田舎侍
「あの方は,どなたですか。」 「安部工業所の社長ですよ。」 助教授の部屋でのゼミの途中、ドアのノックの音がし、先生は席を立った。開かれたドアの先には、ステッキ をついた老紳士の姿が現れた。「や−、井上さん。お久しぶり」。そんな短い会話の後、文献のコピ−が手渡 され、ドアは閉じられた。ゼミを終えたあと、コ−ヒ−を飲みながら私は確かめてみた。ほんの一瞬ではある が安部源三郎さんにお目にかかったことになる。 岐阜市の長良川と金華山は、鵜飼と共に、あまりにも有名である。川岸にそそり立つ金華山から尾根づたいに 南に下ると水道山がある。岐阜市はこの山を利用し早くから水道を完備した町であった。安部源三郎さんは岐阜 市水道部長在職時代、いくつかの創意工夫によりその基礎を築いた。創意工夫。工夫は技術屋の基本である。創 意はあこがれに近い。役者にとって演技力は基本である。しかし、長年暖めた人物を演じる舞台に立てるのは、 一生夢であるかもしれない。それに似ている。 1977年、私は橋の設計屋として技術者の道を歩みはじめた。その頃は、日本における長大橋の計画時代。 斜張橋という形式が話題になりはじめていた。 昭和54年(1979)名港西大橋 架設計画用一般図作成 昭和59年 (1984)完成 175+405+175m 昭和60年度(1985)愛知県税のしおりより 中部地区の斜張橋 昭和58年(1983)の夏、子供たちをつれ、付知侠にキャンプに出かけた。 山間からの支流の合流点にキャンプ場はあり、小さな木の吊り橋で結ばれた テントサイトは子供達を遊ばせるには絶好の場所でした。 キャンプ場に向かう途中、道路脇に”おや"と思う風景に出会い、車をとめて 4枚の写真を撮った。 昭和58年8月(1983/8) . . 1963年(昭和38年) 8月 雑誌 『プレストレスト コンクリ−ト筆者は、岐阜を中心にプレストレスト コンクリ−トの仕事をやっている、いわばPC界 の田舎侍であります。垢抜けのしない私見をご披露におよんでは誠に申し訳ない次第であり ますが、協会からの依頼もあり,やもう得ない事とお許しを願います。..... この書き出しで始まる文章に,この橋の計画、設計施工の経緯が安部源三郎さんにより記されていた。 氏の施工経験により裏打ちされたPC構造への造詣の深さと愛着が読み取れる。要点を以下記載させて 頂く。 PC橋は長大橋に適している PC橋は制作、架設時にPCケ−ブルに最大荷重が作用する。その後、リラクゼ−ションで15%減少する。 活荷重による応力増は3%程度。したがって架設時が最も危険ということです。新しい橋、特に長大橋に踏み 切るとき、これが一つの決め手になる。 架設現場でプレストレスト導入していくと足場から桁が持ち上がります。このとき、大丈夫 なら上述のごとく、将来的な心配はないことになります。スパン比1/40の架設をしたことが あります。とてもスレンダ−で皆さん心配されますが。いくつか架設してみますと、理論とも マッチし心配はなくなります。 PC橋は連続不静定形式に適している 連続形式は経済的な形式であるが、地盤の軟弱なところには採用されてこなかった。ある程度の 変位が生じたらオイルジャッキで修正できるようにしておけばよい。筆者は数々の橋の不等沈下 の修正や、嵩上げを経験しています。 ラ−メン橋において橋脚をフレキシブルにして温度に対応すべきだ。 PC橋の特性を活用すべきだ クリ−プは応力分散効果があり有効利用して高不静定の経済的構造物を作るべきだ。 PCはPCケ−ブルの曲げ上げ形状によりセン断力がうちけされる。 スタ−ラップなしの構造も可能だし、ブロック工法の継手もドライで可能だ。 そして、岐阜県恵那郡福田町に昭和37年(1962)既設吊り橋の主塔を利用して完成させた島田橋が紹介され ている。下記の構造要旨である。1)岐阜県の山間には深い谷をまたぐ吊り橋が多い。架け替えにはかなりの財政負担となる。そこで既設の塔を 利用して値打ちに架ける。 (2)たまたま京都の製パン工場の建築で経験したストランドつり屋根構造を発展させた構造とする。 (3)2主桁構造とし、床版は2mの工場制作のパネルをこの桁の間に組み込む (3)谷に足場を組まない構造にする。 安部源三郎さんの主張は、その後の橋梁の発展の中で、確実に実現されていった。橋脚をフレキシブルにした 多脚固定の連続形式橋クリ−プ応力をオイルジャッキアップで開放する工法、プレハブ部材による施工スピ−ド アップ工法。そして、長大橋としての斜張橋、斜版橋。 JR東北本線 名取川橋梁 PC斜版橋 最長スパン108.6m 雑誌『橋梁と基礎』 1996年12月 表紙より . . . . しかし、残念なことに、1990年7月16日、島田橋は自重5トンのトラックが走行中、左岸側2本 の斜材が切断し、トラックもろと落橋、崩壊した。 斜材は3.4mmの鋼線を37本より集めたストランドを2本コンクリ−トで包み込む20cm×40cm断面、 定着は鉛を鋳込む安部式定着法であった。 塔上部からシ−スへの雨水の進入による腐食破断が原因といわれる。構造がゲルバ−形式のため、この 破断が橋全体の落下に至ってしまったことは不幸であった。 PC橋以前、まだ鉄筋コンクリ−トが一般的であった時代、大きな河川を横断する橋にはゲルバ−形式がよく 採用されていた。このゲルバ−形式という呼び名は、1860年代のドイツ人HeibRiCH Gerber の名による。 橋を渡るものが自動車となった時代には、このヒンジ部に衝撃が発生することもあり用いられなくなっていくが、 構造が明快であり設計計算が簡潔であること、橋長を長くできることより一時代の代表形式であった。 しかし、構造が明快であることの反面として、構造に無駄な部分がなく、予期せぬ荷重には対処できない 点がある。 昭和53(1978)年6月13日 12日夕に発生したマグニチュ−ド7.5の宮城県沖地震。建物全半壊128戸、橋の損壊21個所。 北上川にかかる錦桜橋は宮城県中田町で 中央部が落下、国道346号線を通行止めにした。 (中日新聞 6/13より) 多くの創意、工夫。横風等の応力検討などの細心の注意。それにも拘わらず雨水による腐食が橋を落とした。 そして、人身事故に繋がる。このことは橋の設計に携わる者にその職業の重さを伝えるものである。 マニュアルに従って落ち度はありませんでした。そんな免罪符はあるにはあるのだが、創意を形に変える時 それは通用しない。源三郎さんがおっしゃったように”さむらい”であらねばならないのでしょう。 ”田舎侍”源三郎さんにほんの一瞬ではあるが、お目にかかったことを大切な思い出にしていきたいと思う。 NATO軍の空爆により破壊した斜張橋(1999/4/3) ユ−ゴスラビア連邦ノビサド〜スレムスカカメニツァ 1999/4/5中日新聞 夕刊より より高く、より遠く、...。それは人々が求め続けたものである。橋の技術者はより遠く を求めた。その過程において、幾多の事故があり、論争があり、ドラマがあった。 McGRAW-HILLという出版社をご存知だろうか。私のような構造物屋は S.Timoshenko の THEORY OF ELASTICITYといったテキストで慣れ親しんだ出版社である。 1917年 カナダのセントロ−レンス川に全長863mのケベック鉄道橋が完成した。 この橋はイギイスのフォ−ス橋を原形式とするカンチレバ−トラスであるが、完成まで 2度の悲劇をおこしている。予算との関係もあったが、フォ−ス橋より経済性を追求し た結果1907年、両岸から張り出し工事中のトラスは崩壊し74人の命を奪った。 数年の事故調査.研究の後、1911年セントロ−レンス橋梁会社により工事再開となった。 前回の教訓より、中央のゲルバ−吊り径間は水面よりジャッキで吊り上げる工法とされた。 1916年9月、水面より4mつりあげられた鋼製トラスはジャッキの破損で水没し 13人の犠牲をだした。 雑誌 橋梁と基礎 1993/8 トラス橋特集 田中 宏 フォ−ス橋とケベック橋より 一つの成功を基に、より長く、より安くを求める時、新たな破壊現象が技術者の前に 立ちはだかる。薄い部材を効率よく組み立てるには座屈という現象が支配的となる。 鉄橋の設計マニュアルの大半がこのことに関してである。1907年の事故により 多くの研究がなされ、事故報告書、研究論文が公表された。これが出版社McGRAW-HILL の基礎となったと聞き及んでいる。 落ちてはいけない橋を架ける私達はその悲劇に学び、勇敢にそれを克服してきたはずである。 しかし、落ちてはいけない橋を落とさねばならない。それは、”さむらい”にとって 十重にも百重にも悲劇であることは理解していただきたい。 イギイスのフォ−ス橋にナチス空軍は1600発の爆弾を投下したと言われる。そして前掲 の橋の爆破ニュ−スを知った一日本人技術者のメ−ルを掲載させていただきます。 TO Kon 名港西大橋は私が担当したなつかしい橋です。日本で初めての長大斜張橋でありケーブルの 製作をはじめ、初めて経験したレインバイブレーションにもびっくりしました。 最後に写真があったユーゴのノビサドの斜張橋は、私の会社が技術導入しているスイスの BBR社で製作したケーブルが使用されています。 1980年に私がBBR社へ1週間研修に行きましたが、そのときユーゴからこの橋の関係する役 人が何人か来ていました。この人たちと一緒に食事もし、お互いつたない英語で会話した ことが思い出されます。これらの人やこの橋が内戦でどうなったのかと心配していましたが、 テレビで橋の破壊された写真を見てがっくりしてしまいました。 FROM H.Nagai 1999/8/6 A.Kon