バイブル |
バイブルとは「それぞれの分野でもっとも権威あるとされる書物」。
日本人にとってはそうなのだが、キリスト教徒にとっては、キリスト教の聖典。聖書[Bible] のこと。 旧約聖書 ユダヤ教の聖典を自己の聖典の一部としたキリスト教は、福音書や使徒書簡を神との新しい契約の書とし、ユダヤ教の聖典をキリストの出現を預言した古い契約とみなした。ヘブライ語で書かれた律法・預言・諸書の3部39巻からなる。 天地創造物語・十戒や祭儀の規定・詩編・箴言(しんげん)を含み、イスラエル民族の歴史が神に選ばれ救済された歴史として描かれる。 新約聖書 初期キリスト教会に伝承された文書を、2〜4世紀に聖典化したもの。イエス・キリストの生涯と復活を記した福音書、弟子たちの宣教の記録、パウロの手紙、黙示録など27巻から成る。ギリシャ語で書かれた。 |
イエス派ユダヤ教 |
ローマ帝国の支配下で、誇り高いユダヤ人は、統治者に従順ではなかった。とはいえ、ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者に分裂していた。 さらに、ユダヤ青年イエスが新しい神の法を説き始めると、イエスをメシア(救世主)として認めるか認めないの分裂が起こった。 ユダヤ教正統派は、モーゼがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執し、イエスが説いた「新しい神との契約(新約)」を受け入れるのを拒否し、イエスと激しく対立していた。 イエス派ユダヤ人は「エルサレム教団」と呼ばれていた。メンバーが増えてくると、教団内部で、やっかいな問題が起き始めた。「ヘブライニスト」と「ヘレニスト」の対立である。 「ヘブライニスト」は、「ヘブライ語」をしゃべるユダヤ人を指す。ヘブライ語といっても、当時はセム系ヘブライ語のアラム語が使われていた。 地中海沿岸に散らばっていたユダヤ人は、その土地の言語を使っていた。アラム語に匹敵する大きな勢力を持った言語は「コイネー・ギリシア語」である。当時のギリシア文化は、「ヘレニズム文化」を指す。そのため、ギリシア語を使うユダヤ人たちのことを「ヘレニスト」と呼んだ。 ローマ帝国第3の都市、アンティオキアでは、早い時期から、イエス派ユダヤ教の布教が行なわれていた。迫害されたヘレニストたちが、非ユダヤ人にも布教しなくてはならないと集まってきていた。 ヘブライニストのペトロを中心とする「エルサレム教団」は布教の対象をユダヤ人に限定し、ヘレニストのパウロを中心とする「アンティオキア教団」は非ユダヤ人に対して布教することが決まった。 ユダヤ人信者の多くは、非ユダヤ人信者にも割礼を受けさせることを主張し、非ユダヤ人信者の多くは、それに反対した。長老たちの「エルサレム使徒会議」は、非ユダヤ人信者には、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいと判断した。 ある日、「アンティオキア教団」を訪問した「エルサレム教団」のペトロは、非ユダヤ人と同じ食事をとっていた。そこへ、「エルサレム教団」の使者がやってきた。ヘブライニストは非ユダヤ人と同じ食事をとっていけない戒律だった。ペトロは突然、それまでの態度を変えた。これを見た「アンティオキア教団」のパウロは、ペトロを強く非難した。「なぜ、非ユダヤ人と同じ食事をとっているのを隠そうとするのか」と。 聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、多くの言語になじんできている。最初、ヘブライ語。バビロン補囚時代にカルデア語、イエスの時代はアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、スペインではアラビア語、後にラディノ語となる。 非ユダヤ人に布教をはじめると、セム系ユダ族という人種からユダヤ教は離れてくる。離散を宿命とするため「言語」とも離れた。信者が増えれば増えるほど、ユダヤ教は、人種、言語で形成される「民族」とは離れていく。ユダヤ教を信じる者が「ユダヤ人」とするなら、「ユダヤ人」という人種問題は存在しなくなる。 ユダヤ人問題は、ユダヤ教問題である。人種問題ではなく、宗教問題以外のなにものでもない。 |
ローマ皇帝 |
イエスがゴルゴタの丘で十字架にかけられたのは、紀元30年頃の4月7日午前9時頃だといわれている。彼は生前の予告通り、3日目に甦り、弟子たちの前に現われた。40日間、弟子たちを導いた後、天上の父のもとへ昇天したという。 紀元37年、ローマ皇帝の座にカリグラが即位する。彼は国民に対して自らが神であることを宣言。皇帝崇拝を拒むユダヤ人たちを迫害していった。 紀元64年、皇帝となったネロの迫害は、熾烈を極めた。彼はローマの市街に放火し、イエス派信者の仕業であると決め付けた。これによってローマ市民は一斉にイエス派信者を迫害。パロウをはじめとする多くのイエス派信者が、次々と殉教していく。 ローマ帝国の属州だったパレスチナ地方は、エドム人が“ユダヤ王”として君臨していた。ユダヤ人を統治する方法として、イエス派信者をスケープ・ゴートにすることを考えた。 ユダヤ教の主流である保守派は、イエス派信者に対して、憎しみに近い感情を抱いている。そのイエス派信者を迫害すれば、ユダヤ集団は国にまとまる。と踏んだ。 「エルサレム教団」に対して、露骨なまでの迫害を開始し、ペトロを逮捕し、ペトロは殉教する。 紀元66年、ユダヤ全体がローマ帝国に対して宣戦を布告した。この戦争によって、ユダヤの牙城であったエルサレムは陥落し、ソロモン第2神殿は完全に破壊されてしまった(70年)。 紀元132年に「第二次ユダヤ戦争」が起きたが、もはやローマ帝国にとってユダヤは敵ではなかった。ユダヤ人は国を失い、「ディアスポラ(離散)」の運命をたどることになる。 聖地エルサレムを失い、イエス信仰はユダヤ教の伝統を離れ、非ユダヤ人の間に爆発的に広まっていった。 |
キリスト教 |
380年ローマ帝国テオドシウスは、キリスト教を国教とし、392年に異教信仰が禁止された。
ユダヤ教は徹底的に妥協を排したが、キリスト教は出発点のパウロの布教活動で異邦人への柔軟な文化適合をしていた。現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的に解釈され、祭礼クリスマスが取り入れられた。 「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」と「使徒に下された聖霊」。これは神の三つの姿であるとする三位一体論が教会の教義として採択された。 原始宗教は一般に多神教である。他の神を認めない一神教は特異である。キリスト教は異教の神殿の場所に教会を建立することを奨励し、女神の神殿を聖母マリアに捧げる教会と解釈させた。 多民族をまとめて統一国家とする場合、各部族の信じる神のどれかを選ぶのではなく、新たな一神教を取り入れることが好都合だった。ここに、ユダヤ教が排され、キリスト教に改宗されて行く秘密がある。 「教会」は、元来は「キリスト教徒の団体」を指す。後に建物をも指すようになる。教会がローマ帝国内の各地に成立し、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの五本山が重要となった。 ローマ教会は、一番弟子ペテロの殉教の地に建てられ、首位権を主張した。ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となる。7世紀以後アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下になると、残るローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。 ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、「教皇」の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だった。ローマ教皇は、ローマ・カトリック教会の最高首長で、初代のペテロを継ぐ者とされる。ラテン語でPapa。 東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。しかも、西ローマ帝国の滅亡後、異端として破門したアリウス派を信仰するゲルマン諸族に囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。 こうした状況で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾にローマ教会に対し優位に立っていた。 グレゴリウス1世(540頃〜604、位590〜604)は、ローマの貴族の家に生まれ、ローマの総督にもなったが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出された。彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を譲らず、教皇権の確立に務めた。またゲルマン人の改宗に努力し、アングロ・サクソン族の改宗に尽くした。 7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫った。さらに、北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化した。こうした状況で、ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護を期待することはできなくなった。 イスラム教徒のコンスタンティノープル包囲(717〜718)に耐え、ビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世は、726年に「聖像禁止令」を発布した。 当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖像を崇拝する風潮が盛んとなっていた。偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世は聖像の制作・所持・礼拝を禁止し、破壊を命じた。 これは、聖像をゲルマン布教の手段にしていたローマ教会の反発を招き、東西教会分裂の契機となった。ビザンツ皇帝は強硬な態度を取り、ロンバルド族と結び、ローマ教会に圧迫を強めさせた。 732年イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に目をつけたローマ教皇は、東ローマと手を切り、フランクと結ぶことを決意。カール・マルテルに接近をはかったが失敗に終わった。 後を継いだ小ピピンに、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、王位を承認した。小ピピンは754〜755年にイタリアに出兵し、ロンバルド族を討伐し、奪ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結びつきは固くなった。 |
参考Webサイト 創世記
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