田縣神社と大縣神社


 以前から、この祭りは知っていたのですが、今年、祭礼を訪れたのは 小牧市史に以下の文章を認めたからであります。

昭和52年刊 小牧市史 第5編 文化 第6章 宗教 (P614)
「 田縣神社の豊年祭りは旧暦正月15日に行われていた..」

 これは国府宮はだか祭りの夜儺追神事の翌日にあたる。
国府宮はだか祭りに興味を深くしたのは、本殿横に磐境(いわくら) があり、本宮山の方向を向いているという記述があったことに始まる。生れ故郷 の神社と自分の町の神社に深い関係がありそうだと気付いたときは興奮しました。色々調べ出すと、更にその感を増していきます。旧暦正月15日のことは、当日 地元の2、3の方に訊ねてみたが、”ずっと3月15日だよ”との返答しか頂け ませんでした。
国府宮はだか祭りの歴史に思いを馳せながら、この国の成り立ちを考え、資料も集めているのですが、改めて田縣神社と本宮山と青塚遺跡といった断片的な知識を地図にまとめてみると,なるほどと思えることがある。祭りを通じ、生きた勉強をさせていただけるのには感謝する次第であります。
 私は橋の設計屋であり、歴史とか古文書の知識は皆無といっていい。特に、漢字羅列の古書には閉口します。この国は、ひとつ、ふたつ、みっつ という数え方と イチ、ニイ、サン の数え方が共存する社会です。私の知りたいのは ひとつ、ふたつ、みっつの時代のことであり、出来るだけ漢籍は遠慮させていただきたいのすが。大和朝廷は漢籍と共に国家宗教として仏教を採用しました、幾多の部族を併合するためには、グロ−バルスタンダ−ドとして仏教を広めることが最適な方策だったのかもしれません。以来、神仏混交の流れの中で積み上げられた古文書は、1000年、2000年前の歴史に思いを馳せる時、反って錯誤の原因になるような気がしてなりません。
 この国はいくつもの民族の交錯のなかで織り成された混血の民であるということは以前から聞き及んで来ましたが、最近の遺伝子解析テクノロジ−が、ものの見事にこれを証明しました。 古言語の遺伝子解析も進んでいるようです。私は、祭りの遺伝子解析からこの国の成り立ちを辿ってみたいと思っています。前置きは程々にして、神話としてのこの祭りの私見をまとめてみます。

 田縣神社の御祭神はスサノオの孫、御歳神(ミトシノカミ)であるという。このことは、時の権力者に因む方をお祭りしたと考えればいいのであって、紛れもなく御神体の大男茎形(おおおわせがた)と大縣神社の御神体の女陰が重要であると思われます。磐境信仰という自然信仰の形を今に伝え、それを支えた氏族の存在の証になると思われます。
 古来、この地域は邇波縣(ニワアガタ)と呼ばれ、これを治めた豪族、丹羽氏はそんな集団ではなかったのでしょうか。そして、尾張族という朝廷に近い新興勢力に出会い、和議を結ぶ。尾張族の祖、建稲種命(タケイナダネノミコト)に大荒田命は娘玉姫を嫁がせ、二男四女の子宝に恵まれたが玉姫は夫亡き後、故郷に戻り父を助け開拓に励み、子女養育に努めたとありますがこの当時の母系社会を前提にすれは、父大荒田命は和議の証左に娘への建稲種命の通婚を認めた。 そして、その子は尾張氏の父姓を名乗り朝廷に対しても受け入れられ氏族は繁栄を続けていった。玉姫は一生この地で暮らし、受け入れた建稲種命の子により丹羽氏も繁栄。玉姫は各所の神社に祭られて当然の神となったのでしょう。
 神明社から出発する大男茎形と建稲種命の神輿は本来大縣神社の姫の宮に納まるのではなかったのでしょうか。小牧市史を頼りにこの祭りの歴史を調べていて、大縣神社の記述が見当たらないのには慌てました。この重要な宮は歴史の表舞台から消えたのかと。ただ大縣神社は犬山市在であり律義な編者は割愛したのだ。それに気付き安堵 いたしました。
 神輿行列の先頭で錦糸の陣羽織を着た市長さんや議員さん達の表情も和やかだったことを思い出し、もともとこの祭りは私たちに肌合いのよい祭りではないかと思います。民族と民族の興亡の歴史が必ずしも殺戮と流血の繰り返しでなかったことを私達の歴史は示せるかも知れません。

2000.3.19 by Kon
e-mail nazca-e@geocities.co.jp