、商売になる?
初期のキリスト教会にとっては、「すべての人は兄弟である」という発想。世界宗教になるための原理だから。 当然ながら、利息はすべて禁止されるべきだ、ということになる。逆をいえば、異教徒には利息を付けて貸しても良いの? 他の修道士は、問題の聖書の部分で「利息 (usury)」に相当するヘブライ語は、「高利貸し」に近いことを指摘した。だから、過剰な利息や、貧乏な人に対する利息を禁止だが、利息すべてがダメではない、と主張した。 でも、「過剰」ってどれだけなら過剰なの? そして貧乏人と判断されるのはだれ? 4世紀以来、聖職者の利息付きの融資は禁止されていたが、一般人に適用されなかった。1139 年に高利貸しは禁止され、1215 年非キリスト教徒が「過剰な」利息を課すのを禁じ、暗黙のうちに、ほどほどの利息は認められる。1311 年に教皇クレメント五世が、利息そのものを禁止して、それを認めない教団を異端とした。
私有財産を認め、自分の身体を使って行なう「労働」が私有財産の源泉であることは、共通認識となる。価格と利益を突き詰めると、財産は何なの? に辿りつく。 16世紀、ルターによってドイツ語の聖書が印刷されるようになる。都市の市民や小規模地主は、聖書に向かって考えただろう。修道士は、曖昧な返答はできなくなる。教会の蓄財はいいの? |
大インフレと利息 |
ルネッサンス末期、大航海と宗教改革の始まった16世紀ヨーロッパは、大忙しだった。新大陸の黄金と銀が大量に流入し、すさまじいインフレに襲われ、物価水準は 2〜3倍に急上昇した。商人や政治家は、これはどういうことか説明してくれと学者に訴えた。
大インフレは、範囲も原因も目新しいものだった。だが、原因は、貨幣供給の増大で、流入だろうと海賊行為だろうと、改鋳だろうと削ぎ落としだろうと、結果は同じだった。 イエズス会のサラマンカ学派は、このインフレはスペイン領アメリカからの金銀流入によるものだと説明した。また、利息を擁護する議論も展開している。
カール5世が神聖ローマ皇帝選挙に出馬したとき、選挙資金をフッガー家に借りていた。選挙資金85万グルデンのうち54万グルデンはフッガー家からの借入であったといわれる。 皇帝はフッガー家に頭があがらない。ローマ教皇も同じ。 利息にはいい顔をしないが、インフレである以上、利息を認めないのは不公正に思えた。 ローマ・カトリック教会は、教義として利息を認めた。 プロテスタントのルター派は、スコラ派教義を尊重していた。利息、独占商慣行、金融投機、贅沢品の輸入などを、スコラ派よりさらに強く糾弾した。教会的な権威が終わった以上、世俗の権威が介入すべきだともルターは主張した。これが、重商主義や国民国家に発展する芽を持っていた。 同じプロテスタントでも、カルヴァン派は違っていた。「天職」という考えで労働倫理を教義の中心に据えていた。ルターとちがって、旧来のスコラ派教義を丸ごと捨てても平気だ。カルヴァン派は、利息は過剰でない範囲で認めた。 カルヴァン(1509〜64)は、フランスで生まれ、スイスに亡命。宗教改革に熱心なジュネーブに招かれ神権政治している。カルヴァン派の教義は過激だった。
こう自問する清教徒(カルヴァン派プロテスタント)たちは、ローマ・カトリック教会に追われ、オランダに渡り、イギリスで清教徒革命をおこない、アメリカに渡る。 その後の歴史を見ると、ヘーゲルの弁証法で事例を整理する唯物史観の、実に見事な事例である。 だが、もし今16世紀に、名も無き清教徒として生きたとして、歴史がどう動くかはわからない。歴史から知恵を拾うなら、清教徒(ピユーリタン)のように自問から始めなければならない。 流血の戦争より、もっとスマートに富を集めたピユーリタンの精神原理は、なんだったの? |
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