美濃路追分
岐阜県不破郡垂井町


 中山道,相川の「人足渡し場」よりすこし東に行くと美濃路との追分となる。ここより下れば東海道、宮の宿に至る。昔もそうだったろうが、美濃路が主道路のようである。
木の道標の脇に石柱があり、 「右東海道大垣みち、左木曾街道たにぐみみち」と書かれている。 宝永6年(1709)地元の奥山氏により建てられた物と伝わる。



追分から東を眺めるとユニチカの前に立派な松の木が見える。 中山道にはもう松並木はなく、美濃路でも、ここだけに残る 貴重な松並木である。


追分・綾戸間には、北側に28本、南側に15本程残っている。 町と保存会の協力でこの並木は今後も保存されていくだろう。


 中山道はここで美濃路と合流して峠を越え近江、北国へ抜ける。 尾張から、信州から物流はここで集積する。また逆に荷分けもされる。 一大物流集散地に垂井宿はあった。それは地形のもたらす恩恵である。 人馬が基本であった宿駅制度で、幕府は荷車の使用を禁止していた。 垂井宿の再三の請願により、五街道の先陣を切って大八車の使用が許可された。 この事が、一大物流集散地、垂井宿の凄さを物語るだろう。
 中山道の道幅は2〜3間(3.6〜5.4m)広い所は5間、9mあったと言われる。 その両側に土手を築き松を植えた。夏の日よけ、冬の雪除けになっていた。 大抵の街道は明治以来主要道路として改良されていった。上下2車線の道路 は最低3mの倍で6mいる。松並木は切り倒された。時代の要請で致し方 のないことであった。では、14里24町(56km)におよぶ美濃路で、どうして ここだけに松並木がのこったのだろうか。
 例えば揖斐川の左渡の近くは終戦ころまで、立派な松並木が続いていたと 聞いた。戦後のモ−タリゼ−ションの前までは、結構松並木は残っていた。 僕は稲葉宿ちかくの住人なのだが、小学のころ近くの松並木の記憶がある。 当然石ころ道の水溜りの記憶といっしょであるが。ここ追分けの松並木は 幕末から明治にかけて植え直されている。大正時代は幼木だったそうだが、 台風で軒並み倒れ道を塞いでしまったことがあった。旧東海道沿い には樹齢200〜400年の松並木が今でも残るところがあるが、ここの松は 100年程度の樹齢ではないだろうか。この街道は現在は県道なのだろうが、 垂井宿の南に国道21号線が走り、北には県道218号が走る。この美濃路筋 は主要道路ではなかったことが、松並木の残る原因の一つだろう。
 並木に沿って歩いてみた。ユニチカの工場 沿いにありコンクリ−ト塀が続く。中は社員住宅だった。 戦後の高度成長で繊維産業は花形産業だった。テレビ、 洗濯機、冷蔵庫、自家用車、ク−ラ−と真っ先にここの住人の 家庭に登場しただろう。僕は稲沢の尾西毛糸という会社の近くで育ったから、子供の記憶ではっきり実感できる。多分、 幸せな家族達の住む文化住宅のコンクリ−ト壁が、松並木が切り倒されずに すんだ原因の一つだと思った。今は廃屋となった文化住宅を訪ねてみた。


川原では
  水遊びする子供らの
     声流れ来る廃屋に
        今も佇む消火栓ひとつ。
                 昆明

 時代の流れによって、今では文化財となった松並木は、もう切り倒される ことはないのだろう。


2003.5.3 by Kon