第3章 新生日本での生活の再建

第2節 稲沢高校への転出
  昭和29年4月1日から私は愛知県立稲沢高等学校教輪として勤務することとなった。

 当初、篠岡村大字大山の自宅(前出)から稲沢まで通勤をした。大山から味岡駅まで(6q)は自転車で味岡駅から小牧駅まで。ここで電車乗り替え、小牧駅から岩倉駅で更に乗替え一宮市に。小距離を歩いて尾張一宮駅に至り名鉄電車に乗り換えて稲沢国府宮駅に到着し、更にバスに乗って稲沢高校に着く。複雑な勤務努力を始めたのである。この通勤時間は、正味2時間を要し、帰途は味岡駅から大山まで昇り坂の道を自転車をこいで登るという強行軍を強いられた。
 この通勤努力を1年半続けたが、とうとう棒を折って、昭和30年の冬からは、稲沢町小沢にあった「吉清」旅館に下宿させてもらった。そして家族を稲沢に呼び寄せることを真剣に考えた。まず稲沢で家を建てる土地についてであるが、同窓会(稲沢農業高校の)役員の方々と御相談した結果、稲沢町桜木の大地主石黒嘉一氏の畑を100坪分貸していただけるということとなった。これに力を得て篠岡村の家を解体して運び、増改築をすることとなった。
 建築については、其の頃学校の校舎の建築で、よく面接していた祖父江町の澄川建設の当主にお願いをした。祖父江町には、私の妻の姉が嫁いでいた佐藤守之氏がおられ、同窓会の役員であったのでいろいろと口副えしていただいた。このような状況で、昭和31年の初頭から、ばたばたと事が運び、6月には家が出来上がったので、7月の夏休みに大山から家族一同が引越しする事ができた。
 この頃稲沢、明治、千代田及び大里の四ヶ町村は合併し、更に昭和33年11月には稲沢市として統合された。なお、篠岡村も小牧町と合併して小牧市となったのは同じ時期であった。誠に奇しき一致として今でも心の中に残っている。

  稲沢高校の農業学科の中に新に農業土木科が設置されたのは昭和29年4月からであるが、当時愛知県内における農業土木科が設置されていたのは、西尾実業高等学校と新城高等学校の2校のみであった。大都市名古屋に近接し、先端的な都市近郊園芸農業を主体とした稲沢地方では、大規模な基盤整備が懸案となっていた。特に顕著な傾向を示しはじめた農業経営の大規模化とそのための機械力の導入には農業基盤の整備と農地区画整理が要求されていた。この地域の南部における大水田地域(海部郡一帯の地域)においては集団化傾向の進展と農業水利施設の造成の要請が求められていた。また北部並びの東部の園芸地帯にあっては、農地造成の効率化を目指す土地改良事業の推進が盛大に施工されつつあった。
 こうした趨勢のなかで、工業高校土木科の教科課目を大幅に取り入れ、専門的な人材を養成することを目的に農業土木科の新設に踏み切ったのである。従ってその教育目標を次の三点に置いた。
(1) 土木に関する基礎的技術を充分身につけた有能な中堅技術者を養成する。
(2) 公共的性格を持つ土木事業に従事する技術者に相応しい徳性を培う。
(3) 円満な社会人として恥ずかしくない一般教養を充分に身につけ、協業してゆける人格をつくる。

  昭和29年4月に私が担当した農業土木科の第1回生は、女子1名を含む男女系32名であった。この女子1名は、建設業者の娘さんであり、将来家業を継ぐ強い意思のもとに入学して来たものであり現在その社長として活躍している。この年は本校普通科の志願者も多くあったので、多少の増員を考慮した為め普通科クラスのクラス編成上定員を超過した生徒の一部を私のクラスに女子4名が加えられた。結局合計36名のクラスとなった。
 このクラス生徒の中で前記の紅一点の女子生徒の外に今1名の男子生徒鈴木 智君について付記しておきたい。彼は篠岡中学校の第8回卒業生(昭和29年3月)であるが、引き続き農業土木科に入学して、3年間通学し(私は1年半で棒を折った)続け、卒業時には国家公務員初級職(技術職)に合格し、農林省に入省して今日に至っている。誠に美事な業績を挙げて呉れた生徒であった。

 農業課程の高等学校で結成された学校農業クラブ連盟が昭和25年度から研究発表、各種競技会等を県大会として実施し、その優秀校について全国大会が持たれている。その中の1つとして測量競技大会がある。昭和29年に我が校(津坂、岩田、佐伯、溝口)は測量競技B班(平板測量)の部の県大会で優勝し、第5回全国大会(東京)に出場し第2位となり建設大臣賞を獲得した。続いて昭和30年には、測量競技A班(トランシツト測量)の部において、第6回全国大会(神奈川県高松市)に出場し(岩田、室町、青山、橋本)、第4位となった。更に昭和31年には(駒田、寺西、茶納、柴田)、測量競技B班においていて第7回全国大会(東京)に県代表として出場した。

 農業土木科の教育目標の達成を目指し具体的には、3ヶ年の各学年に応じた到達目標を設定していた。
第1年次 測量技術の習熟と測量士補の国家試験の合格を目指す
第2年次 農業水利、農地造成に関する水理、土質及び土木施工の理解。
第3年次 土木構造物(道路、橋等)の設計、計画の実践的理解を習得。
第2学年の夏には測量士補試験が国土地理院で実施されるので極力受験を勧めた。第2学年段階では、水利実験、土質実験及びコンクリート試験等の実習を実施した。第3学年においては、応用力学、構造計算法を理解させ、簡単な設計演習を課して「卒業設計」とした。
 これらの教育目標を達成するための施設設備は、当初から完備していたものではなく、毎年交付される産業教育振興法に基く資金の額に応じて、徐々に設備充実して行った。昭和29年発足した農業土木科も新入生は、旧稲沢町大字見附(旧農学校の位置)の校舎において学び、卒業していったのである。僅かに昭和30年3月に西側蟹江街道を挟んで存在した実習農場の中に新設された土木教室の中で、製図やコンクリート試験を実習できたのであった。昭和30年頃から校地の移転の議が起こり、たまたま明治、千代田、大里、稲沢の四ヶ町村の合併し稲沢市の誕生という状況と軌を1つにして進められたのである。昭和32年8月24日移転先の稲沢町大字平野の新天地で地鎮祭をあげるに至った。昭和33年9月1日には鉄筋コンクリート三階建ての校舎が完成し、全校職員生徒が移り授業を開始し、その年の11月1日には稲沢市が発足した記念すべき年でもあったのである。

 ここで我が家の事を少し記述する。私が稲沢高校へ勤務を始めた昭和29年には我が家にもまた一人の家族が増えた。その年の10月8日、三女眞寿枝が誕生したのである。戦中戦後のあわただしい中にあって、5人の子宝に恵まれ、その成育は殆ど妻に任せて働いてきた事を思い、妻の努力に感謝するしだいである。

 前記のように平野校地に移転を完了した稲沢高校は、引き続いて旧校舎をそのまま移築する理科室(2階建て)、家庭科室(2階建て)土木教室(平屋2棟)及び音楽室(25坪)図書館(63坪)並びに武道場(66坪)等の建築が進められた。農業土木科としては、第1棟(製図質)第2棟(材料研究室及び測量機器室)等が整備された。しかし水利実験室と土質試験室とは、大変遅れ昭和47年度になって始めて完成された。

 この翌年(昭和34年)には、愛知県は伊勢湾台風に見舞われ、名古屋市南部から海部群一帯に高潮浸水に襲われ、田畑冠没し、長期間に亘り、家屋浸水の大被害を蒙った。
 9月26日の夜半から吹き荒れた風雨は一段と激しさを増し、我が家でも家族全員が畳を雨戸に立て掛けて押さえ、吹き破られるのを防いだ。夜が明けて気付いたのであるが、南からの吹き付ける風のフェーン現象のためか北側の屋根の瓦が舞い上げられて、一部(風呂場の屋根)に大きな穴が空いているのを発見した。取り敢えず防水シートを被せて応急処置を施して、私は学校の被害を知るため自転車に乗って出掛けた。途中の横地の神明社まで来たところ、境内に立っていた松の大木がなぎ倒されて、県道(蟹江線)全面を塞いでいた。自転車をひきずり大木の幹の下をかいくぐりながら学校に到着した。調べたところ各校舎については、築後新しいためか目立った被害は見当たらなかったのでホット胸をなでおろした。午後には、岡崎市に住む鈴木耕次郎先生が遠路馳せつけて来られたので詳細な点検をして、一部測量器材の汚損したものを乾かして帰った。然し昭和31年4月に佐屋町に開校した佐屋分校(農業科と農村家庭科)は教室の天井近くまで水没していたのである。この湛水は約3ヶ月続いた。その間分校の生徒は、本校西農場の木工室に合宿させて授業を行い、分校校舎の排水を待って本校生徒の協力によって、清掃消毒を実施した後にやっと12月に入って夫々の家庭に帰ることが出来た。農業土木科の生徒も1日この清掃作業に出動したが、津島市役所(九天王町)から南部はまだ道路にも海水が溜まり、田、畑は一面海原となっていた中を全員自転車隊を組んで行進して分校校舎に到達した。海水に漬かっていた校舎内はまだ海水の塩分の匂いが残っていたが、水道水で洗って後に消毒剤を撤布したが、更に仕上げの水洗いをした。帰途も同様な海水の溜まった道を自転車で帰ったが、翌朝自転車のペダルやホーク部分が赤くさびていたのにびっくりした事を思い出すのである。

 私が農業土木科を担当して、第2回目のクラス担任となったのは、第5回卒業生(昭和36年3月卒業)であり、上記の佐屋分校の清掃作業にも参加して呉れた。


 卒業生の進路指導については、設立の当初から最も意を注いだところであって、地元の稲沢市は元より、隣接する一宮市、尾西市、津島市の他に名古屋市、江南市、小牧市等の各市の人事担当課を歴訪して教育内容の説明をし卒業生の採用をお願いして歩いた。
 更に建設会社(鹿島、大成等の支店)及び建設コンサルタント会社にも訪問をして、同じようなお願いをして廻った。第1回の卒業生を送り出すまでのこのような努力を今思い出すと全く感慨無量の物がある。
第1回、第2回と卒業生を送り出してからは、それらの人々の職場訪問を併せて行うようになって大変楽しく回って歩けるようになった。愛知県庁(土木部及び農地部)、名古屋市役所は1ヶ所に集中しているが、その他は各所分散しているので余り頻繁には回れなかったが、地元の稲沢市と一宮市、及び尾西市は比較的 卒業生も多く採用されていたので積極的に訪問するように心掛けていた。
 なお、農業土木科の卒業生の昭和44年度までの間の就職及び進路状況と測量試補試験の合格状況については大略次項の表のとおりである。




  昭和39年4月から前任者足立一三先生の後をうけて私は校長補佐を任命された。この年は、本校の前身である稲沢町立園芸学校が設立認可(大正3年12月)されてから50年を経過したので、12月19,20,21の3日間で50周年記念式典及び記念文化祭並びに記念造園の設立披露等の行事が実施された。 この記念造園については、昭和38年に設立された造園土木科の生徒を小山乾二先生が指導されて造成に努力された成果である。また前記した佐屋分校も昭和40年4月には、県立佐屋高等学校として独立したのである。 昭和29年以来10年を経過した農業土木科の育成を離れるに当たり、それまでの経過を記しておきたいと思い表を作成した。

 昭和39年10月に開催された東京オリンピックは、我が国の経済発展の起爆剤となり、東海道新幹線の建設、名神高速道路の開通が進められ、稲沢市内を縦断して新幹線が走るようになり、これに起因する農地改良事業が各所で計画されるようになった。稲沢高校の生徒からもオリンピック大会の聖大リレー正走者(普通科横井明広、普通科井村英司、園芸科田中正文)と隋走者5名が選択されて、旧国道22号線の一画を走破した事は生徒達の忘れられぬ記念となったのである。

  私は、稲沢高校へ赴任して3年目頃から軟式庭球部の顧問となっていたが、農業土木科の育成に追われて充分の指導が出来ずに過ぎていた。昭和35年頃には、テニスコートの建設について没頭し、クラブの生徒の協力を得て、まず2面のクレーコートを築造した。更に東に隣接していたバレーボールコートを譲り受けて改造して三面のテニスコートを完成した。 稲沢高校の購買部を経営しておられる、奥村新一氏及びその夫人である郁子さんは、大のテニス愛好家であり、特に夫人は旧国体選手でもあって、熱心に生徒の指導を努めていただいていた。奥村新一氏は、愛知県軟式庭球連盟の役員を努めておられたので、県内の優秀選手の方々の紹介をしていただき、或る夏休みの期間には、当時優勢を誇っていた中京大会軟式庭球部と合同合宿を行なったこともあった。
 このような環境の中で次第に軟式庭球部の生徒の技術向上が達成されていった。昭和37年には、軟式庭球部の卒業生たちが「稲沢高校軟式庭球愛好OBクラブ」を結成し、休日には多数がコートに来て在校生の指導に当ってくれるようになった。このような趨勢に加えて、昭和41年4月には中島邦敏先生が本校に赴任して来たのである。先生は日本体育大学で軟式庭球を専攻された体育教官であったので、適切な指導がなされ、その年の夏の全国高等学校総合体育大会(俗称インターハイ)には、愛知県代表選手として、山内一美、浅野安夫、組が出場することとなった。大会は青森県弘前市で開催された。監督の中島先生と私が付添って行ったが、山内、浅野組はよく善戦し第6回戦まで勝ち進んで呉れた。この年は女子ハンドボール部も県代表として出場した。会場は盛岡市であったので帰途はこの応援に参加して帰ってきた。

 昭和23年から18年間に亘って、稲沢高校の著しい発展に寄与された新谷 栄先生は昭和41年3月を以って退職され、後任には佐屋高等学校の校長の布施尚一先生が就任された。 布施先生は、昭和10年4月南満州鉄道株式会社に入り、農事試験場や各局畜産係を歴任された経歴を持たれ、私と同じ敗戦による引場者であって、教育の現場としては戦後の経験であり、極めて温厚な人柄の方であった。当時の教育界には、文部省と日教組との対立が激化している時代であったので校長職にとっては大変苦労の多い時期であった。
 校長補佐という私の立場としては、是々非々主義を貫いて、むしろ憎まれ役を引き受けるように対処したが、これが布施校長の意に反する結果ともなったのではないかと今でも反省する所である。3年間を勤めた上で、校長先生のご退職と時期を同じくして、私も教職を離れることに決意したのである。

  昭和44年3月31日付を以って稲沢高校を退職した。