第3章 新生日本での生活の再建


第3節 自営のための準備と設計事務所の設立。
 昭和44年 (1969)8月1日には私は満56歳になったが, この頃自動車の運転免許を取得するために稲沢市の中央自動車学校(旧中央毛繊会社の跡地に設立された) で悪戦苦闘していた。
 4月の初旬に入校したがやっと免許取得できたのは、8月の下旬であったと覚えている。次ぎには、日産自動車でブルーバードを購入して運転練習を始めた。当時まだ西尾張中央道が一部工事中で、夜は殆ど車の通行が途絶える状況であった。前照灯を付けて暗夜の運転練習に出掛けたことを思い出す。
 次に国家資格の取得に意欲を燃やして行政書士、土地家屋調査士、宅地建物取引主任書等の受験にいどむため六法全書や受験参考書を繙いて勉強した。また名古屋市の中西司法書士事務所に1ヶ月許り通勤して不動産登記手続を勉強させてもらった。昭和45年の1月には行政書士の登録をした。宅建主任者の試験には合格したが、これは登録まではしなかった。理由としては、不動産業務に積極的に参加することは心情的に反発を感じたからである。

 昭和45年2月1日会社設立前の社員総会を開催し、定款の承認、取締役選任、監査役の設置及び選任、代表取締役の選任等の議題を上程し、出資社員全員の承認議決を得た。
 定款の承認は、公證人尾池則一氏の認証証書を得たので同年2月13日設立登記を申請して設立の手続きを完了した。設立当初の会社の規模は次の通りであった。
1、 名 称  有限会社東海工務設計事務所
2、 資本金  金800,000円
3、 本 店  愛知県稲沢町桜木434番地
4、 役 員  代表取締役 近 藤 真 造
       取 締 役 鈴木 耕次郎
       同    近 藤 定 子
社員としては、上記3名の外に、横井 安君が1名参加して発足した。横井 安君は、昭和40年3月稲沢高校農業土木科を卒業して、直ちに一宮市役所に採用された俊英であって、在学中に測量士試験に合格した実績を持ち、当社の発足に際し、一宮市役所を途中退職をして参加して呉れたという誠に感激すべきエピソードがある。

 時期的に前後するのであるが、我が家の家族のことについて触れておきたいと思う。 まず昭和42年5月11日に長女勝江は、名古屋市中村区牧野町にて建築工務店(山源工務店と称する)を経営する山田家の長男山田利夫さんと縁あって結婚した。結婚式は、名古屋市の覚王山にある東山会館で行なわれた。始めて娘を手放す感傷に思わず涙を洩らしたことを思い出す。他家に嫁がせた娘の身を案ずる妻の要請もあり、再々お伺いしたが幸い長姉の方が色々とお教導していただけるので安堵して帰ったことを覚えている。
 次ぎに昭和43年10月19日に次女静代が、太陽神戸銀行に勤務していた澤井義勝さんと結婚することとなった。澤井さんの出身地は、兵庫県神崎郡福崎町福田という大変福々しい土地であって、山陽線姫路駅から播担線に乗り変えて32分で福崎駅に至るのである。結婚式は地元の福崎神社で挙げられた。 私共親族は泊り掛けで参加したが、この時には前記の長女勝江は、すでに出産した真由美1才を連れて参列したのである。沢井夫婦は、津島市東柳原町に新居を設けたが、そこで長男義文を出産し、妻はその付添いを果した。次男の茂は、昭和44年3月稲沢高校造園土木科を卒業して、京都市の東寺の前にあった(有)矢田造園に入社して、造園設計及び施工の業務に従事した。私も入社した当初に京都に赴き、社長さんに御指導を御願いしたことを思い出す。然し、その後2年8ヶ月を勤めたところで、そこを辞して名古屋市の東郊通りにあった(株)知多設計に移り設計製図の研修をさせてもらった。私が設立した東海工務設計の運営に参加する前提としての転身であって、この間に中部測量専門学院測量科第1部で学び測量士補の資格を取得した。
 長男の昇は、一宮高等学校から岐阜大学工学部土木工学科に進み、昭和46年3月卒業したが、更に大学院修士課程工学研究科にて研修を続けた。終了後49年4月から2ヶ年間、同大学土木工学科の助手を勤務し、井上教授の御指導を受けた。 三女の眞寿枝は、昭和48年3月稲沢東高等学校普通科を卒業し、株式会社三和銀行の名古屋支店に入社して銀行勤務を5年半続けた。以上は、私が自営業を発足させた頃の家族の状況であった。会社の運営と共に係わった家族の協力や変還も記述してゆくこととする。


第4節 設計事務所の発足時の業務状況。
 昭和45年2月13日設立の当社の実際の業務は、45年4月1日から始まった。稲沢市桜木町桜木434番地の自宅の敷地の前庭に、木造平家建(7坪)の事務所(山源工務店施工)に事務机及び椅子4脚、応接用ソファ1脚を置き、ロッカー1箇と用意したささやかな事務所開きであった。従業員は前述した通り総勢4名であった。
 幸いなことに、稲沢市土地改良課のご紹介により、次の3工区の土地改良業務の委託を受けることができた。
5月2日、 明治土地改良区第3工区
清水地区 代表者角田 信氏
5月14日 明治土地改良区第4工区
竹腰地区 代表者沢田 廣氏
7月31日 明治土地改良区第23工区
日光側東沿い地区 代表者三輪栄一氏
 このうち、第4工区(竹腰地区)は約25町歩でまとまりが良い地区であったので、確定測量に着手できた。他の2地区については問題点が多かったので、まずその解決について努力することとなった。この年の中頃から玉野測量(株)、中部復建(株)、共和調査設計(株)の各社から業務委託をいただくようになり大変忙しくなった。中部復建には、私の大先輩河辺義郎氏が役員としておられた関係から、また他の各社へは、稲沢高校農業土木科の卒業生が就職していた関係からの御厚意と思い大変有難く感謝したのである。又当時の稲沢市長新谷栄氏は、元稲沢高校の校長先生であり、種々御高配を賜わったことを感謝している。その一端として、稲沢市の道路台帳作成の業務委託をいただき、各地区割毎に道路番号を定め、夫々幅員と延長を測定して道路位置図を作成したことが印象に残っている。この年度の後半で海部群甚目寺町役場から道路改築工事に伴う測量業務の委託を受けたが、これは同役場に勤務している石川清和氏(横井安さんの同級生)からの斡旋によるものであり、横井君ともども現場作業に従事したことをなつかしく記憶している。昭和45年(1970年)は、大阪で万国博覧会が開催された年であって、是非見学したいとの社員一同の意向が一致したので、業務の遣り繰りをして1日を当て出発した。開通後まだ5年を経たばかりの名神高速道路を運転(横井、鈴木、近藤の順に交代して運転)して会場に到着し、主要パビリオンを選択して見学し、再び名神高速道路を走って帰って来た。慌ただしい日帰り旅行で大変疲れたが誠になつかしい思い出となった。
 第2期(昭和46年4月〜47年3月)に入ってからは稲沢市、中部復建(株)の他に江南市(市長、滝一男氏)から道路測量業務の委託を2件頂き遠隔現場に出向する機会が生じた。地元土地改良工区の測量と両立させることに留意しつつ業務量の拡大に努力した。ただこの年度の終わりにおいて、鈴木耕次郎氏が、自らの自営のため、昭和47年2月29日付を以って当社を退職されることとなった。2年余りの歳月であったが岡崎市から遠路を通勤していただいたことを感謝し、新しい出発の成功を祈ってお別れをすることとなった。代わって横井 安氏を当社取締役に加わって貰うことにして現在に至っている。
 第3期(昭和47年4月〜48年3月)において稲沢市の道路台帳作成の業務も大詰めとなり、業務経費も増額していただき、全市域に亘って完成した。また中部復建(株)から委託の「木曽三川横断測量及び海岸沈下調査」の業務では、大変貴重な体験をさせていただきました。更に特筆すべき事は、横井 安氏の土地家屋調査士試験の合格という快挙であった。昭和48年1月には、地元平和町に横井 安土地家屋調査士事務所が設置されることとなった。心から前途の発展を祈念したものである。当社としては、京都から戻って来ていた二男茂と私とで業務を処理することとなった。
 第4期(昭和48年4月〜昭和49年3月)は手不足で臨んだが、中部復建(株)の業務は山内禎夫氏に外注して処理していただき、稲沢市や宮田用水土地改良区の測量は、学生アルバイトを加えて直接行って、やっと責を果たす事が出来た。但しこの期には、自動車の買い替えに当たって膨大な売却損が計上され、経常損失額が445,127円という結果となったことは誠に残念であった。第5期、第6期と同様な運営を続けたがやっと第7期に入って茂も測量試補の資格を得て正式社員として参加することとなった。
 第7期(昭和51年4月〜52年3月)には、前年度から続いて宮田用水土地改良区の水路路線測量(幹線大江川)を受託したが、続いて江南市の水道管伏設ヶ所測量や一宮市の治水第5号及び第6号と相次いで受注し、各所に出向したが、年度終わり間近には、稲沢市(市長は住田隆氏)の準用河川稲葉川測量業務を受託し、延長3qに及ぶ水路の測量を山内禎夫氏の絶大な協力をいただいて完了することができた。まったく水路測量に集中した1年であった。  第8期及び第9期(昭和52年4月〜54年3月)の期間は、子生和土地改良工区の換地計画及び換地処分業務に集中するという様変わりした2年間であった。
 上記子生和町は稲沢市の北東部に位置する田園地域で、北は、一宮市と接し東は陸田町及び赤池町の一部を挟んで国鉄東海道本線に沿う地域である。稲沢市稲沢土地改良区の第2工区の6としてランクされている区画である。昭和49年11月頃当時の工区長桜井美之氏の御紹介をいただいて、該工区の換地設計及び換地処分業務の希望入札をいたしました所、当社に落札されたのである。依って昭和50年1月29日に正式に契約調印を経て、換地設計業務を開始したものである。第10期及び第11期(昭和54年4月〜昭和56年3月)に入ると稲沢市土地改良区(全市内の土地改良区を一体化して、市長住田 隆氏が理事長となった)において農道舗装事業が盛大に行われるようになった。当社でも毎期6〜7個所を分担する状況であった。このような中で昭和55年10月には子生和工区の換地処分業務は完成したが、中部復建(株)からの委託業務については、主として山内禎夫氏に外注委託して協力して頂いた。

 長男 昇の変遷について一寸触れておくと、岐阜大学で助手生活を2ヶ年間勤めた後、昭和52年4月名古屋市中区栄一丁目7番33号(サカエセンタビル)にある名古屋道路エンジニア株式会社に勤務することとなり、同年5月29日岩本好美さんと結婚し、同市千種区桐林町一丁目3番地に住居を定めた。この会社は、日本道路公団関連のコンサルタント会社であり、中部地区の高速道路の構造物の建設管理を目標としている。長男は、特に橋梁設計について貴重な研鑚をさせていただいたのである。
 昭和56年4月に、中部復建(株)の山内禎夫氏が(株)千代田エンジニアリングを設立されたのを機会に、道路エンジニア(株)を辞してこの会社に移り、企業運営の体験をすることとなった。
 この年は、当社第12期の年度であるが、今1つ特筆すべき事項としては、明治土地改良区第4工区(竹腰地区)の換地処分登記を完了したことである。この地区の換地会議は昭和51年11月2日に開催し、換地計画書は、昭和53年12月7日付で認可されていたのであるが、登記する段階にて、一部相続登記に当たり著しい支障が生じたのである。関係者の絶大なる奔走に日時を費やし、また在外公館の協力を賜り3年の遅れにて登記の完了が出来たのである。昭和56年11月12日を以って換地処分登記を完了したので、誠に申し訳なく感じているのである。
 第13期(昭和57年4月〜58年3月)においては、農道舗装関係業務には路線測量の他に舗装設計が加わり、単価が増額された。またこの年度には、前年度に発足した不正入札事件に関する稲沢市監査委員会の調査が2ヶ月間に亘って行われて、入札停止の状態となり、業務量が激減した。更に昭和57年4月2日には次男近藤 茂が中川美智子さんと結婚し、稲沢市旭町に新居を構えた。誠に多事の年であった。


第5節 東海工務設計事務所の業態と我が家の変還
 当社も第14期(昭和58年4月〜59年3月)を迎えたが、資力は乏しくて資本金も発足当初の金80万円のままであり、地元の稲沢市及びと土地改良区の業務委託に応ずる程度に納まっていた。ぼつぼつ始まってきたバブル景気にのって地価高騰に向っていた投機に手を出すことには無縁であった。引揚者としての私の資力としては、誠に止む得ないことであると思っている。
 ただ、この年の始めに、長男が住宅金融公庫の融資を受けて住宅を建築することとなったのであるが、建築敷地の選定に当り新しく土地を購入することは、全く望めぬ状況であった。昭和44年3月に退職した時に受領した退職金は、確か金500万円であったと覚えているが、其の後の会社設立から15年間の運営資金の一部にも充当してきたのであって残念ながら上述のような状況を認めざるを得なかったのである。仮にこの金額が手元にあったとしても、地価の高騰の当時においては、せいぜい30坪を購入し得る程度であったであろう。結局現在私が借地して、昭和31年に建てた木造平屋建の旧宅を撤去して、木造二階建の新しい住宅を建築することに決定した。地主の石黒良幸さんの同意もいただき着工することとなったのは、昭和58年5月であった。
 壊すこととなった旧宅については、前に記述したことであるが、昭和34年9月26日の伊勢湾台風の被害の経験や、私の養母近藤みいが昭和55年5月14日、86才の高齢で僅か30分位の苦しみを訴えた後に急逝して、悲しい別れをした思い出が残る家である。又この母は私を育て、私の満鉄赴任時も行を共にし、苦難の引揚げをも共に経験し、妻定子とも円満に睦み合って、その温い看護を受ける中での安らかな終焉であったことを思うのである。新しい家は、長女勝江の嫁ぎ先である山源工務店の手で施工されることとなり、私達は、桜木地内の近くに借家を借り受け、私と妻及び三女眞寿枝の三人が移り住むこととし、家財道具の一部は石黒藤男さんの離れ屋に一時保管をしていただくように準備をした。
 昭和58年の6月吉日を選んで、八坂神社職山田さんをお願いして地鎭祭を執行し、工事に着手したのである。先ず旧宅の取り壊し作業が始まった。昭和31年から27年間住み馴れた家の一つ一つの部屋が開放され、続いて間仕切りの壁が引き倒されて行く作業を見る時には、思わず目頭が熱くなる感傷がこみ上げてきたことを思い出す。新宅の建築は、棟梁の菊池さん始め山源工務店の皆様の努力によって進められていき、私達も期待を以って見守っていた。  

 その年の10月下旬であったが、突然に私は、足腰が立たなくなり、体の自由を失ってしまった。急遽稲沢市民病院に入院して治療を受けることとなった。一応頚椎症と診断され、約1ヶ月間首の引き伸ばし治療を続けたが効果が見られなかった。比の間、妻定子が介護をしてくれたが、大きな心労と負荷となったであろう。11月の下旬に風気味と不調を訴えたので、早速診察を受けたところ、検査のため即刻入院をとのことで、妻は内科病棟に入院した。私は11月末頃、手術治療の必要を告げられたので、家族協議した結果、思い切って手術を受けることに決定した。当時丁度70才であった。
 妻は検査入院のため時々は、私を見舞って呉れたが、私が一宮市の県立尾張病院で手術を受けることとなった時には、衣類や持物の準備をきちんと整えてくれた。その後姿は大変寂しそうであった事が誠に申し訳なく印象に残っている。結局私は、その年の12月8日に、約6時間の大手術を受け、約2週間の絶対安静の苦行を続けた。昭和58年の年末は、病院のベッドで少しづつ立ったり腰掛けたりして、術後のリハビリテーションに余念が無かった。
 そんな年末のある日、眞寿枝と勝江とに付添われて、妻定子が見舞いに来て呉れた。稲沢病院に入院している妻が年末にかけての外出許可をいただいて来て呉れたのである。病院の一隅の暗い所で見た妻の表情は、普段とは余り変わった様子もなく笑みを浮かべていたので、私もホッと安心したのであるが、これは私に対する精一杯の労りであったのであり、最後の別れとなったのである。後に聞いた所では、妻は新築成った家に一晩泊まって病院に帰って行ったとの事である。私は翌年の1月は専らリハビリに励み頚髄保護の首巻きを装着していたが、徐々に歩行練習を続けた。家族の皆は、専ら母の看護に当たって呉れたようで、私には心配をさせない様に配慮してか、しばらく顔を見せなかった。
 ところが昭和59年2月4日の未明に突然長男が来院し、実は母の様態が悪いのでと告げた。病院の許可を得て自動車で稲沢病院まで連れて来て呉れた。妻はすでに集中治療室に移されており、苦しい息づかいで仰臥していた。私が手を握り側に寄り大声で呼んだが、すでに意識は薄れて反応はなかった。心電計の波形も弱々しく続いていたが、私が到着してから1時間半ぐらいで停止した。時に午後8時06分であった。享年64才の生涯を閉じたのである。遺体を引き取り、その夜は通夜を営んだが枕経をお願いした近所の寺院の都合が悪く、一宮市の寺院にお願いに行くなど、長男始め遺族や親戚が大あらわで葬儀の準備をした。翌日は、また夜来の大雪に見舞われ、寒い日であったことも忘れられない。病人である私は、野辺送りに行けず、子供等に任せて執り行ってもらった。大変申し訳なく思う気持は今日まで続いている。翌々日には再び尾張病院に戻り入院生活を続け昭和59年3月下旬にやっと退院をして新しい家に戻って来たのである。

 第15期(昭和59年〜昭和60年)の年度の初頭において、誠に悲しいことが起こった。清水土地改良工区の代表であった角田 信氏が急逝されたのである。土地改良発足当初から先頭になって努めた大功労者であったが、誠に残念なことである。4月3日御葬儀には参列し、御冥福を祈ったが、換地計画も定まり、換地会議も近々にと予定されて来たことを思うと誠に残念な次第で断腸の念やみ難く感じたのである。この工区の土地改良事業は団体営新幹線関連事業として、昭和37年2月から発足し39年6月には工事終了し、一時利用指定は44年5月になされたのであるが、異議者があり、一時中断の形であった。上記の角田工区長さんも大変苦慮されておられた。昭和53年には仮換地の過不足再調整を指示されて実施し、数度の協議も経て合意を得ることが出来たのは、昭和57年初頭であった。これより土地改良法の新法に據り、換地計画書の作成、座標法に基づく換地杭の検値、面積計算 等を実施した。一方、約400筆に及ぶ、相続代位登記や、一部宅地部を除外した関係で必要となった分筆代位登記などを済ませたのが、昭和59年末であった。
 当社の体制も、取締役であった妻定子が死亡したので、長男を取締役とし、次男は測量部担当とし、長男は設計部の拡大を図ることとした。私は、退院した後の体力の回復と併せて脚力の訓練に勉めて、この年は業務から遠のいて過ぎて行ったのが状況であった。
 続く第16期及び第17期(昭和60年4月〜61年3月)は、設計部門の拡大に長男が勉めた(構建技術コンサル、大日コンサルタントとの連携)が、測量部門が農道舗装業務の低調に加え、暫く休眠状態であった明治土地改良区第23工区(片原一色西町地区)の換地処分業務を早急に片づけることとなったので、勢力をこれに集中せざるを得ぬこととなった。従って経常損益も大幅に悪化したのは止むを得ぬことであった。
 第18期(昭和62年4月〜63年3月)。前記したように昭和61年11月27日に片原一色西町の換地総会が稲沢市一色下方町の下方公民館で開催されたのに続いて、昭和62年3月31日には、稲沢市清水町清水公民館において、明治地区第3工区(清水工区)の換地総会が開催された。当社の受けた土地改良換地処分業務は、それぞれ次のように登記を完了したのである。
稲沢市一色西町地区 昭和62年7月21日
稲沢市清水町地区 昭和63年7月6日
 第19期(昭和63年4月〜平成元年3月)の前半に至って、創業以来18年間に亘って背負ってきた土地改良事業推進の責任の一端を果たす事が出来たこととなった。この間幾多の難関にも向き合い、また多くの組合員の方々の御協力にも預って助けられたことを心から感謝するのである。今後は長男の担当する設計部門の発展のために専心してゆくこととなる。この部門では大日コンサルタント(株)や太栄コンサルタント(株)からの受注を主として年間2,000万円の業務を目標として進みたいと念願していた。
 第20期(平成元年4月〜2年3月)。稲沢市土地改良区の農道舗装測量及舗装設計の業務が7件と稲沢市の用地調査業務を併せて測量部が忙しかった。設計部門での上記目標に少しずつ進み始めた。(年間1,250万円)
 第21期(平成2年4月〜3年3月)。稲沢市の路線測量1件、用地調査2件、及び農道舗装測量2件があり前年度と同じ状況であったが、大橋土地家屋測量の業務(現場は三重県)に応援に出向し、大変に忙しかった事を思い出す。設計部門の方は大日コンサルタント(株)から大量の業務委託をいただき、前年度より業績を向上する事が出来た。(年間1,300万円)
 第22期(平成2年4月〜4年3月)。この年稲沢市長は加藤勝見氏に変わった。また稲沢市から橋梁設計業務委託が2件あり、当社で受注した。これに加えるに大日、太栄両コンサルタント等の受注業務の額は、1,670万円に達し、前記目標金額に接近することとなった。測量部においては水路路線測量1件、用地調査1件及び農道舗装測量設計1件を受注した。これら両部の受託金額が2,300万円に達した。なおこの年度の8月から当社の国府宮駅前事務所を開設した。場所は稲沢市高御堂一丁目16号の水田共立ビルの二階に1室を当てた。将来従業員を雇用する場合、その通勤の便益を考慮したのである。
 第23期(平成4年3月〜5年4月)測量部では、用地調査2件、農道舗装測量設計2件を受注しやや減少した。設計部では、大日コンサルタントは増額されたが、太栄コンサルタントの受注額が減少し、両部門の受注金額が1,900万円となり、前年度より400万円減となった。国府宮駅前事務所の賃借料は1年間の実績によると130万円となり、今年度の経常損益は残念ながら赤字(Δ25万円)となった。
 第24期(平成5年4月〜6年3月)測量部では水路路線測量1件(8月受注完了翌年2月という長期間契約の物)農道舗装測量1件だけであり、設計部では、大日コンサルタントその他を合計して972万円という受注減となり両部合わせて受託金額が1,300万円という結果となった。更に加えて駅前事務所の対向側にあった英語教室が撤退する事に当たり、そのスペースを当社で使用するすることにし、8月以降合併して利用した。結果賃借料は年間200万円となった。このような状況で、この年度は経常損失が過大(Δ745万円)となった。
 第25期(平成6年4月〜平成7年3月)。 前年度の挽回を図るため、全力を揮った。構造計画コンサルタントが名古屋営業所を開設するに際し協力して業務を受託すると共に同社の東海地区での受注業務をも引き受けるという積極策に転じた。静岡県、長野県にも出向する活動を続けた。更に大日コンサルタント(株)、石田技術コンサルタント(株)等の御協力をいただき、大奮闘で1年を過ごし、設計部門だけで前年度の2倍以上(2,650万年)の実績を挙げる事が出来た。
 第26期(平成7年4月〜平成8年3月)。引き続いてこの年度も、構造計画コンサル、石田技術コンサル、名北コンサル、及び大日コンサルとの協力をいただき、相変わらずの大奮闘を続け、前年度並み(2,656万円)の実績を保ち、経営利益も僅かばかりであるが上げる事が出来た。

 以上のように、当社26年間に亘る業績を辿って見たのであるが、委託された業務の完遂と土地改良区の方々の要望に報いるという熱意にのみ捉らわれて夢のように経過した年月を惜しむ感傷を一段と深く感ずるのである。 繰り返えす浮沈の波に耐えて来たことを想起して忸怩たる物がある。想えばば戦前、戦中の夢も敗戦によって破れ、篠岡村にて中学校教員となり戦後教育の担い手として、「新しい憲法の話」と題する教科書を手にして感銘を覚えて以来、通算20年(篠岡中学校5年、稲沢高校15年)の教員生活に培われた根性と社会の桎梏とに阻まれて、大胆奔放な事業経営は望むべくもなかったのは当然の帰結であろう。平成2年11月に、有限会社の最低資本金300万円に増資を行ったという実状であり、経営面での努力不足の謗りは甘んじて受けるものである。