|
下側が木曽川,左上端が岐阜の町です。 国鉄が木曽川を渡り、岐阜駅で大きく西に向きを変える。 高山線はまだ出来ていない。 名鉄もまだ敷設されていません。 仲仙道が西の加納宿から東へ通じています。 |
天正14年(1586)に木曽川は大洪水を起こし,今の位置となる。 それまでの流路が、手力雄神社横の境川である。 更にそれ以前は、仲仙道と古墳の間を流れたとする説がある。 神護景雲元年(767)までは鵜沼から山沿いに、 ここを通る木曽川主流があったと説かれる方がある。 もしそれが真実なら、5世紀後半頃琴塚を築いた氏族は 400年近くここで水と戦い続けたはずである。 主流が境川に移れば、川跡は耕地に変える絶好の場所となる。 もはや、水の脅威はない。 多くの恵を授かってこの氏族は繁栄したことであろう。 水と戦う氏族は竜神を祀る。 古墳を作る技術は堤防を築く技術である。 この技術を携えた者は古代製鉄技術も持っていた。 古代の鉄は”たたら”である。火との戦いである。 水を制した喜びは、火の祭りとして燃えあがったのではないか。 蔵前の手力雄神社の創建は貞観2年(860)と言われる。 この祭りの源流は確実この1140年前まで溯るが、 琴塚の作られた5世紀まで溯るとみてもよい。 この祭りは、そんなロマンに誘い込む不思議さを持っている。 |