徳川幕藩体制と石橋


掛出しの設計屋の頃、”ここのディテ−ルどうだったっけ”。書きかけの図面に向かい、
しばし考え込むことがよくありました。考えても始まりません、結局は知らなかっただ
けですから。通り掛かりの工事現場で鉄筋の組み上がるのを一心に見詰めていたことが
あります。雑誌の写真に”こういうことだったのか”と一人で納得したり。それで、新
聞や雑誌の”橋”の切り抜き帳が出来上がりました。大切なコレクションです。この絵
は、北陸に出張した折、車中で買ったお土産の包装紙です。こちら岸から向こう岸へ人
馬を渡す。これも立派な橋です。船橋。

去年の12月26日、本州にはめずらしい石橋”與運橋”をキ−ワ−ドに、岐阜県恵那郡山岡町
で”石橋シンポジウム’97”を開催しました。私もボランティアで協力しました。
開催の1ヶ月まえ、Niftyの掲示板に以下のメッセ−ジをのせました。

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SUB:あなたのご近所に石橋はありませんか?
 現在私たちは、石橋の保存運動を行っています。
ダムの建設に伴い岐阜県恵那郡にある3連の石橋
   _____
   \∩∩∩/ (←こんな感じのもの)
が水底に沈むことになりました。よく「めがねばし」などと呼ばれる
様に、2連の石橋はまれに見かけますが、3連以上のものはとても珍し
いのです。そこで文献を調べると、このような3連の石橋は、本州に
おいては金沢市に一基、千葉県に一基、そして、この山岡町のもの、
以上3基しか存在しない貴重なものであることが判りました。因みに、
九州にはこのような3連のものを含め、石橋が多数存在します。
 私たちのまだ知らない3連の石橋が本州に存在しないだろうかと、
全国の皆様に教えていただこうと思いました。
ご近所に”本州の未知の3連の石橋”があるなら、
是非とも下記までメールにて、情報をお寄せください。
皆様のメールを心待ちにしております。
/POST
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シンポジウムの会場で”掲示板見ましたよ”と声をかけて頂いた方はいましたが、新発見の
メ−ルは届きませんでした。

シンポジウムの開催の前日、九州からお招きした3方と近在の湯で同宿いたしました。
日本の石橋を守る会 山口さん
大分の石橋を研究する会 日向野さん
熊本県八代郡東陽村石匠館 古田さん

当日の朝食の折、一つの疑問を3方に投げかけてみました。
”本州に石橋がないのは、なぜですか”
3人は顔を見合わせ、山口さんが発言されました。
”もし、山口で毛利が壊れない橋を作れば密偵が走ります。お家取り潰しでしょう。
九州は許されていたのですよ。海峡があったから。”

20年”橋”にこだわり仕事を続けてきた私にとって、徳川幕藩体制300年の歴史
が色濃くその”橋”に反映されていることに気付いた衝撃の一瞬でした。私の中には、
一つの仮説がありました。法隆寺の5重の塔を支える巨木。本州は木の文化圏。しかし、
人々の歴史を背負う”橋”にはじめて気付いた衝撃の一瞬でした。


今年の6月、熊本を中心に江戸時代の石橋を見学するツア−に参加しました。
6橋ほど。最後、熊本県下益城郡砥用の霊台橋、そして通潤橋。通潤橋の壮大
な風格と優美さにはしばし絶句しました。

撮影 西尾 延雄

熊本を中心とし、このエリヤには通潤橋を架設した”種山石工”の壮大な
ドラマが秘められています。旅行後、山口氏の著書”石橋物語”でそれを
知りました。開国夜明け前の安政元年(1854)、阿蘇外輪の麓、侵食
川で遮られ収穫が望めない白糸台地に農民と総庄屋により架けられ水路橋。
閉ざされたこの日本で失敗を工夫で乗り越えた美談にとどまらず、何ゆえ
にこの事業が為し得たか。この背景に、新田開拓年貢3年免除の経済政策
があり、それをささえた技術集団”種山石工”が存在した。
この物語は土木事業の原点です。世界に誇れる日本の足跡だと思います。
この物語を、今まで知らなかったのは私だけであつたことを祈ります。

                                             1998/12/1  A.Kon