中山道垂井宿
岐阜県不破郡垂井町



美濃路の追分から相川橋に向かい、 その橋を南に渡ると垂井宿である。 相川は揖斐川に合流する暴れ川であった。
ここまで来ると伊吹山の姿が違う。
相川に泳ぐ鯉のぼり越しに伊吹山と対面した。
5月2、3、4日は恒例の垂井まつり。
 この相川橋付近は、かつて橋はなく、「人足渡し場」であった。


 中山道垂井宿は、相川の南に七町余、800m程の町並みである。寛政十二年(1800)には、本陣、脇本陣各1、旅籠屋が45軒、人口1239人とある。
 東町をここ、愛宕神社までくると道は鍵の手に曲がる。正面は江戸時代から今も旅籠を営む亀丸屋。安永6年(1777)に建てられており、浪花講や文明講の定宿として隆盛であった。濃尾大地震でも建物には、大きな被害はなかった。
 垂井宿は、宝暦5年(1755)の大火をはじめ、度重なる火災にみまわれた。寛政年間(1789〜1800)に、ここ東町の愛宕神社はじめ、中町・西町にも火伏せの神をまつった。


問屋場跡

間口五・五間 奥行七・五間の金岩家は、代々彌一右衛門といい垂井宿の問屋・庄屋などの要職を勤めていた。屋号は扇屋といい、現在、結納品を扱っておられる。


本陣跡は、中町にあった。本陣を勤めたのは栗田家で、一時酒造業を営んでいたが、明治期になると、その地は垂井小学校の前身にあたる学習義校として利用された。


宿場の中央に一本、直角に通りが交差する。
街道南側に石の大鳥居がたっている。1キロ程先に南宮大社が鎮座する。 南宮大社は美濃国一宮。祭神は金山彦。この当たりには4と6の日に市 が立っていた。「六斎の市」と呼ばれた。垂井は門前町でもあった。近年まで1月29日の 「かご市」として名残があったという。

脇本陣跡

一角が小料理屋と、大衆食堂に使われているこの建物。脇本陣を勤めた金岩家である。この脇本陣の門や玄関は、明治初年、斜め向かいにある本竜寺に移築された。

向こうに見えるお寺が本竜寺。手前は旅篭「長浜屋」。本竜寺脇が高札場だった。


黒い塗込造りのこの建物は、文化末年(〜1818)に建てられ、江戸時代は油屋卯吉なる人が油商を営んでいた。明治初年、その建物を小林家が譲り受け、一時旅館を営んでいた。


本竜寺前の歌舞伎上演。


八重垣神社での奉納歌舞伎を終え、 山は街道の要所でまたお披露目をする。

この向こうを北に入ると 八重垣神社。 祭神、スサノオノミコト。垂井宿の氏神である。

 今日は恒例の垂井まつり。街道は人で華やぐ。普段は人影も少ないだろうが、 こうして人の波と子供歌舞伎が良く似合う。町並みの伝統と風格なのだろうか。
 ただ、写真をご紹介して残念におもうことがひとつ、空を被う電線の猥雑さ。往時の町並みはもっとスカッとしていたはず。澄み切った空に養老や伊吹や白山 の峰の線を取り戻して頂きたいと密かに願うのでした。
 黒い電話機が姿を消し、携帯電話で電柱や電話線は消えてゆくだろう。消えてしまった「かご市」を惜しむことより、この町にしかない山並みと街道の風景が復元されることを信じよう。その日は多分、痛みを伴うIT革命の終りの日なのだろう。



2003.5.3 by Kon