火祭りの歴史


この地図は陸軍測地部の明治24年実測1/25000の地図です。

 
 下側が木曽川,左上端が岐阜の町です。
国鉄が木曽川を渡り、岐阜駅で大きく西に向きを変える。 高山線はまだ出来ていない。
名鉄もまだ敷設されていません。

仲仙道が西の加納宿から東へ通じています。

この地図の1/4、右上を次に示します。


仲仙道は切通村の外れで直角に北に曲がるが,
そのまま真っ直ぐ道なりに進むと川岸の神社前に来る。

火祭りの舞台は蔵前の町外れ、この川岸にある神社である。

祭りに集まる神輿の町を捜してみよう。

切通、蔵前、高田、芋島町、水海道、野一色、北一色、前一色。

そして左兵衛新田の琴塚を確認できる。

地図の右上段に琴塚と文字があり古墳の形を確認できる。
(マウスをその位置に合せると地図に琴塚と表示します)

この祭りはこの古墳を含む一帯の氏子の祭りである。

 天正14年(1586)に木曽川は大洪水を起こし,今の位置となる。 それまでの流路が、手力雄神社横の境川である。 更にそれ以前は、仲仙道と古墳の間を流れたとする説がある。 神護景雲元年(767)までは鵜沼から山沿いに、 ここを通る木曽川主流があったと説かれる方がある。 もしそれが真実なら、5世紀後半頃琴塚を築いた氏族は 400年近くここで水と戦い続けたはずである。 主流が境川に移れば、川跡は耕地に変える絶好の場所となる。 もはや、水の脅威はない。 多くの恵を授かってこの氏族は繁栄したことであろう。 水と戦う氏族は竜神を祀る。 古墳を作る技術は堤防を築く技術である。 この技術を携えた者は古代製鉄技術も持っていた。 古代の鉄は”たたら”である。火との戦いである。 水を制した喜びは、火の祭りとして燃えあがったのではないか。 蔵前の手力雄神社の創建は貞観2年(860)と言われる。 この祭りの源流は確実この1140年前まで溯るが、 琴塚の作られた5世紀まで溯るとみてもよい。 この祭りは、そんなロマンに誘い込む不思議さを持っている。


2000.6.17
by Kon