最後の晩餐




 バイブル

 バイブルとは「それぞれの分野でもっとも権威あるとされる書物」。
 日本人にとってはそうなのだが、キリスト教徒にとっては、キリスト教の聖典。聖書[Bible] のこと。

旧約聖書
 ユダヤ教の聖典を自己の聖典の一部としたキリスト教は、福音書や使徒書簡を神との新しい契約の書とし、ユダヤ教の聖典をキリストの出現を預言した古い契約とみなした。ヘブライ語で書かれた律法・預言・諸書の3部39巻からなる。
 天地創造物語・十戒や祭儀の規定・詩編・箴言(しんげん)を含み、イスラエル民族の歴史が神に選ばれ救済された歴史として描かれる。

新約聖書
 初期キリスト教会に伝承された文書を、2〜4世紀に聖典化したもの。イエス・キリストの生涯と復活を記した福音書、弟子たちの宣教の記録、パウロの手紙、黙示録など27巻から成る。ギリシャ語で書かれた。


 イエス派ユダヤ教

 ローマ帝国の支配下で、誇り高いユダヤ人は、統治者に従順ではなかった。とはいえ、ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者に分裂していた。

 さらに、ユダヤ青年イエスが新しい神の法を説き始めると、イエスをメシア(救世主)として認めるか認めないの分裂が起こった。
 ユダヤ教正統派は、モーゼがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執し、イエスが説いた「新しい神との契約(新約)」を受け入れるのを拒否し、イエスと激しく対立していた。

  イエス派ユダヤ人は「エルサレム教団」と呼ばれていた。メンバーが増えてくると、教団内部で、やっかいな問題が起き始めた。「ヘブライニスト」と「ヘレニスト」の対立である。
 「ヘブライニスト」は、「ヘブライ語」をしゃべるユダヤ人を指す。ヘブライ語といっても、当時はセム系ヘブライ語のアラム語が使われていた。
 地中海沿岸に散らばっていたユダヤ人は、その土地の言語を使っていた。アラム語に匹敵する大きな勢力を持った言語は「コイネー・ギリシア語」である。当時のギリシア文化は、「ヘレニズム文化」を指す。そのため、ギリシア語を使うユダヤ人たちのことを「ヘレニスト」と呼んだ。

 ローマ帝国第3の都市、アンティオキアでは、早い時期から、イエス派ユダヤ教の布教が行なわれていた。迫害されたヘレニストたちが、非ユダヤ人にも布教しなくてはならないと集まってきていた。
 ヘブライニストのペトロを中心とする「エルサレム教団」は布教の対象をユダヤ人に限定し、ヘレニストのパウロを中心とする「アンティオキア教団」は非ユダヤ人に対して布教することが決まった。

 ユダヤ人信者の多くは、非ユダヤ人信者にも割礼を受けさせることを主張し、非ユダヤ人信者の多くは、それに反対した。長老たちの「エルサレム使徒会議」は、非ユダヤ人信者には、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいと判断した。
 ある日、「アンティオキア教団」を訪問した「エルサレム教団」のペトロは、非ユダヤ人と同じ食事をとっていた。そこへ、「エルサレム教団」の使者がやってきた。ヘブライニストは非ユダヤ人と同じ食事をとっていけない戒律だった。ペトロは突然、それまでの態度を変えた。これを見た「アンティオキア教団」のパウロは、ペトロを強く非難した。「なぜ、非ユダヤ人と同じ食事をとっているのを隠そうとするのか」と。

 聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、多くの言語になじんできている。最初、ヘブライ語。バビロン補囚時代にカルデア語、イエスの時代はアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、スペインではアラビア語、後にラディノ語となる。
 非ユダヤ人に布教をはじめると、セム系ユダ族という人種からユダヤ教は離れてくる。離散を宿命とするため「言語」とも離れた。信者が増えれば増えるほど、ユダヤ教は、人種、言語で形成される「民族」とは離れていく。ユダヤ教を信じる者が「ユダヤ人」とするなら、「ユダヤ人」という人種問題は存在しなくなる。

 ユダヤ人問題は、ユダヤ教問題である。人種問題ではなく、宗教問題以外のなにものでもない。


 ローマ皇帝

 イエスがゴルゴタの丘で十字架にかけられたのは、紀元30年頃の4月7日午前9時頃だといわれている。彼は生前の予告通り、3日目に甦り、弟子たちの前に現われた。40日間、弟子たちを導いた後、天上の父のもとへ昇天したという。

 紀元37年、ローマ皇帝の座にカリグラが即位する。彼は国民に対して自らが神であることを宣言。皇帝崇拝を拒むユダヤ人たちを迫害していった。
 紀元64年、皇帝となったネロの迫害は、熾烈を極めた。彼はローマの市街に放火し、イエス派信者の仕業であると決め付けた。これによってローマ市民は一斉にイエス派信者を迫害。パロウをはじめとする多くのイエス派信者が、次々と殉教していく。
 ローマ帝国の属州だったパレスチナ地方は、エドム人が“ユダヤ王”として君臨していた。ユダヤ人を統治する方法として、イエス派信者をスケープ・ゴートにすることを考えた。
 ユダヤ教の主流である保守派は、イエス派信者に対して、憎しみに近い感情を抱いている。そのイエス派信者を迫害すれば、ユダヤ集団は国にまとまる。と踏んだ。
 「エルサレム教団」に対して、露骨なまでの迫害を開始し、ペトロを逮捕し、ペトロは殉教する。

 紀元66年、ユダヤ全体がローマ帝国に対して宣戦を布告した。この戦争によって、ユダヤの牙城であったエルサレムは陥落し、ソロモン第2神殿は完全に破壊されてしまった(70年)。
 紀元132年に「第二次ユダヤ戦争」が起きたが、もはやローマ帝国にとってユダヤは敵ではなかった。ユダヤ人は国を失い、「ディアスポラ(離散)」の運命をたどることになる。

 聖地エルサレムを失い、イエス信仰はユダヤ教の伝統を離れ、非ユダヤ人の間に爆発的に広まっていった。

 キリスト教

 380年ローマ帝国テオドシウスは、キリスト教を国教とし、392年に異教信仰が禁止された。

 ユダヤ教は徹底的に妥協を排したが、キリスト教は出発点のパウロの布教活動で異邦人への柔軟な文化適合をしていた。現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的に解釈され、祭礼クリスマスが取り入れられた。
 「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」と「使徒に下された聖霊」。これは神の三つの姿であるとする三位一体論が教会の教義として採択された。
 原始宗教は一般に多神教である。他の神を認めない一神教は特異である。キリスト教は異教の神殿の場所に教会を建立することを奨励し、女神の神殿を聖母マリアに捧げる教会と解釈させた。

 多民族をまとめて統一国家とする場合、各部族の信じる神のどれかを選ぶのではなく、新たな一神教を取り入れることが好都合だった。ここに、ユダヤ教が排され、キリスト教に改宗されて行く秘密がある。

 「教会」は、元来は「キリスト教徒の団体」を指す。後に建物をも指すようになる。教会がローマ帝国内の各地に成立し、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの五本山が重要となった。
 ローマ教会は、一番弟子ペテロの殉教の地に建てられ、首位権を主張した。ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となる。7世紀以後アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下になると、残るローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。
 ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、「教皇」の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だった。ローマ教皇は、ローマ・カトリック教会の最高首長で、初代のペテロを継ぐ者とされる。ラテン語でPapa。 東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。しかも、西ローマ帝国の滅亡後、異端として破門したアリウス派を信仰するゲルマン諸族に囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。
 こうした状況で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾にローマ教会に対し優位に立っていた。

 グレゴリウス1世(540頃〜604、位590〜604)は、ローマの貴族の家に生まれ、ローマの総督にもなったが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出された。彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を譲らず、教皇権の確立に務めた。またゲルマン人の改宗に努力し、アングロ・サクソン族の改宗に尽くした。

 7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫った。さらに、北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化した。こうした状況で、ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護を期待することはできなくなった。

 イスラム教徒のコンスタンティノープル包囲(717〜718)に耐え、ビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世は、726年に「聖像禁止令」を発布した。
 当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖像を崇拝する風潮が盛んとなっていた。偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世は聖像の制作・所持・礼拝を禁止し、破壊を命じた。

 これは、聖像をゲルマン布教の手段にしていたローマ教会の反発を招き、東西教会分裂の契機となった。ビザンツ皇帝は強硬な態度を取り、ロンバルド族と結び、ローマ教会に圧迫を強めさせた。
 732年イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に目をつけたローマ教皇は、東ローマと手を切り、フランクと結ぶことを決意。カール・マルテルに接近をはかったが失敗に終わった。 後を継いだ小ピピンに、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、王位を承認した。小ピピンは754〜755年にイタリアに出兵し、ロンバルド族を討伐し、奪ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結びつきは固くなった。


 フランク王国

 小ピピンの子、カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ、742〜814、位768〜814)は、教皇の要請でイタリアに出兵し、ロンバルド王国を滅ぼす。
 ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住していたサクソン族の一部はアングル人とともにブリタニアに渡ったが、残りは北ドイツに居住していた。カール大帝は、サクソン族と30年に及ぶ戦いの末、ザクセン地方を征服し、キリスト教化に成功した。
 この間、中央ヨーロッパに侵入したアジア系のアヴァール人と戦い(791〜799)、これを撃退し、ドナウ川の中流域にまで領土を拡大した。南では、イスラム教徒と戦い(778〜801)、スペイン東北部に領土を拡大した。
 こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがる西ヨーロッパの主要部を統一する大フランク王国を建設した。
 800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世は、カール大帝にローマ皇帝の帝冠を与えた。この「カールの戴冠」は西ヨーロッパ世界の成立を象徴する出来事であった。

 ローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会(西方教会)とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会(東方教会)は、1054年に相互に破門し合い、完全に分離した。以後、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパ世界で、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界で勢力を持つことになる。なお、東西両教会が和解するのは、実に1965年のことである。


 神聖ローマ帝国

 フランク王国と結び発展したローマ・カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって打撃を受けた。侵入を受けた地域の多くの修道院は、掠奪の餌食となり、破壊された。しかし、修道士達の布教活動によって10〜11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ・カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していった。

 多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進し、教会や修道院は広大な荘園を所有するようになった。また、ローマ・カトリック教会内は、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来てゆく。
 当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられた土地の所有者に帰属する。司教や修道院長の任命権や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者が握っていた。当然、聖職者の腐敗・堕落がおきる。

 聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くは妻帯していた。社会的な地位が高く、収入がよい大司教・司教の地位を金で買うことが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていた。聖職者の中に、聖書もろくに読めない人もいたといわれる。
 その中で、クリュニー修道院は、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、院長の選挙は自由に行われることの権利をフランス王と教皇の特許状で獲得し、戒律を厳格に励行し、祈りと読書・研究に励んだ。
 クリュニー修道院の名声はヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、優れた人材が生み出された。最盛期の12世紀初め、1500の分院を擁するヨーロッパ第大の修道会に発展した。

 1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院では、自らの労働で自らの生活を維持する労働が重視された。彼らは荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たす経済的な面で注目された。12世紀に全盛期を迎えるシトー派修道会は、1800の修道院を擁する一大修道会となった。

 クリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は、俗人による聖職者の叙任を禁止したが、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050〜1106)との衝突を引き起こした。

 ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であった部族の勢力が強く、ザクセン・フランケン・ロートリンゲン・シュヴァーベン・バイエルンなどの部族公領となっていた。歴代の皇帝は、国内に多くある教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身であった)司教や修道院長らを王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚として統一を維持していた。司教・修道院長の任命権を握っていたので、信頼できる家臣を司教・修道院長に送り込むことが出来た。
 ハインリヒ4世は国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させた(1076.1)。これに対してグレゴリウス7世は、逆にハインリヒ4世の破門を宣告した(1076.2)。
 破門はローマ・カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外される。君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味した。

 ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(位1099〜1125)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムスの協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結した。
 ヴォルムスの協約は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」ということ。
 つまり、皇帝は司教を任命する権利を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保した。ということで、「皇帝のものは皇帝へ、神のものは神に」の精神に帰ったことになる。


 十字軍

 西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの侵入に苦しめられてきた。特に8〜9世紀以来、イスラム勢力やアジア系のマジャール人そしてヴァイキングの侵入が相次ぎ、守勢であった。しかし、力を蓄えて反撃に転ずようになる。

 イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城(1055)、さらに西進し、ビザンツ帝国軍を破って(1071)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領した。ビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めてきた(1095)。
 フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(位1088〜99)は、公会議を開き演説をした。

 「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義の戦に倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」

 聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を提唱した。聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われる。
 こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士の第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の十字軍が派遣される。
 イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のこと、350年も前。なぜこの時期に十字軍が行われたのか?

 三圃制や11〜12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く耕す農法の普及など農業技術の進歩により生産力が高まり、人口が増大していた。
 だが、封建制の完成によって、もはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていた。 農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放を望んでいた。
 勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかろうとした。
 このような時代背景のなかで、ローマ・カトリック教会は東西教会の統一を目論んだ。

 教皇の演説は大きな反響を引き起こし、修道士・説教士は各地で十字軍への参加を呼びかけ、修道士に率いられた数万の熱狂者は、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープルから小アジアに渡ったが、トルコ軍に殲滅された。この民衆十字軍(1096〜97)は、聖地の回復に、武力を持った軍隊が必要であることを教えた。
 第1回十字軍(1096〜99)は、4軍団に分かれて出発し、騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にここを陥れた(1098)。
 アンティオキア攻略に功があった騎士はアンティオキア公国(1098〜1268)の君主に治まり、もはやイェルサレムには行こうとしなかった。これより前、エデッサを攻略した騎士もエデッサ伯国(1098〜1146)を建ててそこに留まった。
 アンティオキアからイェルサレムに向けた進撃が、6週間にわたる攻囲戦の後、ついにイェルサレムを陥れた(1099)。この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民約7万人を虐殺した。虐殺と掠奪が終わると、彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記している。回復した聖地にイェルサレム王国(1099〜1291)が建設された。
 イスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信ぶりが際だっている。当時のキリスト教徒は、異文化に接する機会に乏しく、キリスト教の隣人愛を、異教徒への隣人愛にまで深めるに至っていなかったことを示している。

 異教徒は人間にあらず。キリスト教徒の年代記家の表現が誇張に満ちていると仮定しても、7万人もの虐殺は、この免罪符を抜きにしては想像を絶する。神はこれを許したのだろうか。

 第1回十字軍が成功をおさめた時期、セルジューク朝が分裂していた。その後、サラーフ・アッディーン (位1169〜93))が、エジプト・シリア・イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついにイェルサレムを奪回した(1187)。

 1202から1204年の第4回十字軍は、「破門された十字軍」といわれる。
目標をエジプトとし、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼した。ヴェネツィアは兵士・資財の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負った。
 ヴェネツィアに集結した十字軍士らは、約束の船賃が6割しか調達できていなかった。交渉の結果、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたアドリア海の海港都市ツァラを取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは後でよいと提案してきた。
 十字軍士は、ツァラの町を襲い占領して略奪を行った(1202)。同じキリスト教徒の町を襲ったという報を聞いた教皇は激怒し、第4回十字軍士全員を破門した。
 翌年、十字軍はコンスタンティノープルに向かい、攻略、コンスタンティノープルに駐留することになった(1203)。十字軍はビザンツ帝国の内紛により廃位させられた王の子を乗せていた。幽閉されていた父王は復位した。

 実は、十字軍の指導者と商人と王子の間で、皇帝を復位させる代わりに、ヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、さらにエジプト遠征の費用を負担する密約が結ばれていた。ヴェネツィアの商人達は皇帝に密約の履行を迫ったが断られ、密約の内容が漏れ、市民達は皇帝の廃位を宣言し、宮廷クーデターが起こる。十字軍士は、再びコンスタンティノープルを占領し、徹底的に略奪を行った。略奪品は十字軍とヴェネツィアで折半された。
 十字軍士は「ラテン帝国(1204〜61)」を建国し、ヴェネツィアはコンスタンティノープルの一部と多くの島々や沿海地域を手に入れ目的を果たした。内陸部の土地は主立った十字軍士に分け与えられた。
 第4回十字軍は、ビザンツ帝国を消滅させ、ヴェネツィアの商権拡大と諸侯・騎士の領土獲得欲を満足させる結果となった。東西教会の対立は深まった。十字軍の目的は、東方のキリスト教徒の救援であったはずなのだが。


 最後の晩餐

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1512)が、ミラノ公の要望で描いた『最後の晩餐』。ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会の修道院の食堂の壁に描かれている。20年にわたる洗浄と修復が1999年にようやく終わり、公開された。

 処刑の前日、十二の使徒との最後の晩餐。使徒は左から
パルトロマイBartholomew 「テルマイの子」という意味
小ヤコブJacobus 「アルパヨの子ヤコブ」
アンデレAndreas ペテロの弟。漁師。
ユダJudas 「イスカリオテ・ユダ」
黒髪と黒髭で描かれることが多く、黄色い衣を着けさせられていることもある。黄色は裏切りを意味する。
ペトロPetrus 本名「バルヨナ・シモン」、ギリシャ語で岩(ペトロ)と呼ばれた。
ヨハネJohannes イエス最愛の弟子。
晩餐画の伝統ではイエスの胸に寄り掛かる姿で描かれる。
トマスThomas 「トマス」はアラム語の「双子」
絵では指を立て、予言をもう一度繰り返すよう求めている。
大ヤコブJacobus 「ゼベダイの子ヤコブ」
漁師。ヨハネの兄。母はサロメ。
フィリポPhilip 「馬を愛する(フィレオー)者」
マタイMatthaeus 本名「アルファイの子レビ」 「取税人」
タダイThaddaeus 本名「ヤコブの子ユダ」
シモンSimon 「熱心党のシモン」
熱心党は、ローマに対しゲリラ活動をしていた集団。

新約聖書「マルコによる福音書」14:17-26
   夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。 
そして、一同が席について食事をしている時言われた。
「特にあなた方に言っておくが、あなた方の中のひとりで、
私と一緒に食事をしている者が私を裏切ろうとしている」 
弟子たちは心配して一人ひとり「まさか私ではないでしょう」
と言い出した。 
イエスは言われた。
「十二人の中の一人で、私と一緒に同じ鉢にパンをひたして
いる者がそれである。たしかに人の子は、自分について書い
てあるとおりに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は
わざわいである。その人は生まれなかったほうが彼のために
よかったであろう」 
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、
祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。
「取れ。これは私の体である」 
また杯を取り、感謝して彼らに与えると、一同はその杯から飲んだ。 
イエスはまた言われた。
「これは多くの人のために流す私の契約の血である。 
あなた方によく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、
私は決して二度とぶどうの実からつくったものを飲まない」 

彼らは讃美を歌った後、オリブ山へ出かけていった。

 鮮やかになったレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』には、女がいる。左から二人目の「小ヤコブ」と、イエスの隣の「ヨハネ」。

 『新約聖書』には4つのイエス伝がある。その一つ「ヨハネ福音書」の情景をダ・ヴィンチは描いたといわれる。

ヨハネ13:23
 イエスの隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛して
  おられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロは
  この弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねる
  ように合図した。その弟子が、イエスの胸もとによりか
  かったまま、
  「主よ、それはだれのことですか」
  と言うと、
  イエスは、
  「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と
  答えられた。
  それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモン
  の子ユダにお与えになった。


 ルネッサンスを代表する画家で、技術者でもあるダ・ヴィンチが、伝統的な晩餐画のように、イエスの胸もとによりかったヨハネをリアルに画けば、奇異となる。それは画けない。
 一説には、イエスの妻であるマグダラのマリアとした。「小ヤコブ」の位置にいる人は、 不明。「小ヤコブ」であるとも言われる。


 だが、最後の晩餐が行なわれた時代と場所を考えてみる。アラブ世界の伝統で、 食事はクッションにもたれ、床で行なわれた。と考えれば、イエスの隣のヨハネは、 イエスの胸もとによりかかっ状態で、「主よ、それはだれのことですか」と問いかけても不自然ではない。
 ルネッサンスの時代のミラノでは、晩餐はテーブルとイス。床にクッションでは、キリスト画が異教徒の画になってしまう。依頼主には受け入れられない。


 「マルコ伝」は、イエスが神の子であるという論拠を、奇跡に求めず、イエスの人格に求め、人間イエスの姿を事実に即して記しているといわれる。「マルコ伝」では,イエスは裏切者を示していない。聖書の中にも、その記述はない。
 ユダといえば、十二弟子には「イスカリオテ・ユダ」と「ヤコブの子ユダ」がいる。最後の晩餐の出来事が、原始キリスト教といわれるイエス派ユダヤ教の「エルサレム教団」の出来事であるなら、イエスを含め、全員がユダヤ人と考えてもいい。

 ユダは、なぜイエスを裏切ったのか? 古来からの論議の的であるが、聖書には書かれていない。
 「熱心党のシモン」は、ローア帝国に対する過激原理派と見ることができる。 ソロモンの末裔であるメシアが、イエスであると信じたユダヤ人は、その後の イエスに失望して、離れていった。ユダヤ人すべてに対して、イエスはそれを「裏切り」といったのだろう。事実、十二弟子は、イエスと一緒に、はりつけになっていない。
 その「裏切り」を、イエスは許すと説いた。その罪を背負って刑を受けた。 信じなさい、これからが新しい神との「契約」です。とユダヤ人イエスはいう。

 ここが、「ユダヤ教」と「キリスト教」の決別点。「旧約聖書」と「新約聖書」のしおりが挟まるページであろう。宗教画『最後の晩餐』の意味がここにある。


 [Bible]に、イスラエル民族の歴史が描かれる必要がどうしてあったのか。「創世記」からはじまる歴史物語は、歴史的真実を含む。一神教という宗教原理が、西欧という文化圏を形成するには必要であった。この歴史物語の重みが、改宗を促す宗教の重みであったのだろう。
 ゲルマン人には、この歴史物語は直接関係ない。マリア信仰、クリスマス祭として取り込まれた多神教の痕跡に、宗教としてのキリスト教の歩み寄りを読み取ることができる。
 だが、すべてが歩み寄りで済んだとは言えない。例えば、バルト海のほとり、リトアニアは、キリスト教への改宗が最も遅かった。リトアニアの民族信仰では、蛇を神聖視し、生きた蛇をまつっていた。キリスト教の教典「創世記」において、蛇はアダムとイブにささやく悪魔とされた。リトアニアのキリスト教への改宗は14世紀、「異教徒に対する十字軍」の被害から国を守るため、知恵ある選択だった。


 SENPO・SUGIHARA

 世界宗教として出発したキリスト教も、ローマ・カトリック教会(西方教会)とギリシア正教会(東方教会)に分裂し、平坦な道のりではなかった。
 国家統一という政治原理と表裏一体の宗教は、必ず堕落する。それを、宗教改革で乗り越えてきた。非キリスト教徒の日本人とはいえ、敬意を表する。

 かって、わが国の一外交官が、命のビザを発行して、6000人とも言われるユダヤ教徒に生きる希望を渡した。彼はキリスト教徒だった。しかも、バルト海のほとり、リトアニアという地においてだった。

 彼、杉原千畝は1924年2月、ロシア正教の神父パーベルの前で婚姻の誓いをし、セルゲイ・パブロピッチとして洗礼を受けた。
 聡明で、ロシア語が堪能な千畝は、ロシア語で聖書を読んだのだろう。ロシア正教は東方教会。西方教会のローマ・カトリックよりユダヤ教には近い。ロシアのウクライナのユダヤ教徒の事情も理解できたと想像する。ポーランド人との付き合いで、「アシュケナジーム」を理解していたのだろう。

 世界宗教のキリスト教の旧契約の聖典として、ユダヤ教の「聖なる書物」は生きている。だが、それは、キリスト教徒の「寛容」を説くための聖典である。本来、紀元132年に「ディアスポラ」の運命を迎えた時、栄光の民イスラエル12支族は栄光の歴史に幕を引いた。それ以後、セム系ユダ族は、例えば、リトアニアのように少数固有文化として守られて行くべきものだった。
 15世紀、イスラム勢力がイベリア半島から駆逐され、同時に次なる「ディアスポラ」の運命を迎えた時、多くのユダヤ人は異民族、異教徒と同化していったものと思われる。少なくとも、言語においてはラディノ語という同化が行なわれている。

 だが、ユダヤ教は力を失わなかった。それは、なぜか?
東欧社会に9世紀、ユダヤ教を国教としたカザール汗国があった事実による。その歴史を辿ると、栄光の民イスラエルとは人種的に直接関係ないことが分かる。今も絶えないエルサレムを巡る問題の「イスラエル」というキーワードにおいて、「ユダヤ人」とは「ユダヤ教徒」であり、「ユダヤ人」という人種問題ではない。宗教問題と人種問題を、はっきり分けて考え、そこから希望の光を見つける。それは、神が望んでいるものではないだろうか。

 1939年、バルト海のほとり、リトアニアという地において、ロシアの軍事行動があり、それを押し返すナチスの軍事行動があり、さらにロシアの軍事行動の波が押し返して行った。その波の下で、ユダヤ教徒の運命を察知、限られた2週間の中で全身全霊で命のビザを発給しつづけた日本人がいたことは、忘れないで欲しい。
 東洋人への人種差別の色濃い西欧で、「父なる神よ、どちらが文明国かお見せしよう」と杉原千畝は決意している。キリスト教が説く、「自己の選択」においてであった。いかなる結果も覚悟の上だった。終世多くを語らずに逝った。記憶に留めていただきたい。


参考Webサイト 創世記

2004.11.14
by Kon