第3章 新生日本での生活の再建

第1節 篠岡村での新しい出発
  昭和21年9月20日名古屋駅に帰着した私たち家族5人は、 これからの生計をどのように立てて行くか、全く手さぐりの状況であった。

 名古屋という都会に住んでゆくのにはまず第1に食糧の問題があった。出迎えて呉れた伯父の 勧めもあって、篠岡という農村に落ち着いて今後の方針をゆっくり考えることに決心をしたのである。 電車とバスを乗りついで、伯父の家に着き伯母とも久し振りの対面をして、お互いの無事を喜び合っ た。しかし、在満12年の間に、祖母(伊藤ぎん)、叔母(伊藤ふじ)の二人はこの世を去り、更に悲 しいことには、伯父伯母の唯一の子供である小島国夫君もまた若くして世を去っていたのである。伯父 伯母はこのような悲しみを抱える中で、多くの系累の子供達の面倒を見ていた様である。現に私たちが 入れて頂いた離れ家には、大阪で戦災を受けて避難された、小島実さん一家が入居しておられた。私た ちは、離れ家の2室を分け合って収容されることとなったのである。まず取り敢えず、私と妻とは、伯 父の農耕作業の手伝いをすることとなった。11月には、稲の刈取りを、つづいて麦の床作りと麦播き という順序であり、農作業に不慣れな定子には可成りの労働であったが、叔母に従って必死に努めて呉 れた。

 昭和22年になって、同じ引揚者である野村朝一君(大連の項に記した)からの連絡により、岐阜 県多治見市字池田の彼の実家に行って久し振りの再会を喜んだ。その際、多治見市長の弟さんである、 青木種臣さん(名高工、土木科の大先輩)の話が出た。 青木先輩は、満州大倉土木(株)において働い ていた人で、多治見工業社を設立して、建設業を始めていた。野村君も多治見市内で仕事をしている とのことであった。私は早速紹介してもらって、濃飛新聞社(市長さんが経営)で青木先輩とお会いした。 その時のお話では、戦後の建設業界では、材料入手がむつかしい、例えば、セメントを確保できれば建 設工事を受注できるとの話であった。そして多治見工業社の名古屋支店を引き受けないかと勧誘された。 野村君も強く勧めるので一応引き受けをして帰った。
 名古屋支社は、東郊通二丁目(鶴舞図書館の向い側)にあった、岡崎箸店の一画を借りて設け られた。それからは、私はこの支社に出勤し、営業活動として、各官庁を廻って歩いた。たまたま、 同級生の永草正男君が愛知県の半田土木出張所の所長を務めていたが、管内の農浜漁港の岸壁補修工事 を予定していると聞いたので、青木先輩に報告した所、早速に自身で半田まで出掛け、セメントの手持 のあることを申し出て、工事委託の指名を獲得した。セメントの入手は、以前から面識のあった、廣島 県の徳山曹達株式会社に飛んで行き契約をして来た。工事着工に間に合わせるように輸送手配をしたの であるが、その当時は木造船が使われていた。3日間を要した航送期間の無事を祈って待ったところ、 幸運にも半田港に到着した。揚陸の際には、可成りの破袋があったが、これは航海の天候不良によるも ので、全くの冒険を乗り切れたことを感謝した。岸壁工事は、昭和22年の夏から秋に行われ、私は 1ヶ月半に亘り旅館暮しをして現場の監督を果した。工事の竣功検査も終り、永草所長さんの絶大なる 御援助を謝して、名古屋に帰任したが、全く幸運に恵まれたことを思い出して、心の中に焼き付いてい る。その年の暮れ近く、貨車1輌に積んだ杉の製材が、中央線高蔵寺駅止めで私宛に送られて来た。 これは多治見工業社からの私に対する労働報酬として、青木先輩の心遣いの賜であった。伯父の助力を 得て、高蔵寺駅から大山まで運んで、集積して、昭和22年が過ぎていった。

  昭和23年に入って、前記の材木を使って私の家を建る計画を始めた。先ず場所の選定であるが、 伯父の口添えによって、県道(小牧〜春日井線)沿いに位置する大山区の公会堂の敷地の一部を借りる 事が出来た。 間取りを考えたが、六畳と四畳半の二室とし、炊事場と風呂(五右衛門ぶろを据えた)及 び便所は東側に掛け出しで作ることにとした。 たしか、1.5間×5間=7.5坪の家であったと覚え ている。名前は忘れたが大山在住の老大工さんに建ててもらった。壁の小舞い組みから壁土塗りまで 時間を掛けて自分でこなした。丁度この家を造っている春の或る日に、篠岡村立篠岡中学校の初代校長 今枝清胤先生の来訪を受けた。新制中学の発足に当り教員の不足に困り、私に教員になってもらえない かと勧誘に来られた。家造りに没頭していた私は、すぐに御返事が出来兼ねたので、暫くの考慮期間を お願いして回答を保留した。その年の暮には、家もやっと出来上ったのであるが、8月3日には長男の 昇が生れた。伯父の家の離れ家の一室で生れたので、伯母の手馴れた世話を受け、私も心強く感じた。
 子供も3人に増し、新しい家も出来たので8月15日にそこへ移転して、初めて狭いながらも、 親子水入らずの生活が始まった。 私も今後の身の振り方を考え、また多治見工業社との繋りもあり、 青木先輩や野村君とも相談した結果、地元のお役に立ってゆく道として中学校長さんの御勧誘に応ずる ことを決心した。丁度夏休み中であったが、中学校へ赴き、今枝校長先生にお目に掛かって私の意思を 申述べたところ、大変に喜ばれて早速手続を進めるから、9月1日から教諭として勤務して欲しいと申 された。

 ここで、新しい家の環境について説明しておきたい。
 東春日井郡篠岡村大字大山(現在は小牧市大字大山)は、尾張白山系の頭部の山やところに開けた 部落であって、大山川の源流に近い渓流を南にして、山峡に開けた水田を囲む部落である。県道 (小牧〜春日井線)はこの山峡の北側山麓を這ってだらだら登り東の峠を越して坂下町(春日井市)に 下り、旧国道19号線に合流して内津峠を越して岐阜県多治見町に至る道路である。
  この県道が大山区内の前山と称する山腹を通過する坂道の途中に、新しい家の敷地は沿ってい た。小高い丘であり、南は下に水田が開けその南際には大山川が流れていた。県道を挟んだ反対側に は、前記前山の斜面が続き南面した日当りの良い位置にあったので、昔から続いた土葬場が点在して いた。敷地の西側に若干の段差を隔てて、大山区公会堂兼作業場が建っていた。
 この公会堂は,区の集会には会場として使用される他に、冬季には当時栽培されていた甘藷 (さとうきび)の搾汁とその清製(さとうしぼりという)作業が1ヶ月位続けられた。その他の期間は、 県道を通る自動車の音の他はなく静かな状況であった。特に夜間は通行が途絶えると静寂に包まれ、 深更には、前山に集う狐の鳴き声や時には狼の遠吠などが聞えることもあった。
 9月1日から私は篠岡中学校の教諭として教員生活を始めた。この時の家族構成を念のため列記 しておこう。私真造(35才)妻定子(29才)母みい(54才)長女勝江(6才)次女静代(4才) 長男昇(1才)の6人である。

 当初は、担任クラスはなく、教科目として数学、理科及び社会の三教科を担当させられた。特に社会科では、新生日本の民主主義を育成するために、真先に手にしたのは「新しい憲法の話」という薄っぺらな教科書であった。古い軍国主義の教育を受けて来た人間にとって、真に目から鱗が落ちるような感激に打たれ、熱心に自分に言い聞かせるような心境で授業に臨んだ。
大山から篠岡中学校までは約4qあり、大山川に沿って池之内まで行き、それから南へ向って昇り坂を、自転車をこぎながら昇った。敷地は山を切り拓いて、木造校舎が2棟並んでいた。運動場は、一段下った平地に広がっていた。松林の緑も近くにあり、きわめて良い環境であった。
  戦後の食糧不足の時代であり、白米は配給制であり、麦も自作して補充できる人はよいが、その外には、さつま芋の代用食を1日1食は欠かせなかった。 私たち引場者には、衣類の配給があったが軍用の毛布とか、軍袴の下着などであった。 私は軍用毛布で、詰襟の服を作って貰い冬服として着たが、カーキ色の服が大変めだって困ったことを覚えている。 長女勝江は、6才になり、大字野口にある分教場(家からは1qの位置)に通うことになって、毎日元気に歩いて通った。妻定子は伯父伯母の手伝いで農作業にも少しづつ馴れてきた。母と静代とで赤児の昇の面倒を見て呉れて、お陰で無難に日を過せる事となった。
  昭和24年4月から私は学級担任になった。篠岡中学校の第5回卆業生となる170名の生徒達であった。担任教諭は4名で1クラス42〜3名であったと思う。まだ制服などは極めて自由な態勢であった。
  「昭和22年4月1日6,3制実施に伴い、篠岡中学校が設立された」まことに簡単な文言であるが、この文中に隠れた苦労は言葉では表現できないものがある。篠岡村長始め、村議会に設けられた中学校建設委員会の各議員の建設計画の確定から始まり、村当局の工事発注手続を経て、2棟12教室の竣功までには1年半を要したのである。(竣功式24年2月11日)その間、第1回生は篠岡小学校の教室を借りて、転々と移動したのである。
 私が担任となった時には、やっと2棟12教室が立派に出来上った頃であった。なおまだ運動場は整地もされていなかったので、予め私が測量し、体育の時間には生徒の協力を得て整地することが続けられた。 このような努力によって運動場が完成したのは昭和26年に入ってからであった。その年の秋の運動会は、初めて仮装行列を取り入れ各組ごとに思い思いの意匠をこらして一大絵巻きを繰り広げ、参観の父兄から拍手喝采をいただいた。なおこの年から修学旅行を2泊3日で東京方面に行くことになったのである。
 引き続いて講堂並びに図書館の建設が議会で議決承認された。図書館は旧青年学校校舎を移築改装することで比較的速く、昭和27年2月17日に完成したが、講堂は公民館兼用と要望する議も出て修正され少し遅れて27年12月17日に完成した。

  私たちの1家も昭和26年の2月13日には、次男 茂が誕生した。その日の早朝急に妻が産気付き、私はあわてて自転車で峠を越えて坂下町の産婆さんの所へ行って往診をお願いした。此の時足袋を穿いて行くのを忘れ足の指がしびれるように痛かったことを思い出す。其の間伯母が駆け付けて、お湯を沸かし出産の準備をして呉れたことは誠に有難かった。生まれた赤児は寒さのためか体が硬直していて産声を上げなかったが、産婆さんの指示で湯浴みをさせたら、急に大きな声で泣き出したというエピソードもあった。その後は順調に育つて呉れて安心した。
 昭和27年3月15日には、3年間担任をした第5回生の卒業式があり、始めて送り出す生徒との別れを惜しみ感傷的な思いがこみ上げて来て涙をかくすことが出来なかった。 新卒ですぐ担任になった玉井 諄先生の鳴咽に引き込まれて涙を拭うこともあった。私として篠岡中学校在任中、クラス担任として送り出したのはこの第5回生だけであったので特に印象の深いものであった。
  昭和27年に完成した図書館の運営について、図書館主任として当ることとなった。愛知県で実施する図書館教育研究会にも極力出席して、図書館司書の取得をしたが、更に村当局のご理解もあって、村費負担の司書補を配当していただいた。この人は第2回卒業生の伊藤紀子さんで、非常に優秀な女性であり、図書の購入や収贈、分類、配架から製本修理に至るまで完璧に処理してくれた。図書館教育としては、日本十進分類法の理解と整理及び配架の実技とを生徒に習得させる事により将来の図書館利用法を身に付けることに努めた。そのために各組の図書当番制を配当実施した。また実技としての製本作業の講習会をしばしば開催して、図書の愛護精神を身に付ける事にも努めた。このようにして2ヶ年を過ぎた頃、図書館教育研究指定を受け昭和29年1月 研究発表会を開催し、日頃の成果を報告する事ができた。

 さて、このように篠岡中学校で教員生活を送って5年間が過ぎた時に私にも一つの転機がやってきた。昭和28年の秋に愛知県高校教員資格試験を受験したのであるが、面接試験の際の試験委員に愛知県立稲沢高校校長の新谷 栄先生がおられた。面接の諮問事項として私が工業教員養成所出身である事をご承知の上で「農業土木科を担任する意思はないか」と申された。私は「工業土木を専攻したので自信はありません」とお応えしたが、校長先生は「いや工業土木と技術的内容は代わりない、特に測量技術をしっかり教えたい」と申された。実は、昭和29年4月から県立稲沢高校に農業土木科が新設される予定になっていたのであった。このような偶然の巡り合わせで合格となり、稲沢高校に転するという奇縁が結ばれたのである。また昭和28年度に受験した測量士の国家試験にも合格して、昭和29年1月11日付で登録を済ませた事も誠に幸運な天の配剤と感謝している。 この事は、篠岡中学校校長の西村大進先生にも実情を申し上げてご理解をいただき、多年に亘る御恩を謝したのである。図書館研究発表会が篠岡中学校に対する最后のはなむけ餞となったのである。