垂井曳き山車祭りの歴史 南北朝の文和2年(1353)南朝軍に追われた後光厳帝は垂井の頓宮に難を避ける。 祇園社の社僧が午頭天王を勧請し帝の安泰祈祷を行う。 里人は帝の心労を安じ、花車3台を作り曳き廻しなぐさめた。 その後、安永時代(1772〜1780)舞台作りの構造となり、 豊年祭と称して曳き出し、子供の能狂言を行う。 年を経るに従い演劇化し、文政時代 (1818〜1829)には 現在の様相となった。(以上頂いたパンフレットより) 京都「祇園社」は明治の神仏分離令により「八坂神社」となり、 当地「祇園社」は八重垣神社と名称を変更したと思われる。 京都「祇園社」は元慶元年(877年)、藤原基経が自邸を寄進し建立されたと言われる。昔インドで、須立長者という人が、太子より賜った樹林を惜し気もなく寄進し祇園精舎を建立した。守護神は牛頭天王(ごずてんのう)である。この故事 にちなみ、京都「祇園社」は牛頭天王を祀った。戦いで滅ぼした者の怨霊を鎮めるため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」を度々行っていた。有名な京都「祇園祭」はこの伝統を受け継ぐものである。日本では、この牛頭天王と須佐之男(スサノオ)命は神々混交で同神とされてきた。 なお、八重垣神社は島根県にあり、須佐之男命を祭る。「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」のあと稲田姫命と新居を構えたとされる地にある。当地「祇園社」は須佐之男命を祀ることより八重垣神社と改称されたのだろうが、明治維新の神仏分離の時には一般 的な話しであり特に当地と島根八重垣神社との関係はないとおもわれる。 垂井の地に八重垣神社鎮座650年の本年、伝統ある垂井まつりを拝見し、ご当地 の皆様に深く感謝いたします。 |