HADAKA MATURI 2003

HADAKA MATURI 2003

祭りの起源

  祭にはそれぞれのルーツある。例えば6月のお田植祭りは 苗を植える所作が舞踊化したもの。5月の馬祭りは、農耕馬と共に 豊年を喜ぶ農民の心に源流があるように思う。そして裸祭は追儺行事。 その先には人身御供というテーマが横たわるのかもしれない。
  20世紀最後の祭礼で、僕はこの宮の女神と約束をした。
「Konよ、この祭りの真実を知りたいのか。ならば、 悠久の時の真実を、いつかは明かそう。だが、その時、たじろぐことはないだろうね。 歴史の流れの中で、正確にその真実を伝える技を持っているのだろうね。 鍛錬しておけ」と女神は告げた。
僕はその約束を果たしたいと思っている。


フットボール

 サッカー、ラグビー。共にフットボールという。イングランドのパブリック・スク−ルごとにあったローカルルールを、1863年ケンブリッジ校の競技ルールに統一してサッカーが誕生した。手を使わないル−ルを拒否したラグビ−校は、独自の ラグビ−・フットボ−ルを提唱して別のスポ−ツとなった。
 フットボールの起源は中世ヨーロッパで行われていた「メレイ」。このメレイは村同士で大勢の人々が入り乱れ、互いに隣村にあるゴールを目指しながらボールを蹴りあうという乱暴なもの。村対抗意識から熱狂的な行事となり、祝祭日のみプレーされていたものが日常化すると、国王が禁止令を出すほどだった。
 この祭り、「メレイ」のルーツは、戦争で勝利したとき、大将の首を取って蹴りながら凱旋したことによると言われる。 祭りのルーツを辿ると、残酷な出来事に行きつくことは多い。そんな出来事から祭に発展し、スポーツが生まれる。スポーツとなればルールを明確に記述しておくことになる。

オフサイド

 サッカーで、もう一つ分からないルールがオフサイド。ヤッターと思ったら オフサイドでノーゴール。審判任せなのだが、ルールはルール。
 ラクビーでパスを後に繋いで行く。あれがオフサイドの精神と言われれば、 理解もしやすい。相手方のゴールに玉を持ち込めば1点というシンプルなゲーム なのだが、そのプロセスを楽しむという祭り精神が生きている。それが オフサイドということになる。スポーツゲームとはいえ、発祥地の伝統や文化 に根ざすのだろう。プロセスを楽しむという祭り精神は、ひいては観衆を楽しませるというプロスポーツになりうる要因であろう。


儺追神事

 国府宮裸祭は儺追神事のハイライト。神事なのか祭なのかと言えば、それは 祭といえよう。サッカーがまだ「メレイ」であった頃、国府宮裸祭も儺追人捕り から始まる神事であった。その頃、裸男の風習はなかった。 下帯一つの男達がもみあう風習は明治期に始まる。何も奇をてらったわけでもない。もみあう男達にとって、これが一番安全なのである。自然発生的に洗練された結果 である。
 本年は、不幸な結末となった。50年ぶりと言われる。逆に言えば、 50年前、不幸な出来事があったことになる。一人の男に千人もの 男が群がり、儺を押し付ける。ほっておけば毎年不幸な出来事で終る。 それを避け、近代祭礼に昇華させたのは鉄鉾会と手桶隊の組織。 この祭りは、この男達の絆で成り立っている。 瀕死の神男がこの神事で生まれ変わる。「死と再生」をモチーフとする 祭礼は真の祭礼である。
 本年の祭礼の経過を辿ってみよう。第三鳥居前 の手桶の水は巧みに仕掛けられたフェイント、神男は楼門に走った。 例年にない速いテンポで、今年も無事祭礼は終ったはずだった。 だがしかし、結果は重い事実となった。この事実をどう受け止めるかだ。
 無礼を省みず言わせてもらえば、「オフサイド」である。 過去に似たようなことが無かった訳ではない。儺追殿に一枚の写真が掛かっている。この年、神男はスタコラ走り、誰にもタッチされずに儺追殿に入って しまった。もう一度やり直した。「オフサイド」である。
 僕は思うのだが、手桶隊から神男が出た。ここに大きな落とし穴があったのでは ないだろうか。


鉄鉾会と手桶隊

 鉄鉾会と手桶隊は命を預ける者と命を預かる者の男の絆で結ばれている。 それは、立場の違う男の集団の心意気で繋がっているといえる。だが、 鉄鉾会と手桶隊が一体となってしまった時、忘れられたものがあったということ になる。 忘れられたもの。それは、何だろう。
 この町の男は42才の厄年 には地区の代表を務める。必ず裸になる。警察へ進行経路の提出をし、 当日は宿の準備もし、練り歩く道中では統制員の責任を負う。寒風の中、 下帯一つでそれをやる。大変な事だ。預かった儺追笹を奉納 すれば、それで大役を果たしたことになる。大半はそこで引き上げる。 でも、運良く神男に触れば、厄落しになる。楼門前で腕組みして待つことになる。 家族を支え、会社を支え、死んでも死にきれない年代、それが厄年なのだ。 そういう生きる切なさを救ってくれるものこそ祭礼であろう。色んな事情があり、毎年参加などできない。今年こそはと奮い立って晒しを巻いた男達の祭り。 それが国府宮裸祭である。他の裸祭とは違う点はここにある。
 一般の裸男にとって、最終的な晴れ舞台は第三鳥居から楼門前まで。楼門の奥には行かない。この200m足らずの舞台で、手桶の水が舞い、エッサエッサが こだまする。これが本来の国府宮裸祭である。本年、この参道で手桶の水が舞わ無かった。結果的には、儺追殿前の広場に殺到した。裸男で立錐の余地が無くなった儺追殿前では 、手桶の水で捌く術を失ったことになる。
 国府宮裸祭の本質は、多勢に無勢の神男を、瀕死の状態から救い出す所。 赤の他人の手桶衆がである。この点を見失った時、祭りの歯車が狂ったのではないだろうか。
 昭和43年(1973)の新聞には、「はだか6千人、見物24万人」とある。参加者は増えている。今年国府宮に集まった裸男 は9千人なのだが、大半は笹納めを終えて帰る。最後まで参道に残るのは 半分以下ではないだろうか。その裸男も、参道の随所に散らばり、 ここへ神男が来たら渦に突っ込もうと位置を決めている。一気に 4千人もの男が群がることはない。
 実際、祭の写真を撮ってみると分かるのだが、群がる集団と 傍観する裸男の絵になる。それでは迫力が無いので、空間や傍観者は カットして画像を構成する。渦と言われるのは、大体100名ぐらいの 男の集団と言える。その集団が順次所を変えて行く事になる。
この祭礼にも、暗黙のルールがある。
     神男は第三鳥居側から出て楼門に向かう。
     楼門の中央を潜る。
     儺追殿に収まる。
例えば、一般の裸衆が儺追殿に収まるなんて知ったこっちゃ無いと決めたとしよう。そんな裸衆が100人集まって 神男を渦の中心に抱え、呼吸を合わせて進めば何処へでも行ける。 逆方向の二十五丁橋まで戻り、橋の上に赤裸の神男を据えて 散会したとしよう。出来ないことではない。しかし、それは国府宮裸祭という祭礼の終りの時である。
 重体者の一人である荒金さんがキッパリとおっしゃったように、この祭りの伝統は、何も変える必要はない。鉄鉾会と手桶隊が築いてきたここ40年の 祭礼の筋立は貴重である。 50年に一度の重い結果を一里塚としてこの祭りを発展させるのであれば、 この祭礼を一般の裸衆に楽しんでもらえるような、少しばかりの配慮 があればいいのである。中世ヨーロッパの祭礼「メレイ」において、サッカーの「オフサイド」の精神にまで発展させ点に謙虚に学ぶべきであろう。

 また、参道の柵の中に立つ身としては、いつ目の前に神男が現れるかも しれないのである。その心の準備はしておこう。一歩でもいい、渦を押し返し てみよう。それが無礼講の特権 を与えられた裸衆の責務である。
 年に一度の祭礼である。酒を食らってド突き合いの喧嘩。それもいいだろう。 恋の恨みを参道で晴らす。それもいいだろう。年に一度の祭礼だ。関取のように 、武器など隠し持ちませんと下帯一つで柵の内に入ったのだから。  だがしかし、ここぞと決めた位置で神男を見失うことは絶対許されない。神男は楼門の中央門を潜る。これはルール。必ず何処かで捕まえられるはずだ。
 楼門前から渦が参道 を押し戻される。ほんの5分のタイミング。今年は何メートル戻されるか。それが 毎年の話題になる。そう言った新しい伝統を、国府宮裸祭は築き始めなければならない のかもしれない。そのためには、裸男ではなく「裸衆」と呼ばれる新たなプレーヤーが 求められているのかもしれない。



by Kon