第1章 わが生い立ちの記

第1節 実父母との死別と兄との別れ
 私は、1913年(大正2年)8月1日に東京府豊多摩郡戸塚村大字 下戸塚五六八番地の祖父小坂儀三郎の屋敷で生まれた。幼少の淡い記 憶によれば、早稲田大学の理工学部の校舎を見下ろす、崖の上の道に 立ち並んだ屋敷であった。実父は、上記儀三郎の4男、小坂誠三であ り、実母はその妻小坂喜久である。この夫婦は、明治43年11月2日、 父26才、母20才にて結婚し、翌44年11月26日には、長男小坂誠次を 儲う けたのであるが、不運にも生れた時から右眼失明という重荷を負って いたのである。祖父祖母はこのことを大変に気遣い、幼い兄弟を手許 に置いて養育してくれたのである。父と母は近傍にて、早稲田大学の 学生を対象とした下宿を経営していたので、上のことは誠に有難い ことと思って感謝していたのである。しかるに、母喜久が、歯の治療 の不手際が原因となり、大正4年4月9日に急逝するという悲運に襲われた のである。父は学生下宿の経営に、伴侶を失い困窮した後に、同年12 月頃に後添いを娶り、営業を続けたのである。しかし、天はこの家族に 試練の手をゆるめず、大正6年2月27日 、父小坂誠三は流行性腸 チブスに感染し、収容された小林病院(東京市牛込区早稲田南町36番地)に おいて、手当の効なく死亡したのである。6才と4才の幼い兄弟は孤 児 となったのである。

  たまたま、上記の学生下宿に、かつて止宿して いた、近藤三之助(母、喜久の兄に当る)と同妻みいとが、次男であ る私を養子として迎えることを申し出て、小坂家の親族会議 の同意を得て、大正8年5月17日養子縁組が成立した。この時私は5才10 ヶ月であり、事の経緯を充分に理解できることは無理であった。すで に比の頃には、養父母は中華民国山東省の済南市に在住し、建築業を 営んでいた。この養父母の許へ赴くため、私は養家の祖父近藤勘七に 伴われて、名古屋市中区葉場町51番地の祖父の家に一泊した。翌朝 出された八丁味噌の濃いみそ汁のしぶさに驚き、故郷を離れて来た悲 しみを感じたことは、今だに強く覚えている。翌日、祖父に連れられ て名古屋駅から汽車に乗り、神戸三の宮駅に至り、三宮埠頭から青島 航路「山東丸」に乗船して、養父母の待つ中華民国に旅立ったのであ る。この時以来、兄小坂誠次とは生き別れ、その消息を知ることは出 来なかった。

第2節 父母との出会いと済南市の生活
  第一次大戦のあと(1914〜1922)日本の統治下におかれた、膠州湾の青 島港に上陸したら養父母が揃って迎えに来て呉れていた。ここで始めて 、養父母との対面をしたのであるが船酔いに疲れた私には余り元気では なかった。これより祖父も同行して膠済鉄道(ドイツが敷設した、青島 〜済南間の鉄道)の列車に揺られて、済南駅に着いたのは、東京を出立 してから一週間目であった。済南市太馬路にある養父母の家は、土壁造 りの支那家屋を一部改造して、事務所、応接室、居間及び寝室等を配置 した家であった。養父は、旧早稲田工手学校建築科で勉強した建築士で 、青島に本店のある渡辺組(社長は渡辺頼章氏)の済南支店長である。 養母は会社の経理を担当していたようである。毎月末の頃になると、工 人(ク−リ−)の賃金を支払う時は、紙幣でなく、銅貨に両替しておい て、流暢な中国語で一人毎に手交していた。家事手伝いのボーイが2 人いて、年下の1人は私の遊び相手をつとめてくれた。支店の日本人社員 は、子供の目からは判然としないが、三人ぐらいの人が現場へ出て行 ったり、帰って来たりしていたと記憶している。養母はいつも口癖のよ うに「喜久さんからお前のことはよろしくと頼まれたからね」と言 っていました。

 済南市は、内城と外城という城壁で 囲まれた旧市街と天津〜浦口(津浦)鉄道の済南駅の前面に発展した 新市街とから成り立ち、私の家は駅前通りにあった。内城には、大明湖公園 があり、附近に存在する湧泉の水を集め初夏の頃の蓮の花盛りがすばらしい。 又外城には公園があり、池の中に3つの泉孔があり、30cm程の高さに噴出す ることで有名である。私も父母に連れられて行った記憶が残っている。

 新市街も日本人の経済活動の発展と共に拡張され 、幼稚園から 小学校も建てられ、済南病院も建築されていた。養母も 病弱であった上に私も腸炎でよくこの病院にお世話になったことを思 い出す。済南市内から北5kmほどの所を流れる黄河は中国では長江 (場子江)に次ぐ大河であるが、この頃は毎年1回は氾濫して家屋に浸水 するので、周囲に土のうを積んで防がねばならなかった。また春の始まり頃 には、黄河の河原の砂の微粒子が風に吹き上げられて太陽光を遮ぎ り白い日輪を見る「黄砂現象」に悩まされることがあった。したがって 、各戸の窓には常に目張りをしておかねばならなっかた。このような済 南市での生活は、私の小学校2年生まで続いた。  

第3節 青島への移転と中国からの撤退
 第1次世界大戦に参加した日本は1914年11月、嘗つてのドイツの租借地青 島を占領し、続いて青島〜済南間の膠済鉄道を確保した。更に翌年には 、対華21箇条要求を中華人民国政府に送り、その中で山東半島の権益 の引渡しを要求したのである。これを山東条約というが、これに対して 中国の学生や青年の間に激しい徘日運動がおこり、 年5月4日3千余 人の一団が示威運動を起し山東条約の調印をした大官連に危害を加え、 全国の学生に救国の呼びかけをした。この運動を5.4運動といい、全国 的な排日運動が起こった。1920年1月ベルサイユ講和条約が発効、シベリヤ方面 に派遣されていた日本軍も幾多の事件(泥港事件、ハイラル事件等)を 経て、10月全面撤退した。山東半島も同年2月中国外交当局に山東 撤退を通告し、12月17日までに青島守備軍が撤退することとなった。
 この事態に先立ち、同年3月私達一家は、済南の家を出て青島の本店に 移り、私は小学校第3学年は青島第1学校に転入して、秋の運動会まで 過ごした後、同年10月20日青島港出港帆の西京丸に乗船して、養父 母共々神戸港まで帰ってきた。
 青島での短い生活ではあったが、波穏やかな膠州湾にのぞみ、赤い屋根 のドイツ風の住宅が緑の丘陵に建ち並ぶ風景は、子供の目にも美しく焼き 付いている。ここでは、生まれて始めて海水浴に連れていってもらい、波 にこわがって笑い話になったことを覚えている。また青島第1小学校は、 高台の丘の上に立つ鉄筋コンクリートの立派な校舎が、海や緑の丘を見下 ろせる位置にあって、大変楽しく学校生活が出来たことも懐かしく覚えて いる。  

第4節 日本国内生活の始まりと関東大震災との出会い。
 1922年(大正11年)11月23日、神戸三宮埠頭に上陸すると、 養父母(以下単に父母という)共々東海道本線の汽車に乗って名古屋駅ま で行き、其の夜は、祖父(近藤勘七)の家で泊まった。翌日私は母に 連れられて、母の故郷である東春日井郡篠岡村大字大山(当時)に向った。
 中央線の高蔵寺駅に降り、これからバスに揺られて、坂下町まで行き、約 4粁の山越え街道を歩いて到着した。ここには母の母親(私にとっては祖 母である)伊藤ぎんが健在であったし、母の姉である小島つるや妹である 伊藤ふじ(養子小島貢と結婚して家の後を継いでいた)等がいた。母や私 を温かく迎えて呉れた。この大山という土地は、私にとっては因縁浅から ぬ処であり、後述するように、私が終戦後再び日本に帰って来た時にもま た辿り付いて、数年を過させてもらったなつかしい故郷と云うべき土地で ある。祖母や叔母は私を大変可愛がり、また伯母には私と同年代の子がい た関係から、小学校3年生の3学期を残して中国から帰ってきた私を一時期 預かってやるという話しが持ちあがり、母もこの厚意に甘えることに同意 したのである。大山と隣りの野口という部落と合同して、篠岡小学校の 分教場が設置されていたので、私はこの分教場に通うことに手続きをすま せて、母は名古屋の父のところへ戻っていったのは数日後のことであった 。
 これは、大正12年の初春の頃であった。祖母や叔父、叔母は大変よく面倒を見て 呉れたので両親のもとを離れている淋しさは余り感じなかったが、 分教場での子供同志の付き合いにおいて、私が一番苦しんだのは、中国帰 りの私のことを「チャンチャン坊主」といって、いじめられることであっ た。伯母の独り息子であった国夫君もまた他の子供と同調していじめの仲 間に入っていたことは、子供の心理としてはやむを得ないことだが、独り ぼっちの悲しさをがまんしたことを思い出す。

 春がやってきた四月初旬に、名古屋 から母が迎えに来た。新しい家が建つたとのことであった。新しい家は、 名古屋市の東郊廣路町字小坂という所に在って、飯田街道 (名古屋から信州飯田市に至る県道)から分岐(昭和区車田町の東端から) する旧石仏街道沿いの西側畑地(当時は御器所大根の栽培地の中にあった) である。石仏街道から既存の住宅(大きな屋敷であった)を隔て、西側に 続く、約300坪ぐらいの敷地の中に、北の奥に木造平屋建の主屋1棟と 南に離れて養鶏用の小屋が1棟建てられていた。街道からの出入りは、狭 い農道であり敷地前に少し行くともう田が広がっていた。南側畑1枚ほど 隔てた所には、森さんという牧場(乳牛の飼育場)があり、街道を挟んで すぐ近くには、丹羽さんという牧場があってよく牛乳を買いに行ったり又 牛にさわったりして遊んだことを思い出す。
 私は、廣路尋常小学校の4年生に編入されて、毎日小坂集団通学班に 参加して、川名の川原神社(川名 の弁天様という)の前の道を通って、山崎川沿いにある小学校 まで、約1粁の道を通った。この廣路の小坂の家で印象に残っているのは、 9月1日の関東大震災の時の地震の揺れを始めて体験したことである。 学期の始業式を終えて帰宅して、座敷の中で寝ころんでいた。突然ゆう ゆうと体が揺れ、天井の電灯が大きく揺れていた。「お母さん電灯が揺れ ているよ」と大声で言った時は母は、「地震だ早く外へ出なさい」と金切 り声で絶叫した。私は跳ね起きて外に出たがいつまでも息が弾んでおさま らなかった。これが中国で育った私にとって、地震の初体験であり、しば らくは地震恐怖症が続いた。関東地域の被災の状況が続々と報道されるの で、父は小坂家の安否を確かめるため、国鉄中央線回りで東京に赴き、非常 食品を運んで行った。幸いなことに、山の手にあった小坂の家は、比較的 に被害は少なかったとの確認ができて3日後に帰って来た。

 母は、この家で養鶏を始めた。孵卵したばかりの雛をダンボールの箱に入れて、 暖かい南側の廊下において保温管理をしながら育てていた。成長した若鶏には、飼 料と共によく蛙の肉を与えて(この蛙をつかまえて来るのが私の仕事であっ た)育て、成鶏30羽ぐらいになった。しかし体の病弱な母としては、これ以 上に拡張して行く事は望めなかった。ところが、今度は、兵役時代に騎兵科 に属していた父が、乗馬を1頭飼うこととなった。
 今まで鶏小屋であった建物は馬小屋に変わった。馬の手入れと教調は父の 仕事となり、毎日の日課として乗馬していた。私も一度乗せてもらい、住宅前の農道を騎乗していたら 、馬が側溝に足を落し、突然走り出したのでびっくり馬の首にしがみついて いたら、馬は自分の馬小屋まで走って帰り、何もなかった様な表情をして止 まった。しかし、この事があってからは、私は馬に余り近寄らなくなった。 この時期は、母や父にとっては、中国で働いた緊張から開放された、一番寛 げたよい時期ではないかと思われる。  

第5節 父の勤務に伴う転居と、父との悲しい別れ
 大正13年の初頭から父は名古屋市で盛大に活躍していた「廣瀬商会」と いう建築設計事務所に勤務することになった。廣路の小坂の家からの通勤は 大変不便となったので、これを他人に賃貸して、千種町池ノ内の借家に転居 した。
 この家は廣い道を挟んで国鉄の名古屋教習所の正門の前に面していた。 この広い道を少し西に行くと国鉄中央線の踏切りを通って、北裏、赤萩、車 道などの名古屋市電車に連絡できた。母はこの家で文房具店を開店した。教 習所の生徒さんを対象とした商売であった。私はすぐ北側の池内尋常 小学校の5年に編入され、5年生の大半はこの家で過した。しかし病弱な母 は時々寝込んで私が店番をしたりして細々と続ける状況であった。
  翌1925年の春 には、この家を出て千種町元古井の小じんまりした借家に転移した。この家 の西に道を挟んだ「芳珠寺」というお寺は、元古井の高台の西端にあり、す ぐ西は千種駅を見下ろせる位置にありました。汽車の汽笛や構内の入換作業 の騒音が風に乗って聞えてきたことを思い出す。子供たちのよい遊び場を提 供してくれた場所である。このお寺の山門前の道のだらだら坂を下りてゆく と飯田街道に出るが、その手前には、古くから続いていた「武田座」という 芝居小屋があった。母に連れられて、芝居見物や映画を見に行ったことはな つかしい思い出でである。元古井町の北の端には「高牟神社」という古い社 があり境内には古い井戸があり、これが古井村の起源だとも伝えられている。 この神社の裏側(北側)には、明治45年頃に名古屋電気鉄道が敷設した、 西裏〜月見坂線(俗に覚王山線と呼ぶ)があり、これで西裏から名古屋市街 地への電車連絡ができたものである。この元古井の家は、手狭であったので、 同じ家主の持家である千種町出口にある家に転移した。
 この家で小学校6年生 となり、千種尋常小学校に通学した。学校は、八事電車(尾張電気軌道株式 会社が明治45年に建設し、千早から八事興正寺前までの電車線で、大久手 から今池までの支線も含めたもの)の大久手停留所の西南角にあって、出口 の家からは近かった。クラス担任の先生は松本栄先生と云い、長野県の出身 の若い先生で大変親み易い方であった。元古井のミルクホールの二階に下宿 して居られた。クラス仲間で時々お伺いして、長野県の山の話を伺ったり、 また定光寺の玉の川にピクニックに連れて行ってもらったことも覚えている。 また前記したように、小学校を5回も転々としてきた私が辿り付いたこの6年生 の1年間は、全く充実した勉強が出来た1年間であったと言へるのである。補 修授業も熱心に行っていただけて、夕方遅くまで頑張ったことを思い出すの である。お陰で翌年の(大正15年)の春の中学校への合格率は極めて良好であった。 私達、愛知県立熱田中学校(略称五中という。瑞陵高校)には6名の合格者があり、私も その中の1人に入る事が出来た。


  大正15年という年は、一方においては悲しい事のあっ た年であった。父は前述した廣瀬商会において建築設計事務の運営を経験した上で、 大正14年末で独立して事務所を開設することとなり、名古屋市中区伝馬町と堀川と が交わる所に架かる伝馬橋(納屋橋の一つ北に架かる橋)の東南の袂に建っていた、 伝馬町ビルの2階の1室を賃借した。父と共同で業務をする人は、 廣瀬商会で一しょに勤務していた、桑原一志さんという方で、九州の福岡出身の方 だときいていた。事務所の名前は「大健工務店」と覚えている。
 大正15年の初頭から発足した工務店の経営については、父は大変な激務であ ったろうと思える。2月の下旬の或る日、父は雨に濡れた姿で、人力車に乗っ て家に帰って来た。熱も高い様であったので、母は暖かい寝床を敷き、父を寝 かせると早速、かかりつけの河合医師の往診をお願いした。河合医師の往診では、 風邪をこじらせたとのことで、一週間の安静療養をということであった。 3月に入っても微熱がとれず、咳が激しくなったので母も大変心配して、河合 医師と相談の上で、名古屋市中区武平町にあった森田病院に自動車で連れて ゆき診察を受けた。その結果は、肺壊疽との診断にて即日入院ということになった。
  母は大変おどろいた様子で帰って来て、私に手伝わせて入院用荷物を整 え、篠岡村の祖母(伊東ぎん)に援助の要請の電報を打った。私は母に同道し て病院まで荷物を運んで行き、父と会ったが白い大きなマスクを掛けてベット に横たわった姿を見て大変悲しくなった。母は私に留守番をしっかりやって呉 れと細々と注意したが、私は、それまでにもよく事務の手伝いをやっているの で大丈夫と答え、お母さんの健康を案じるといって病院を出て、帰ってきた。 翌々日、祖母と叔母(伊東ふじ)が連れ立って来て呉れた。病院には寄って来 たとのことで、父や母の様子も話して呉れたので一安心した。その日に叔母は 帰って行ったが、祖母は残って、私の面倒を見て呉れたのでホッとした。その 後は、父の付添も母と祖母とが交代して努めて呉れたので、私は小学校の卒業 式には母が出席して呉れたし、中学校の試験は、友人たちと一緒に受けに行っ たし、その発表も皆と一緒に見に行った。五中の入学式には、母の都合も悪く 出席出来なかった。その頃から父の症状が悪くなってきた。しかし父は自分の 病気が、肺結核と同様に感染のおそれがあると思い、子に伝染させることを極 度におそれていたので、絶対に病院に来させてはならぬと強く母に申し渡して いたのである。このような悲しい親心を知ったのは、ずっと後に母から聞かさ れた時であり、思わず涙がこぼれたことを今でも思い出す。

  大正15年4月22日、中学校1年の第2時限の途中で、担任の平岩先生に呼び出され「お父さ んの様態が良くないのですぐ家に帰りなさい」と告げられた。私は早速用具を 鞄につめて校門を出たがいつもの通り郡道をとぼとぼと4q歩いて家に帰って来た。 その時にはもう父は森田病院で事切れた後であったのである。電車に乗 って森田病院に駆け付ける気転は、子供心には働かなかったと思うと誠に悔し い極みである。父の葬儀には、母が喪主となってつとめてくれたが、多くの弔 問客の帰った後は、母も寝込んでしまった。私は、付添って呉れ た祖母と二人で後片付けに追われた。  

第6節 父なき後の母と子の苦闘の生活。
 前に書いた廣路町字小坂の土地と建物は、父が残してくれた唯一の 財産であるが、これは他人に貸してあったので、これを処分するには 大変面倒であった。千種区古井坂上のところに、油商を営んでいた村 瀬鉄次郎さん(屋号は喜久鉄と称した)は、父の母方の叔父にあたる 人であり、大変誠実で且つ厳格な人であった。この人が、この遺産の 処理に尽力して呉れた。そして遺産を管理し、毎月一定額を母に渡 すこととなった。子供であった私としては、まだ具体的な全額は承知 していなかったが、或る時母の代理で受け取りに行った時には、月額 30円であったと記憶している。このようにして、母と私の貧しい生 活が始まった。

 出口の家は家賃も嵩むので、小学校の南側で、字中道に建った 2部屋だけの小さな借家に移った。ここから毎日郡道を4q 歩いて中学校へ通った。近くに平塚君という2年先輩の人が居てよ く一しょに通学したことを覚えている。母はいつも糸くずから糸を紡 いで、生地屋さんに渡す内職をしていた。記憶によると大正14年4 月から中学校には、現役の配属将校が配当され軍事教練が義務科目と なっていた。この時間には、ゲートルを足に巻き校庭を走り回わり戦 技訓練を受けて大変疲れた後に、また4qの道を歩いて帰るので、家 に着くとぐったりしていた。歩く距離が長いため、私の履く靴の底が 良く減り、修理に金がかかるのが、母にとって悩みの種であった。
 こ のようにして私の中学校生活が始まったのであるが、この頃の社会情 勢は、第一次大戦後の好景気が終って、その反動として景気後退に追 い込まれた時期であった。昭和2年には神戸の鈴木商店の倒産、東京渡辺 銀行の取付け騒ぎ等の経済不安が続き、更に10月にはニューヨーク証券 取引所で株価が大暴落(暗黒の木曜日といわれる)して世界恐慌が始ま ったのである。
  企業では給料の一割減をするとか、学卒者の就職難(大 学は出たけれどと言う標語が流行した)など不安な世相であった。この ような時に国民の目を他にそらすために、田中義一内閣が行ったのが第 一次山東出兵であった。中国の蒋介石が率いる国民革命軍が張作霖の北 方軍閥軍を追撃して山東半島に迫ったとき、昭和2年5月山東省、特に済南の 在留邦人の保護の目的で旅順から2000名の陸軍を派遣し、更に7月内 地から2000名の増援軍を送った。蒋介石は日本軍の撤兵を要求、山 東の日本人の生命財産の保証を約束したので、日本軍は同9月に撤兵し た。翌年4月北伐革命が再開されると、田中内閣は、第二次山東出兵を決定 し、熊本師団ほか約5000名を派遣し、青島及び膠済鉄道沿線を占領 し済南にはいった。国民革命軍は5月1日済南に入城し、5月3日境界 線を通過した国民軍兵士の射殺がきっかけとなり、日本軍は総攻撃を行 って国民軍を撃退した。この際日本人の死者が生じて、これが済南事件 として日本の国内輿論を硬化させた。日本政府は、第三次出兵を決定し、 5月18日の派兵となった。この結果は中国の排日運動を激化させる 結果となり、また国内でも野党の反対論も高まったので、山東派兵軍 は撤兵した。この第三師団の派兵の時には、熱田中学校の配属将校であ った久世少佐がこれに加わっており、私たち3年生は名古屋港の埠頭ま で見送りにいったことを思い出す。
 なお、この済南事件に関連して触れておかねばならぬことは、張作霖 の爆死事件である。昭和3年6月には蒋介石の北伐軍の先鋒隊が北京に入城し 、敗れた張作霖は本隊の奉天(現在の瀋陽)に帰る途中、奉山線(山海 関から奉天に至る鉄道)と満鉄線との交又する鉄道陸橋の上で、突然爆 発が起り、乗っていた列車ごと吹き飛ばされて死亡したのである。この 事件は、その後の調査により、関東軍参謀の河本大作大佐の計画による ものと判明し、田中義一首相は、厳重処分をすることを天皇に上奏した にも拘らず、軍部の圧力に押されて、単に河本大佐を停職処分にしたのみ であった。後にこの矛盾を天皇から叱責されたので、田中内閣は総辞職し、 首相は急死したということである。この事件により中国国内の反 日感情は高まり、張作霖の後を継いだ張学良は、中国国民政府と妥協す るようになり、中華民国の晴天白日旗を全満地域に掲げるようになった。 田中内閣に替った、浜口内閣は対中国外交を刷新し、満鉄並行線の競合 防止を重点とし、より柔軟な解決策を求めることとした。また前年度か ら始まった世界恐慌による深刻な景気後退に取り組む経済政策として、 昭和5年1月には金解禁を実施した。しかし11月4日浜口首相は、東 京駅で右翼団体員の佐郷屋留雄に狙撃されて重傷を負った。代わって若槻 内閣となったが、対中国に対する柔軟外交(幣原外相による)に対し、 軍部やこれに同調する右翼団体の反対が台頭しつつあった。
 この頃と思うのが、軍国少年として育てられてきた私の胸の中に、幼かった 頃の済南や青島のことを思いつつ、中国へいきたいという夢が育ったのであろう。 或る日母に打ち明けたことがある。それは「中国の上海市の「東亜 同文書院」という学校を受験したいと話したのである。しかし母は、「 その希望はよく判るが、今の資力ではとてもできないし、独りだけて手 離すことは心配である」と誠に寂しそうに答える母の目にはキラリと光 る涙を目にした。それ以来このことは、すっきりと諦めて口に出さなか った。旧制の中学校では、4年生で旧制高等学校(名古屋には、第八 高等学校があった)を受験することが認められていた。これを目指す受験 生は、その頃すでにあった予備校(塾と称し鶴舞公園の近くに、中野塾 があった)に通って猛勉強していた。私はこれらの同級生たちと“郡道” を連れ立って帰る道中でいろいろ話しを聞き大変だなあと感銘しながら、 途中から別れて家に帰ったことを思い出す。昭和5年になって早々に、 中道の家から元古井の本町通りの借家へ移転した。母の薄い親戚筋に当 る人が、永年勤めた名古屋の菓子舗“餅勘”の支店を元古井本通りに開店 したので、その近くに移ったのである。私は時々、賃餅の配達を手伝っ たり、店番を応援した。昭和6年に入ると、私も急に忙しくなった。中 学5年生を修了して、進路を定めねばならない岐路に当たり、父亡き後 の5年間を暖かく見守って来て呉れた母の苦労を思う時、更に進学をと は言い出せなかった私に、「もう3年間がんばりなさい。亡くなったお 父さんも苦学して技術を身につけたのだよ、遠い所へ遊学させることは 出来ないが、家から通って勉強できるなら、何とか私もがんばるから」 といって、寧ろ弱気の私を激励してくれた。そこで、私が選んだ受験校 は次の二つとした。第1志望は、名古屋高工附設工業教員養成所土木科を 、第2志望は愛知第一師範学校である。いずれも教員志望であって、当 時は授業料免除の特典があった。
  短期間であったが、この目標に向って 、必死の受験勉強を続けた。3月に入って、名古屋高工の受験場を下見分 に行った。私の受験番号は6番であったが受験座席の番号は96番ま で準備されていたので、一寸不安を感じながら帰って来たことが忘れら れない。第一師範の受験の時には、体力テストとして、運動場のトラッ クを3週走らされた。この受験の翌日から風邪にかかり、熱を出して3 日許り寝込んでしまった。そのような訳で、名古屋高工の発表は、私自 身で見に行けなかった。母が、同町内の私の友人(彼は別の科を受験し ていた)に頼んで呉れていた。発表の日午後1時頃、勢い良く玄関の引 戸をあけて、「近藤君、合格してたよ!」と大声で告げて呉れた。私は 飛び起きて、友人の手を握り「有難う、君は?」ときいたら「僕も合格 したよ!」と答えたので全く安心して、再度「有難う、有難う」と言っ て喜びあがった。遠い遠い昔のなつかしい思い出の1コマである。数日 後に第一師範の方からの合格の通知を頂いたが、これは丁重に辞退の回 答を送っておいた。この私の受験から合格までの出来事を一番熱心に応 援し且つ心配して見守って呉れたのは母であることは当然である。予定 通りに事が運んだのでホット気が緩んだのか母は3日間許り寝込んでし まった。河合先生の往診をお願いして、治療に当った結果やっと元気を 取り戻して起きられる様になったが、私1人で困っていた時、親切に手助け をしていただいたのは、隣家の加藤斧吉さんとその奥さんの“きえ” さんであった。この御夫妻とはその後親戚以上の好諠をいただいたことを 付記しておくものである。  

第7節 名古屋高工における3年間の思い出。
  4月から始まった名古屋高工土木科1年の始まりは、技術者の卵として の希望に胸を膨らませた楽しい時期であった。

 舞公園の北側の坂道を昇り 詰めた所に学校の正門があり、門を抜けると左側に土木科棟があり、正面 には新築の電気科棟がまた右側には建築科棟と機械科棟及び実習工場が連 なっていた。紡織科及び色染科棟は電気科棟の裏の北側に並んでいた。この 前が運動場になっていた。電気科棟だけが鉄筋コンクリート造3階建であ ったが、その他はすべて木造2階建ての校舎であった。1年生のクラスは、 本科生30名(内、1名は西村少尉と呼ぶ陸軍委託生であった)教員養成所生 (教養生と略称した)6名の計36名であった。
 土木科長は北沢忠男先生 (後に徳島高工校長となられた)、教授陣としては、比企野、大崎、川津、 荒井の各先生がおられた。教養科目(数学、物理、外国語[ドイツ語]) については上記以外の諸先生が担当されたが、特に物理の一の瀬正己先生の 講義は熱心に聴講した。1年生の頃の専門科目は測量学とその実習であった が、川津彦一先生が担当され、実習では鶴舞公園の平面図を作成したことを 今でも覚えている。講義はすべてノート筆記であり教科書は余り使わなかっ た。従って時間中はなかなか忙しく、集中して聴講しなければならなかった 。
 最も楽しかったのは、毎年5月中旬には、名高工記念祭が行なわれ、各科 で展示物を作り、名古屋市民の参観者が押しかけ大変賑わった。土木科では 出来なかったが他の機械、紡織、色染各科では、実習製作品の販売もやって いた。これが終わるとまた落ち着いて勉強に打ち込んだ。秋には各科対抗の 体育大会があり、全科上げての応援合戦に1年生は全員動員されて、応援団 長の降る赤い科旗(赤字に白地でC,Eと染め抜いた土木科の旗)の元で大声を 出して応援歌を絶叫したことを思い出す。
 この年9月18日午後10時20分頃、中国遼寧省の奉天駅北東約7.5q の柳条湖で満鉄の線路が爆破された事件が発端となり、関東軍は一斉に軍事 行動を起し、翌日までに、奉天、長春、栄口の各地を占領した。これが満州 事変といわれ、所謂「日中15年戦争」の発端となったのである。日露戦争 の結果日本が獲得した、「満蒙特殊権益」は次に列挙する通りであるが、
        旅順、大連を含む関東州租借権。
        長春以南の満鉄経営権
       (鉄道付属地の行政権及び並行線並びに利益を害する
          支線敷設禁止を含む。)
      安奉鉄道経営権
            鉄道守備兵駐屯権
        (鉄道付属地内、 鉄道1kmにつき15名。)
その後1915年には、日中条約(対華21ケ 条条約)を強要したり、前述した第1次〜第3次の山東出兵、さらに張作 霖の爆殺事件等により中国国内の反日感情が高まり、事変に先立つ7月には、 万宝山事件(朝鮮人と中国人の間に生じた水利権争い)更に8月17日には、 日本軍参謀本部員の中村震太郎大尉の殺害事件が発表されるなど険悪な状況 であった。事件のきっかけは、関東軍幕僚の板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐 が独立守備隊に命じて実行させたものだとされている。現地の関東軍は積極的に 戦果を拡大し、錦州を爆撃し(10月8日)チチハル を占領し(11月19日)更にには錦州を占領して熱河省に進入した。2月 5日にはハルピンを占領し、中国北東部の四省(遼寧、吉林、黒龍江の三省 に熱河省を加えた四つの省)を制圧したのである。
 更に3月1日には、清朝 最後の皇帝溥儀(宣統帝)執政を擁立して、「満州国」の建国宣言が発表さ れ、五族(満、漢、蒙、朝、日5民族)協和の満州国が生まれ、首都は新京 (長春)、元号は大同と定められた。翻って、日本政府では戦争不拡大の方 針で臨み、昭和6年12月犬養毅内閣に替わって、軍部の統制規律について も言及しその改善を要望するに至って、軍部の反発を買ったとの説もある。 翌7年1月28日には第一次上海事変(中国第19路軍と日本海軍陸戦隊と の衝突)が勃発し、日本軍にも戦死者769人、負傷者2322人を出した。 この際も犬飼首相の不拡大処置により3月3日停戦をしたが軍部の心証を害 する結果となり5月15日午後5時30分、数人の海軍青年将校が首相官邸 に乱入、犬飼首相を射殺した(5・15事件)。
 これに先立って2月9日には、井上準之助前蔵相が、また3月5日には 三井合名理事長団琢磨がそれぞれ血盟団員(日蓮宗の僧侶井上日召の門下生) によって暗殺されている。これらのクーデターは政党や財閥の粛正をして軍事政権 を打ち立てるのを目的としたものである。 犬飼首相の倒れた後に成立したのは、斉藤実海軍大将を首相とする内閣であった。  大正14年加藤高明首相以来憲政会と政友会という二大政党の相互交代により続い てきた政党内閣制は終焉し、以後は官僚又は軍人中心の内閣が続くこととな ったのだ。満州事変勃発後、中国は直ちに国際連盟に提訴し、日本政府は満 州および中国本土を視察し、実態を理解してもらうことを要望した結果、リ ットン調査団の派遣となった。しかし前記したように、満州国の成立が先行 し、昭和7年9月15日には、日本政府が日満議定書に調印し「満州国」を 正式に承認してしまった。リットン調査団の報告書はこれに遅れ10月2日 に公表される結果となった。昭和8年(1933)2月24日スイスのジュネーブで開かれた国際連盟 臨時総会にて、対日満州撤退勧告、及び満州国不承認決議を、42対1(日 本)で可決され、松岡洋右代表は、「連盟との協力は限界に達した」と述べ て脱退を宣言し議場から退出した。昭和6年9月18日の柳条湖事件から始 まった満州事件も、満州国の建国や日本の国際連盟脱退などのしこりを残し、 昭和8年5月30日日中両軍の間に塘沽停戦協定が締結されて、一応終わっ た。

 この間に私は、高工2年生となっていた。履修する科目も次第に専門化し て、橋梁、港湾及び水力発電など具体的な構造物の講義が連続して、講義ノ ートの筆記に追われていた。橋梁工学の担当は、土木科長の北沢先生であっ たが、2時間連続で、黒板にトラス型橋梁の図をフリーハンドで正確に書き、 原稿なしに講義されたのは特に印象が深かった。先生は技術者は常に「水平」 「垂直」の感覚を身につけておらねばならぬと教え諭しておられた。
 3年生の秋になると「卒業設計」の準備に追られる。私は最初「名古屋市を 囲む環状鉄道の計画」をめざして、国鉄関係の部所に行き資料の協力をお願 いしたのであるが残念ながら十分な資料が得られなかったので止むを得ず断 念して、「ハウ型トラス鋼橋の設計」に変更した。卒業設計は翌年の2月ま でに完成させて提出しなければ、単位不足で卒業出来ないので、各人必死に 取り組まねばならない。土木科棟の2階の製図室には、1人宛専用机と製図 版が配当され、午後7時まで延長時間が許可されるように準備されていた。 話が前後するが、卒業設計に入る前に(10月初旬)卒業見学旅行に3泊4 日の予定で出掛けた。次の行程であった。
       第1日 名古屋(中央線、信越線、経由)
          上越線清水トンネル−湯檜曽温泉泊
      第2日 湯檜曽−東京電力日光発電所見学−日光東照宮参観−日光泊
      第3日 日光−上野、京成電車地下乗入れ
               工事現場見学−東京泊
      第4日 東京−熱海
       昭和8年6月19日本貫通した丹那トンネルの坑内作業現場見学
         −名古屋帰着
なお、上越線清水トンネルはループ式トンネルで、昭和6年9月に開通 したもので、土合駅と土樽駅との間9.7kmを13分で通過できるもので ある。

 この旅行が終って、卒業設計に入ることになる。私は幸い家が近いので比較的 遅くまで製図室の席に残って作業を続けたが、下宿が遠いとか、通学時間のか かる友人達は、寒さも増して来る季節であり、時々講義の時間を欠席する者も 出てくるようになった。年も改まり昭和9年に入ったが、期限も迫って来るの で焦りも出て来て、ゆっくり正月気分を味わう暇も無く過ぎていった。 卒業設計も終りに近づいた2月の下旬に私は満鉄の採用試験を受験するため、 東京丸の内ビル2階にあった満鉄東京本社に行った。このことについては、母 に相談したところ今度は快よく賛成してくれた。3月早々に結果がわかって採 用通知が来た。併せて赴任旅費の振込み通知までいただいた。このとき名古屋 高工から受験して次の6名が合格した。
          土木科    野村朝一、藤井達吉、近藤眞造
          建築科    木村高治、玉置和男
          電気科    阿部四郎
この内、玉置君は2年後に退社して内地に帰ったが他の5名は終戦時まで満鉄 勤めであった。卒業設計も曲りなりに仕上げて提出し、名古屋高工の卒業式は 3月15日に行われた。