第2章 満鉄社員として


第1節 満州大連市への旅立ち
 昭和9年の3月から4月までの期間は、全く忙しい時間が過ぎた。 日本内地での生活から離れるには、永年世話になった人々との別離に 湧く淋しさと感謝の思いが交錯して、多くの人を訪ねた。特に篠岡村 大山に住む祖母や伯母、叔母の家には3回も行ってお別れの挨拶をし てきた。また父の遺産管理をして呉れた村瀬鉄次郎さんにはいろいろ 助言をいただいた。また隣家であった加藤斧吉さん一家には、一人娘 の加藤美代子さんの勉強の手助けをした事情もあり、大変お世話にな った事を感謝申し上げたことを思い出す。また檀家寺である名古屋市 西区新道町の正覚寺への墓参をし、父の墓前に報告をした。(このお 寺も其の後戦災を蒙り、墓地は平和公園に移された)

 満鉄に入社する6名のうち、母と共に渡満するのは、野村朝一君と 私の二人であった。入社式は、4月11日と指定されていたので4月 に入ると忙しく荷造りをまとめ、4月6日神戸三ノ宮埠頭を出帆する 大連航路興安丸に乗船した。申し合せた様に他の5名も同じ船に乗船 して、3日間の航海を終えて4月9日の朝、大連港埠頭に上陸した。 指定の満鉄社員宿泊所に宿泊して2日後入社式に臨んだ。入社式では、 私は鉄道建設局計画課勤務の辞令を頂いた。野村君は施設局勤務とな って職場は異なったが、母同志のつき合いはしばらく続いた。

 私たちは、大連市大黒町に住所を移し大連の生活が始まった。大連 は遼東半島の最南端にあり、三方が海に囲まれた海浜都市である。海 洋性の気候で、夏は涼しく冬は比較的暖かい都市である。旧市街は大 広場を中心として放射状に道路が配置され、山県通(埠頭に通ずる)、 大山通(大連駅に通ずる)など日露戦役に有名となった将軍の名を冠 した大通りがある。この2つの大通に挟まれた道路東公園町に満鉄本社 があり、その対面に鉄道建設局舎があった。南山、緑山と称する山を 背負って西方へ広がっている。この山並みの後側には、老虎灘とか星 が浦とかの景勝の海水浴場があり黄海に面している。

 満州国の建設後昭和6年2月には、満州国内の鉄道建設並びに運営に 関する委託契約が満鉄との間に締結されて、大変忙しくなっていた。 私も入社して研修講習(3か月間)が終わると、数日にして、三江省 佳木斯への調査出張を命せられた。連京線(大連〜新京)京浜線(新京 〜哈尓浜、旧東安鉄道であった)を乗り継ぎ、哈尓浜からは満州航空 会社の6人乗り飛行機に乗って佳木斯に到着した。3日間の調査を終っ ての帰途は、松花江の航運線(木造船で舷側には鉄板を立て並べて防弾壁 とした船)により遡江3日間を要して哈尓浜まで上り、再び京浜、連京線 によって大連に帰着した。その後は、計画課ヤード係に配属され、その当 時計画最盛期であった、北鮮の羅津港の埠頭内の配線計画業務に従事した。

 昭和9年の冬は、満州での初めての越冬生活であるが、比較的に室内は ペーチカの暖房で楽であるが、通勤や買物に外出するときは厳重に防寒服、 防寒帽の着用に気を付けねばならなかった。若い私は元気であったが、母は (40才を越していた)室内にこもり勝ちの生活を続けた結果,或る日突然喀血した。 私も大変に驚き、すぐ大連病院に入院の手続をし、3日後に入院をした。 昭和10年3月の頃と記憶している。担当の医師は石垣先生と言い、大変親切 に処置していただき、めきめきと回復に向いました。先生は、その頃によく 言われた「大気療法」と「カルシュウム注射」を続けるように教えていただ きました。特に私に「カルシュム注射」の要領を手ほどきして下さって、 「今後あなたがやってあげて下さい」と申されました。母の入院は2ヶ月間 続きましたが、その間大黒町の家で独り暮しをしていた私にいろいろ手助けを して呉れたのは、野村朝一君のお母さんの野村けんさんでした。仕事の都合 で夜遅くなった時などは野村君の家に泊まり込んでお世話になったことが度重 なったが、快くもてなして呉れたことを感謝している。

 母の退院を期して、大黒町の家を出て大連市郊外にある自菊町のアパートに 転居した。この家は「大連市運営運動場」正面に望む坂道の途中にあり、坂を 昇れば、大連〜星が浦に至る大通りがあり、市運営電車が運行されていた。頃 は5月初めで、寒さも過ぎて桃の花も咲く時期であった。母のベッドを新調し てこれを運動場の見下ろせる廊下に置き天窓は半開きにして大気療法が出来る ようにした。石垣先生に指導を受けたカルシュウム注射を毎日の日課のように 行った。母の容態は段々と良くなり普通の健康体をとり戻すことが出来た。
平成元年に訪中旅行の時、この自菊町の家は残っていて、現在の住人(中国人) にも面会して、お茶を御馳走になった。

 昭和10年という年は、社会的にも変化の少い穏やかな時が過ぎた。私も高工 時代から始めたテニスの練習を復活させて、殆ど毎日曜日には、本社と大連病院 との中間にあったテニスコート(冬季の凍上を避けるためにコート面は、コンク リート造りのハードコートであった)で練習やゲームを楽んだ。其の時の出来事 として思い出すのは、朝練習を始める前に、ネットを張っていた時、突然巻取機 が木製の支柱から抜けて跳ね上り右目の上方の額に当り裂傷を負った事である。 早急大連病院で手術を受けたが5針ぐらい縫ったと覚えている。其の後しばらく は、コートのネット張りには、細心の注意を払うようになった。その年の冬は、 比較的暖かくて心配した母の体調も良く、平穏の内に年を越し 昭和11年を迎える事が出来た。

 昭和11年(1936)2月26日には、驚天動地の大事件が遠く離れた東京におい て発生した。皇道派と称する青年将校が中心となり、第1師団の下仕官兵を動員 して次の各要人を殺傷した。斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠鉄郎,陸軍教育 総監(以上殺害) 鈴木貫太郎待迩長、牧野伸顕前内大臣(共に重傷)。 なお岡田啓介首相は襲撃されたが義弟と間違えられ、首相は危うく難を逃れた。 東京警備司令部の香椎浩平中将は、近衛師団を動員して戒厳令を宣告、上記反乱 部隊の下仕官兵に対し、撤布ビラ及びラジオ放送を以て帰順を勧めた。2月29 日午後3時までに反乱軍の帰順が完了し、首謀者の野村四郎大尉と河野寺太大尉は 夫々自決し、他の18人の将校は、東京衛成刑務所に収容された。これが有名な 2.26事件の概要であるが、この結果は統制派が「粛軍」の名の下に皇道派を 追放して主導権を握り、軍部大臣現役制を復活させて政策決定に軍部が圧倒的な 力を持つようになった。

 この年の10月1日付を以て、私は奉天の鉄路総局勤務を命ぜられた。全満の 鉄道経営を委託された満鉄としては、大連の地に留まっているわけにもゆかず、 満州国の略、中央部に位置する奉天市(現在の藩陽)に鉄道業務の本據を移した ものである。私の勤務個所は設計局計画課であり業務内容に変わりはなかった。


第2節 奉天市の生活の思い出
 奉天市に移って、定められた住所は、満州国奉 天市大和区紅梅町65番地である。大和区とは旧満鉄附属地の区域を示すのであり、 奉天駅前広場を中心として放射線状に配置された大通りが3本とこれに交叉して、 鉄道に並行して配置された基盤割の街路が組合わせられた市街であった。駅前から 東に向って、若松町、紅梅町、弥生町、白菊町など、名付けられていた。私の社宅 は、錬瓦造2階建の集合住宅で、40世帯が入居していた代用社宅である。位置は、 市街の南端に近く、渾河という大河の河川敷にあたる砂山公園と称する遊園に接し ていた。近くには「千福」と銘ずる酒造会社があった事を思い出す。社宅の前の道路 を挟んで、紅梅小学校があり、冬季には運動場のトラックに砂の堤を築き水をまいて 一夜にしてスケートリンクが造成された。私もここでフィギュースケートを楽しませ てもらった。その頃は、稲田悦子さんの全盛期であり、奉天に来演した時にはその 演技を見学したことがある。
 勤務場所の鉄路総局は、市街の北端にあり通勤は市内バスに依存していた。前記し た弥生町通りの駅前附近は繁華街でありこれを通り抜けて北に行くと局舎に達するの である。なお、局舎の敷地は、旧日本軍独立守備隊の置かれていた所であった。この 敷地の中に、トタン葺きの背の高い小屋があった。昼食后の散策の時に何気なく立寄 って内を覗いて見ると、床に円形のコンクリート基礎が設けられていた。先輩の同僚 の人たちの説明によると、昭和6年9月18日の柳条湖爆破事件の時、日本軍守備隊 が北大営の中国軍兵営(北大営)に向って発射した野砲の台座跡とのことであった。 満州事変発端の地点として深く印象に残っている。
 前記した、放射大路には各街路との交叉位置に環状広場が設けられているが、特に 最も大きいものを「大広場」と称し、局舎から徒歩10分位の所にあった。この大広 場の周囲には、満州国の主要官署が並んでいたが、特に古くから存在するのは、満州 医科大学病院と満鉄の奉天ヤマトホテルである。前者は長女勝江の出生した所であり、 後者は遠来の賓客を接待に活用したり、当時始めたビリヤードの練習場でもあり大変 なつかしい場所である。
 建設局での業務は、益々多忙となって来た。全満に拡がる鉄道建設に対する計画設計 及び現地工事の準備に追われていた。新建設線の測量調査のために、調査隊が結成され 長期間(1〜2月間)の行程で出発していった。私の担当していた停車場配線計画も、 東満、北満、及び興安嶺山地など広い地域に亘っていた。
 昭和11年の後半から12年に亘っての期間には、日本と中国との間で北支那地域に おいて、自治政権(防共及び通商を目的とする)の樹立に関する紛争が続き、これに 反発する中国国民の反日活動が激化し、成都、漢口、上海事件などが発生し、中日間 の雲行は陰悪を極めていた。

 昭和12年7月7日北京附近を流れている永定河に架かる蘆溝橋を挟んで日、中両者 の衝突が発生した。(蘆溝橋事変と称し、日中戦争の泥沼に落ち入る発端となった。) 戦渦の拡大を防ぐ外交努力は、いろいろ行なわれたっが、その度にまた新しい事件が 勃発し(廊坊事件、向案門事件、更には通州事件など)て挫折し、遂には第二次上海 事変にまで発展し、上海出兵を余儀なくなり、更に陽子江に沿って南京にまで達する 大戦争となったのである。(南京占領昭和12年12月13日)、満州国内は、北支、 中央の全面戦争には拘らず専ず満州国内の建設に追われていた。
 昭和14年5月突然発生したのは、ソ連軍の部隊が、満州興安北省の国境ハルハ河 を超えて侵入した事件があった。関東軍がこれに応戦したのであるが、ソ連軍の戦車 部隊と航空部隊が優勢 であって著しい苦戦を強いられた。撃退はしたのであるが、関東軍の死傷者17000 名、ソ連モンゴル軍の死傷者9000名という結果であった。これは、ノモンハン事 件と称し、関東軍にとっては一大警告を与えた物である。その結果として昭和15年 以降に始まった関東軍特別演習計画(略称、関特演)では、対ソ戦に備えた鉄道新線 の建設が急ピッチで進められた。虎林線(林口〜虎頭間)北黒線(北安〜黒河間)など ソ満国境に向う新線では1日30ヶ列車の運行可能の線路容量を基準として計画した ことを思い出す。

 昭和15年には、私は佐藤定子と結婚した。上述のような業務繁忙の時期であった のでゆっくり内地に帰って、見合い、結婚式という余暇は貰えなかった。前に触れた ことのある加藤斧吉御夫妻の口添えがあり、写真見合いとなり、母だけが名古屋に帰 り加藤様のお宅で、母親と嫁との対面をした。翌日母は定子を伴ない、名古屋を発ち 下関から関釜連絡船に乗って釜山港に上陸した。私はやっと釜山口まで出迎えに行き、 ここで始めて定子との対面をしたのである。戦時における結婚は誠に味気ないもので あると反省される。
 3人は、直ちに朝鮮鉄道の京釜線に乗って京城市に赴き、そこで一泊した。今で言 えば婚前旅行とでも言うべだきが、母を伴った旅であり、全く趣は異なっていた。翌日 は母をいたわりつつ市内の李王朝の宮殿を見物した後、再び列車に揺られて北上し、 鴨緑江を渡り、案奉線によって奉天に帰着した。
 私たちの結婚式は9月に入ってから奉天神社の神前にて行ない、職場の同僚の人々 を招いて披露したのであるが極めて質素なものであった。勿論新婚旅行などは戦時の 折柄到底望めず、すぐ翌日から私は勤務につき、定子は母に仕えて新嫁の日課が始ま ったのである。
 代用社宅の状況は前に記したが、今で言えば3LDKであり、中央には暖房用の ペーチカがあり、窓は二重窓であり、冬季は窓と窓との間が冷蔵庫の役目を果して くれた。9月下旬からは、冬の準備に入るので初めての冬を迎える定子にとっては、 大変心細かったと思うが、母という相談相手があったことは、些かの助けになったか と思う。

 昭和15年の11月から翌年の2月までの3ヶ月間に、私は長期出張をした。これは 満鮮国境に聳える白頭山の地域の資源調査を目的とし、鴨緑江の北にある臨江県大栗子 に至る路線の予測を兼ねたものである。事前に3回の航空調査を行って、白頭山の天池 を含む周辺の航空写真を撮影した。この写真を基にして、道路及び河川(冬季は結氷し て道路の役目を果たす)を調べて行路を予定した。
 調査隊は、古川隊長以下20名で編成され梅輯線(梅香口〜輯安)の通化駅に集合し た。ここで増援の日本兵(隊長以下40名)と馬そり30台とその馭者が合流して、 11月10日出発した。馬そりには、食料品と宿営用の天幕、ストーブ(ブリキ製)、 救急医療品等を積み、馬糧は途中にて随時補給するようにした。人員は防寒具を充分に 身に付け、馬そりには極力頼らないように注意された。(これは凍傷も防ぐ意味もあ った)。当初は道路を通り、臨江に到着する間は路線の予測という仕事もあり、地形の 起伏を略測(ハンドレベルによる)するようにした。臨江にて数日の休養を取り、11 月20日撫松県に向って出発し、結氷した河道を通って進んだ。
 情報(無線機を携行し、天幕を設営すると通信を開始して本部と連絡をする)による と、我々の調査隊に対して、東辺道に本據を持つ共産匪賊のうち金日成と楊司令との 部隊が追随しているとのことであった。援護隊長の陸軍中尉殿は、我々に対し、単独 行動を慎しむように注意していた。事実、日時は記憶していないがある日、開けた河原の ある地点にて、宿営をするべく天幕を張り、ローソクの灯りで次の日の行程を協議して いた時突然一発の銃声がとどろき天幕の上を弾丸がかすめた。隊長は突差にローソクを 吹き消し、外に飛び出し兵を集めて警戒体制を整えた。その処置の素早さには、全員が 感銘した。その後銃撃は止まったが、警戒は続けられた。隊長の話では「これは、いや がらせであるが、このような事はまだ度々在る」とのことで、改めて単独行動の厳禁を 申し渡された。
 撫松県に到着したのは12月に入ってからであり、ここでは、久し振りにゆっくりと 休養をとり、支邦風呂に浴して、久方振りのあかを落とした。ここでは警察隊で虎 (満州虎)を射殺したとのことで、その巨大な死体を見せてもらった。撫松県を出るの は12月中旬であり、松花江の源流である頭道江の河道を北上して吉林省に入り、 両江口という所で河道を出て北進したのであるが、最終点として予定した敦化駅 (吉林〜敦化線の終点)に入るのに、道を間違えて翌日の午後2時まで歩きずめで やっと敦化にたどりついた。
 敦化では、宿舎も手配されて、オンドルの温かい部屋で長行程の疲れを休めた。引き 継いで、援護部隊とのお別れの会を催したり、馬そり隊への支払いなど、残務整理に明 け暮れて10日間を過ごして、奉天の総局に帰着したのは、昭和16年の2月の初旬で あった。白頭山の北麓を巡り、行程は約200qを超す踏破であったが、1名の事故もなく任務を果たしたことは誠に幸運であった。

 昭和16年の前半は、また静かな奉天での生活が続いた。上記の調査行に就いての報告 書をまとめる仕事が終ると、通臨線(当時は通化〜臨江線の略称)の計画に取り掛かった。 臨江は、鴨緑江の中流に位置し、白頭山の豊富な森林資源に培かわれた木材の集散地である 。古くは鴨緑江を筏で流下させていた時の最上流点であったがこれを通臨線に切り換えて 輸送するのが目的である。所謂資源開発の鉄道計画である。この頃から満州国内における 資源開発の鉄道建設が強調されてきた。私の関係した物でも、佳木斯の北にある鶴岡線 (鶴岡炭鉱の開発のため)や新義線(新立宅〜義県を結び、中間にある阜新炭鉱の開発 のため)などがある。
(註)後の祭りとの諺の通り、後年浜州線の安達駅附近で発見されて開発された大慶油田 については全く不毛のアルカリ地帯として見捨てられていた。

 昭和16年12月8日には、真珠湾攻撃で始まる大東亜戦争に突入し、米英連合軍に 宣戦をし、日本の戦力は南方の資源に向って方針転換したのである。北辺を守る国民の 1人としては、全く予期せぬショックを感じたものである。緒戦の戦果は、目を見張る ものがあり、発表される戦況に一喜一憂しつつ年が暮れ、年が明けて昭和17年を迎えた。

 昭和17年4月11日には、私たちの長女が誕生した。奉天の満州医科大学附属病院 の一室で生まれた長女には、戦勝を願って、「勝江」と命名した。病院を退院して家に帰 る日は風強く黄砂が舞い上り、太陽も白く大輪となって見える春の嵐の日であった。激 しい戦時下の行末を占うような気象異変の日であったことを思い出す。幸い子煩悩の母 の手助けもあり、赤子はすくすくと成長して呉れた。


第3節 哈尓浜市への転勤と敗戦
 昭和18年4月1日から、哈尓浜鉄道建設事務所に 転勤を命ぜられ、当初は、単身赴任して、満鉄の寮舎で沼沢和助さんと一しょに4ヶ月 位い過した。その年の秋にやっと南崗区極楽寺の局宅(社宅)の三階に入ることになった。 家族にとっては、これから冬に向う折に、北に向って移ることは、誠に心細いことであっ たと思うが、幸い局宅は集中暖房の完備されており、室内の生活は快適であったのが救い であった。しかし日常の生活物資の調達に外出するときは、防寒服をしっかり着用しなけ ればならない。やっと2才になって歩くようになった勝江が防寒帽に顔を包んで、雪の積 もった歩道を、頬を真赤にして買物の母に付いて歩く光景は今でも思い出される。
 哈尓浜鉄道建設事務所における私の業務は哈尓浜環状線計画の立案調査であった。哈尓浜 市を通る旧東支鉄道と之に支叉する新設線拉浜線(拉浜〜哈尓浜)及び京浜線(新京〜 哈尓浜)との間の短絡線を設ける計画であった。測量隊を編成して、京浜線の王崗信号所 の近傍に宿営したのであるが、戦局の変化に伴い続けて計画を進めることは許されなかっ た。
 昭和19年2月29日、満鉄社員を主体とした特別鉄道部隊が編成された。私はその 内の第3特設鉄道橋梁隊(満州第1241部隊、以下単に41部隊という)に編入され て、公主嶺に集結駐屯した。ここで3ヶ月に亘って営内生活を続け、軍事各個教練から 始めて更に工兵科の築棟、結束等の訓練を受けた。
この間、家族は哈尓浜で別居生活を続けていた。この年の5月19日には二女の静代が 生れた。後に妻の定子から聞いたところによると、出産の予定日には自ら馬車を呼んで 荷物を積み、母に長女を託して近くの哈尓浜病院に赴むき、入院し、無事次女を出産し て一週間後には、再び自ら荷物をまとめて、次女を抱いて退院してきたとの事である。 留守を預る主婦としての気丈さが、そうさせたもので全く頭が下がることである。

 私たちの41部隊は、前記の軍事訓練を終わって、まず実施した作業行為は次の物である。
@虎林線(鶏寧〜東安間)鉄道撤去作業に伴う橋梁橋桁の撤去。
A連京線(三十里保〜大石橋間)単線化工事のうち石河橋梁橋桁の撤去。
B朝鮮鉄道京釜線(倭館附近)複々線工事に伴う橋梁架設工事実施。
 これらの作業行動は、それぞれ関連をもったものであり、@およびAは、東満および 何満地区における既設線の軌道及び橋桁を撤去し、最も急を要する朝鮮から満州を経て 北支に至る幹線鉄道の増強を計画したものである。部隊の出動移転は、貨物列車に便乗 して赴き、現地に宿営して作業を実施した。@は昭和19年6月から始まり、最後のB の現場は、朝鮮南部の大邱市に近い所であった。Bの作業を終ったのは、昭和19年12 月21日であった。朝鮮から帰還した駐屯地は遼陽に変更されていた。前には戦車部隊が 入っていたとのことで、広大な兵舎の一部が充当されたので、時々構内を見て歩いたが、 強者達(南方へ移動した)の去った跡がうかがわれ、心から武運の長久を祈る思いが強 かった。遼陽駐屯は厳冬期であり、前年の強行スケジュールの労を癒すという期間であっ た。すでに幾つかの作業を経験して来た隊員たちには、公主嶺の時のような訓練も必要で はないと考えられたのであろう、平穏な営舎生活が続けられ、日曜日には、外出許可もとっ て遼陽附近の見学に一日を費すこともあった。3ヶ月が経過して、部隊は、哈尓浜に近い 浜綏線の成高子に移駐した。
 哈尓浜から成高子までは、列車で20分ほどの距離にあり、哈尓浜建設事務所から召集 された隊員にとっては、家族が至近の位置に住んでいることで、大変心強く感じられた。 日曜日に外出許可をとって家族と顔を合わせる楽しみが出来た。併し他の地区からの応召者 に対し申し訳ない気持もあり、時にはそれらの人を自家に招待するとか、麗しい友情が持た れていた。その様な中にも戦局は、益々悪化し5月にはベルリンは陥ち、ヒトラーは自決し、 残るは日本だけとなった。

 昭和20年8月7日と記憶しているが、たまたま休暇をいただいて家に帰り家族と一夜を 過した早朝、閃光一閃けたたましい爆音に夢を破られた。ラジオのニュースでは、ソ連の 宣戦を報じていた。爆弾は、近くの浜江駅の線路に投下されたのである。 私は、佛壇の前に家族を集め事態を説明し、後事を妻と母に託して直ちに部隊に帰営した。

 部隊では、関東軍司令部の命令により通化に移駐することとなり、準備に2日を要して、 8月10日成高子を出発して通化に向った。関東軍の全部隊は、東辺道(満州東南部の山岳 地帯)に立て籠り、ソ連軍と対戦する作戦であったという。従って通化の周辺には、多くの 部隊が集中し、私たちの部隊は通化市内には入れず、手前の柳河駅で下車しここで天幕宿営 することとなった。これが8月13日の夜半であった。翌々日(8月15日)重大放送があ り、これを拝聴するために全員が柳河駅舎に集合した正午に陛下の終戦の詔勅放送を聞いた のである。この時は全員全く呆然自失して、激しい虚脱感におそわれ全員無言で幕舎に引き あげた。翌日幕舎を畳み、混雑する南下列車(無蓋貨車編成)に乗って通化市に集結し、一 時宿営して待機したが、8月19日本部の営庭で、穴沢部隊長から部隊解散の命令を受けて、 41部隊は現地解散となった。(但し軍人は除く、軍属のみ)
 部隊が解散となり、夫れ夫れの満鉄所属に帰還することになったが、各建設事務所 (哈尓浜、チチルハ、通化)毎に集団となって行動することとなった。哈尓浜建設事務所の 所属員は約40名であったが、浅見三郎さん(41部隊の“に”隊長)を中心として、団結 協力して北帰行を続けることとなった。通化から梅河口までは、容易に到着する事が出来た。
 ここで四平街行きの貨物列車を持って1昼夜を費やし、8月22日朝、やっと四平街駅に 辿り着いた。ここで、白城子方面から侵入してきたソ連軍の部隊(丸刈頭の少年兵ばかりの 部隊)と遭遇した。時計、万年筆、などのめぼしい携帯品は、すべて失ったが生命の危険は 免れた。四平街駅で北行列車を待つ間に、各地で行われている「兵隊狩り」の情報を得たこ とは、大変幸いであった。8月24日夜に乗った貨物列車が、哈尓浜駅の1つ手前にある 顧郷屯信号場に停車したのは翌8月25日の午前3時頃であった。
 ここで、全員下車し、無人の駅舎の中に身をひそめて夜明けを待った。薄明になり、近傍 にある顧郷屯満鉄社宅を偵察したところ、全戸が健在であることが判った。まことに地獄に 仏に会えた思いで、信号所駅舎を離れ、各戸に分散して収容していただいたのである。翌日、 鉄道管理局(ソ連軍の管理下となったが殆どが旧満鉄社員が流用されていた哈尓浜鉄道局) に電話して、「全員鉄道従業者であり、今後も鉄道業務に従事する旨を約して、身柄の保証 を嘆願した」ところ承認され(旧上司の方々の御尽力も得られたことは勿論である)翌日 早速、管理局の自動車にて、夫々の家族の元へ帰る事ができたのである。


第4節 ソ連軍進駐後の哈尓藩の状況
 ソ連軍は、8月22日哈尓浜市内に進駐して来た。翌23 日から9月上旬に亘って、通行中の日本人男子を片っ端に逮捕して香坊の収容所に監禁した。 これを男狩りと称し、私たちはこの情報を知り前記のような行動を執ったのである。このよう に抑留された日本人は約26,000人であるという(満蒙終戦史による)。これらの人たちは、 更に横道河子から牡丹江まで移送され、何の目的も判らず不安の日を送った後に10月上旬に 突如解放の命令が出て哈尓浜に送り返えされた。しかしこの間に病気や事故(火災による)に よって300名位の人が死亡したという誠に理不尽な暴挙である。
 進駐当時のソ連軍の軍紀は乱れ、兵士は住宅に侵入し、時計、ラジオ、蓄音機等目ぼしい物 品を持ち去るなどの掠奪行為が随所に発生した。また婦女子に対する暴行も度々報じられたの で、女性は極力姿をかくし、息をひそめて暮らさなければならなかった。私たちの住む極楽寺 社宅は、鉄骨コンクリート3階建棟が5棟集合した団地であったが、各1階の入口及び窓は防 護用の板を打ちつけ、扉の開閉はベルの合図によることとして、常時は施錠するようにに努め た。
 市の中心部に位置し、旧露時代から続いて来た建物を充てていた社宅も、ソ連軍人のために 要求され、逐次明渡しを迫られたので、これらの社員の方々を極楽寺の団地に収容することと なり、1戸に2〜3世帯の同居をすることとなった。飯渕さん(哈健事線路長)や浅見さん (前出)との同居生活も始まった。互に身を寄せ合って、助け合ってという気持は、敗戦国民 として強い結団心をたかめ、心温かさを感じ、苦痛などは全く感じなかった。
 10月から翌年の3月までの厳寒気には、私たちは、哈尓浜駅構内での石炭積替作業を充当 された。ソ連軍が撫順炭礦の石炭を本国に運ぶ目的で、標準軌間の満鉄線の賃車で運ばれて来 た石炭を廣軌間の浜州線(哈尓浜〜満州里間はソ連軍によって5呎軌間に改軌されていた)の 賃車に積替える必要が生じたのである。
 4名1組となりスコップで賃車一輌分の積替をするのが1日のノルマであった。防寒帽を 被むった顔も一様に真黒になって1日の作業を終ると、雑のう1ぱいの石炭が支給された。 これが貴重な暖房用の燃料であったのである。或る時、この作業班の中に、恩師の荒井先生 (哈尓浜工大教授)の姿を見つけびっくりしたことがある。敗戦国の惨めさを痛感し、ひたす ら御健勝を祈ってお別れをしたが、その日の雑のうの石炭は先生に差し上げたことを思い出す。 また駅構内に入ってくる貨物列車(北満や東満から到着する)には、開拓地を追われて着の身 着のまま、麻袋などを纏って寒さを防せいだ日本人の姿を見ることが多く、誠に断腸の思いで 見送った。これらの人々は、哈尓浜市内の収容所に入り、多難な収容所生活を余儀なくされた。 私たち既住の日本人は、後述する民会による衣類の提供に協力する他には途はなかった。
 このようにして厳寒期を凌いで、昭和21年4月25日ソ連軍の撤退につづいて、中共軍 (東北民主連軍と称した)が進駐してきた。軍紀は厳正で、日本人に対する不当な圧迫行為は 厳しく取り締った。北満にもやっと遅い春がやって来た5月の或る日、駅構内で雑作業に従事 していた私たちに、1人1挺ずつのバール(犬釘抜き)を配当した後、有蓋賃車に乗れと指示 された。乗り終えると外から鍵がかけられ、列車は南に向って動き出した。1時間足らずで列車 は止まり、鍵が開けられて降りた所は陶頼昭であった。これから徒歩で南下し、第2松花江の 京浜線鉄橋の袂に到着した。見ると中共軍の兵士が、橋台や橋脚の桁座の所に、爆薬の入った 大きなダンボール箱を幾ヶ所も固定していた。私たちは、レールの犬釘を抜くように命令され た。止むを得ず作業を始めると、しばらくして、対岸の国民政府軍の陣地から飛行機が一機飛 来して機銃掃射を始めた。あわててトラスの斜材の鋼材の陰に身を陰して被弾を避けた。その 時間は10分ぐらいであったが永く感じられた。飛行機が南に去るのを見て、再び作業を続け て完了させた。次に陶頼昭駅に帰る途中は国民政府軍の野砲により狭窄射撃の威嚇を受け、 弾着を見て左右に避け、身を低くして歩いた。この間は全く身の凍る思いであった。幸い1名 の事故もなく駅に着いた時は、互に抱き合って喜んだことを思い出す。敗戦の後で中国の内戦 (国府軍と中共軍との戦い)に巻き込まれた日本人の心境は、まことに複雑な思いがあり、生 きて故国に帰りたいとの一心で全員が助け合った賜であったと感謝している。昭和20年9月 には、日本人居留民会(以下民会と略す)が組織された。初代会長近藤繁司氏の名をとって 「近藤機関」と称し、難民救済に主力を注ぎ、在留有力者の出資やソ連軍の放出戦利品を充て、 衣料はほとんど市民の寄付を仰ぎ、目覚しい実績を挙げたが資金面では相当の苦難があった。 中共軍の進駐後には、第4代会長として、旧哈尓浜鉄道局長関弘氏が就任した。後にふれるよ うにこの頃から日本人遣送の動きが国民政府軍治下の南満方面で始められたのであるが、中共 軍治下の哈尓浜では遅れていた。しかし関氏の就任は、このことを見越しての期待が持たれた 結果である。(満蒙終戦史による)


第5節 日本人遣送の実現とその状況
 南方の藩陽市(旧奉天市)では、国府軍の日僑浮管理処 (略して日管)によって日僑遺送の指令が発せられ、昭和21年5月23日に第1次遣送が 始まった。中共軍の治下にあった哈尓浜ではまだその気配はなかった。
 しかし、7月に入って、急に日本人遣送の動きが出て来た。まず市内の収容所にいる難民 (奥地から避難してきた開拓団等の人々)が先ず優先的に遣送されて、南下して行った。
 私たち極楽寺社宅の日本人は、8月に入ってから遣送の決定がなされ、一団を編成し、団長 には飯渕さんを推載し、その指揮統率の下に行動することを決した。ここで私事ではあるが、 中国語の巧みだった母が親しくしていた中国人が、大変別れを惜しんで「日本人は、また30 年も過ぎれば、満州に帰って来る。日本は食糧難だそうだ、帰るのは止めてここに留まれ」と 強く引き止められた。この話を聞き中国人の心の廣さを強く感じた。
 私の家族は、病身の母と二人の幼ない娘の他は、強健なのは、私と妻の二人だけである。 1人当り30の荷物は携行できるが、現実に持てるのは2人だけである。そこで私は、四輪 台車を自作し、これに 若干の荷物を乗せて私が曵くことにした。妻は二才の娘を前にくく り付け、後にリュックサックを背負い、私が荷物を背負い上記の車を曵きながら 手をしっ かり握って歩くことに役割を分担した。帰国したい一念からの必死の思いの旅立ちであり、 私は33才妻は27才のまだ若かったからの決意であった。
 出発の日は、8月26日で風の強い砂埃の舞う日であった。哈尓浜駅の貨物置場に集って、 厳重な持物検査を受けた。印刷物や写真は没収されたり、郵便貯金通帳などは破棄された。検 査が終了して乗り込んだ列車は、拉浜線経由の旅客列車であった。一同ホッとして座席にくつ ろいだが拉浜駅から2駅ばかりの駅で下車させられた。これから第2松花江の江岸まで徒歩で 到着した。松花江の橋は、爆破されていたので、渡船に乗って対岸に着き吉林市の西郊にある 臨時収容所に入った。吉林市は国府軍が占拠しており、日本人に対しては比較的寛大な対応を してくれたので一同ホッと胸をなで下ろした。しかし収容所は煉瓦塀で囲まれた一画で、煉瓦 塀から張り出した急造の屋根(ルーフィグ紙葺きである)の下には、荷物と女子供だけを収容 し、男達は星空の下で野宿する状況であった。ここで三日間列車を待ったが、この時持物の検 査に当たった国府軍の将校は「自分は日本の明治大学の出身である」と称し「検査は直接しな いが、日本人の誇りにかけて自主的に禁制物品は届け出るように」と申し渡した。哈尓浜駅頭 で受けた検査とは雲泥の差を感じた。
 乗った列車は、全車無側貨車の編成であり、危険防止の方法として、中央に女子供が坐り周 囲に荷物を並べロープで固定しその外側に男性が腰を下し互に肩を組むという態勢で乗車した。 夕刻には奉天駅に到着したが、下車することは許されず、車上で一夜を過ごした。翌朝再び列 車は奉山線を南下して走り続け、吉林を出てから 錦県駅に到着した。この間途中で俄か雨や 夜露に濡れても着替えることも叶わず、じっと我慢の連続であった。錦県の日僑送還者収容所 で屋根のある土造り家でやっと体を伸ばして横になった時には救われた気持がした。しかしこ こで4日間の乗船待ちをしている間に、ここまで来て病気のため亡くなった不幸な人の葬送の 列を見たり、伝染病の発症のため隔離された人の話を聞いて、悲しい思いに落ち込む日々でも あった。幸い私たちの一団は1名の落伍者もなく、9月6日の朝収容所を出て、壷苧島港に運 ばれ、埠頭構内で、DDTの白い粉末を、頭から背中まで噴射され、全身真白になって乗船し た。私たちの乗った船は、旧日本海軍の「宵月」という駆逐艦であったがそのマストに翻る日 章旗を見た時には「これで祖国に帰れる」という安堵感と共に涙がこぼれてきた。
 宵月は駆逐艦 、航行速度も速く海路平穏で、2昼夜で九州の博多港に到着した。しかし同 時に入港した船の中で伝染病患者が発生したので、検疫期間4日間を船中で生活させられた。 この間に私が考えたのは、今後の生計の事であった。家族5人(子供も含む)に対して1人当 たり1000円の日本円は許されても合計5000円である。誠に心細いことである。そこで 私はそれまで吸っていた煙草をやめようと決意して、手持ちの煙草を全部海中に投げ捨てたの である。この禁煙の決心はその後今日まで厳守することが出来たのは、私にとって大きな収穫 であったと思っている。
 検疫期間が過ぎてやっと上陸できたのに、更に引場者収容所に3日間待機させられた。 日本 本土の上で結んだ第1夜の夢は誠に満ち足りた安堵感でぐっすりと眠れた。しかし翌朝起きて 周囲を見廻した時、港周辺の爆撃で破壊された惨状を見ると改めて戦災の悲惨さを実感させら れ、前途の生活の不安がひしひしと感ぜられた。
 引場者専用の列車に乗り、初めてくぐる関門海底トンネルを通って山陽線を東に向ってひた 走りに走った。瀬戸内海のおだやかな海と緑濃い山々を眺め、わが祖国の美しさを楽しんでい たが、途中神戸に近くなり、赤穂駅付近からは、急に車窓の外があわただしくなって。停車す る駅事に突然窓から大きな荷物包みが投げ込まれ、小児の頭に当ったりという状況となった。 2才の子供を抱いた妻は悲鳴をあげて座席を移ったりした。これらは、赤穂の塩や海産物を買 い出しに来た人々が取締りの網を避ける非常手段であった。
 引場専用列車が買い出し列車に早変りしたのであった。戦後の逼迫した食糧事情を、身をもっ て体験させられた最初であった。神戸三ノ宮駅で列車はしばらく停車したが、神戸市街は全く焼 け野原となっていて、焼け残った土蔵や仮バラックの急造家屋を越して海面までが見通せる状 況であった。列車は大阪駅にて関西地域の引場者を降ろす大休止をした。私たちもそれらの人 との別れを惜しみ長途の苦労をいたわり合った。翌日大阪駅を列車は出発し、名古屋駅には午 前10時頃到着した。名古屋駅には、篠岡村に住む伯母小島つるさんの夫である小島範次さん が出迎えて呉れた。久し振りの対面に抱き合って喜んだことを覚えている。