第5章 80年の人生を振り返って。

 私は、幼少時に母、父とも死別したのであるが、頑健な体に生んでくれたことに感謝している。私の口中の歯は、多少の補修は受けているが皆自分の歯である。生母は歯を抜いた際の処置を誤って死亡したことは一寸ふれておいたが、歯質は良かったと思われる。
 養母は病気勝ちであったが86歳まで生存した。養父は大のヘビースモーカーで残念ながら40歳で早死にしたが、常に私の健康には留意して生活して呉れていた。 大正15年4月22日の養父の病沒以後の養母の苦闘の日々については折りにふれたが、私の中学校5年間に引き続き高等工業学校の3年間を併せて8年間は誠に多大の苦労を背負わせたことを思い、その育ての恩を強く日々感謝しているのである。今は幽明境を異にする御霊に深く頭を垂れるのである。


私の人生を支えて呉れた信条と理念について。

(1)昭和9年4月に満鉄社員となり、鉄道建設の業務に従事して11年間を経た時点で、日本の敗戦という未曽有の大事件に直面して思ったことは、自らの知識や技術を傾けて作った鉄道に対する限りない愛着であった。関東軍の命令として出された鉄道施設の破壊を以ってする抗戦行為には、何としても同調する事はできなかった。このことは、満鉄社員たる者の等しく抱く感壊であり、終戦の詔勅後2日の時点で関東軍司令営と面接した満鉄総裁山崎元幹氏は「満鉄の全機能を挙げて終戦処理に邁進する立場と重大な責任を負う事となったのである」と全社員に布告され、全社員もこれに応じ、それぞれ不安に包まれた現場に残って鉄道の運営に従事したのである。第1章10節に既述したように私たち哈尓浜建設事務所員がそれぞれ哈尓浜に在住していた家族の元に帰着する事ができたのは、山崎総裁の決意に基づくソ連軍との次のような双務的約束の下に達成できたのである。
1、 満鉄は元の体制のままでソ連軍に協力する
2、 ソ連側は満鉄社員とその家族の生命財産を補償する
3、 ソ連側は従業員に給与する。(この項目は現実には実行されたとは思えなかった様である)
更に当時満州の辺境の地から引揚げてくる在留日本人の輸送についても、満鉄社員が夫れぞれの施設、機関に残ってその輸送に当たった事は特筆すべきことである。
 終戦の翌年、昭和21年5月7日日本人の引揚げ第1船が壷蘆島を出航してから1年半に至って、昭和22年10月1日に山崎総裁始め留用解除者は山澄丸にて壷蘆島を出航し10月8日佐世保に帰着したのである。 このように終戦処理の一端を荷って、それぞれの責任を果して来た満鉄社員としては、鉄道マンとしての信条と愛着とがなかなか捨て切れないものがある。私も戦後40年余を経た平成元年中国東北部(旧満州)の地を訪れたのであるが、かつての鉄道路線の上を走る列車の姿を見ると我が児に接するような愛情を感じたものである。

(2) 昭和21年9月25日に満州から引揚げて、愛知県東春日井郡篠岡村大山(養母近藤みいの故郷)に住むようになった。当時の食糧難の中において選択した落ち着き先であった。伯父小島範次や伯母小島つるの温かい援助によって農業の手伝いから始まったのである。長女、次女を抱え、妻定子も馴れぬ田畑の仕事に励み、手の赤切れに耐えて働いたことが思い出される。
 戦後の復興の息吹の中で長男が生まれ、狭いながらも私たち家族の住む家が出来上がった昭和23年の9月から私は篠岡中学校の教諭として勤め始めたのである。尓来20年余に亘って、新しい日本を背負ってゆく若い世代の青年を教え育ててゆく仕事に専心することとなった。篠岡中学校で最初に手にした教科書に「新しい憲法の話」というのがあった。自分達が叩き込まれた帝国憲法とは、全く異なった主権在民の憲法に新しい熱意を感じて農村の子弟を教えることに熱中したその頃の情熱は誠に楽しい思い出である。
 この中学校の5年間の教育においては、若き人等と共に新生日本を築き上げて行く心意気で共に辛苦を味わってゆく気構えが溢れていた。その頃送り出した卒業生も教育の道に進んだ者が多く、近く定年を迎える人々がある。この初心に貫らぬかれた私の教育信念は、後に稲沢高等学校に移り農業土木の技術教育においても変らず続いて来たと信じている。教え諭すと共に、実践 に基づく技術の体得を主眼とする実習教育の重視は、その裏面に若者と共に励むという欲求があった。 学校におけるクラブ活動についても深く係わり、教職退職後もソフトテニス協会に関与し続けたことは、このためでした。

(3)昭和45年2月13日に(有)東海工務設計事務所を設立して、測量調査、土木設計の業務受託を業として始めたことは、前述したが、主として市内の土地改良区の確定測量や換地処分の業務を受託し、現在までに4地区の業務を完了した。私のモットーとすることは、地元の中に溶け込んで親身に相談に当たることを心掛けてきた。地区によっては20年間も要したところもあったが、人間的な深まりの中で過ごせたことが最もうれしいことであった。土木設計の業務は、長男が受け継いで呉れて今日に至っているが、組織の拡張と言う点では全く力が及ばず今日まで過ぎてしまったことは反省している次第である。 事業資金の運用についてその衝に当たった妻定子にとっては、苦労の連続と云うべきものであった。常に感謝の気持を忘れなかったが、苦労の中で逝かせたことを振り返って無念の気持ちで一杯である。




2000年8月1日    真造