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儺負人 土餅送り先 慶安4年 (1651) 御城代組久留例右エ門村田源エ門馬子 . 確かに、野良作業をしていると突然一団が来て捕らえられるとなれば騒動に発展する。「けんか祭」と言われた所以である。 国府宮の「儺追祭留書」の一部を記す。 貞亨3年 (1686) 丹羽郡岩倉村の村民儺負の通過拒否。これを切払い帰社 元禄4年 (1691) 東海郡今宿で九八朗を捕らえる。村民、寄進人奥田村権助袋たたき にする。庄屋組頭入牢 14年 (1701) 東海郡勝幡村で所左エ門捕らえる。倅久之丞、寄進人石橋村の 半六に刀傷。久之丞は村追放。所左エ門は入牢 .寛保2年の騒動は、一宮村へ向かった一隊が喧嘩道具を持った村民七八百人と騒乱、追返された 事件である。寛保3年(1743)尾張藩は祭りの改易を命じる。この事件より、その年の恵方の村で 支障のない人を選んで雇い入れることにされた。「諸事内記留」によれば、報酬は事前金子壱分、事後 金子壱分の支払いとさていた。1744年から1867年(明治維新)の間、儺負人 、土餅送り先の記録は途絶える。 この間に祭の形体は、「儺負人捕り」から「もみあい」に変わっていったことは想像される。明治12 年(1879)「男子を捕らえ祭事に供するは粗暴である」として県より改易の命が1月29日付けで出されている。何かあったのだろうか。明治32年(1899)の届出書として「裸体を禁じ二の鳥居内に於いて300人に限定」との記録も残るという。 以上のように、今日の裸祭の形体になるには種々の騒動があったことは理解される。一つだけ補足 すると、勇壮な裸祭は各地にあるが、下帯だけの裸姿が参加者自身一番安全であり、祭礼の積み重ね の中でそのようなスタイルに定着していったものと思われる。 |
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「やっぱり、神男亡くなったのよ。お友達のご主人が近くの町の消防署に勤務していて、 その方もこの噂は知っているのよ。」と妻が言う。 この噂話は3月の終わり頃まで、よく耳にした。この頃になると ラジオ番組で「私は死んだことになっていますが」と神男が登場したんだと落ちが付きだした。 だが、神男死亡の噂話はかなり広範に広まったことは確かである。 4月の始め、妻の誕生日に僕は小学の同級生の花屋さんでバラを買う事にしている、 ここでの井戸端会議も一つの楽しみである。同級生のたかちゃんは、今年初めて夜儺追神事 を見に行った。確かに、その時神男を見たのだが、あちこちで「ねえ!ねえ、知ってる。」 と話を聞けば、あの時の神男は替え玉かもしれないと思ったという。朝のラジオ番組を聞いて 安心したという。僕だって、2月21日に宮の方に神男の安否を確かめたが、 裏に「ふせてある」かもしれないと思えばやっぱり断言はできない。ラジオ番組だって疑えば切り がない。4月末の「鉄鉾会」との直接会見までは、僕はペ−ジを書けなかった。それ程までに、 この町全体に広まった噂は強烈だった。 |
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「精霊堂は、成年男子の会のための神聖な場所で、女性や子供達にはすべてが秘密にされ、入ることは 許されないし、近づくことも禁じられている。男たちは、日ごろここにたむろし、談笑、昼寝、食事、 重要な会議などを行なう。精霊堂の最も重要な役割は祭儀の中心になることであり、中でも、入会式、 すなわち成人式が最も重要なものである。成人式は男子を母親から引き離し、成年男子の世界にひきいれ るという一連の通過儀礼であり、”死と再生” のモチーフにより行われる。母親の子供として死に、成年男子として再生するのである。男たちは、成人式のとき、背から肩、胸にかけて一面斑点状にナイフで傷をつけられる。傷口を毎日洗い流し、泥を塗ってワニの鱗のような盛り上がった瘢痕分身(はんこんぶんしん)を作り上げるのである。傷が直るまでの数週間、女性や子供達から隔離されて、精霊堂の中でいろいろな教育を受ける。新しく施された瘢痕分身は、成年男子としての再生を意味している。」 これはタンバラン(子宮を意味する)と呼ばれるオセアニア地方の精霊堂の解説文である。 日本の精神文化の基底には”タブ−”という流れがある。神社やその神域に対しての敬意の根底にあるもの。僕は決して失ってはいけない日本人の信仰心の核の部分であると思っている。この流れ は、一体どこから来たものでしょう。僕は南方系の精霊堂(ハウス.タンバラン)が象徴するものに、その源流を見る。日本の祭礼の核心部分には南方系の”死と再生”のモチーフが深く横たわっていると思っている。これを「生れ清まり」と呼ぶ人がいる。 この国府宮裸祭は、文書記録としては神護景雲元年(767)に始まる伝統的追儺行事である。ユ−モアとペ−ソスを帯びた青鬼や赤鬼ではなく、正に生き身の男が厄いや汚れを背負い込んで消えてゆく生々しい追儺行事です。しかも、その儺負人が瀕死の状態から再生するという「生れ清まり」を見事に再現する。飾りや道具もなく、ただ下帯だけの裸男達が集まり、「追儺」と「生れ清まり」を見事に再現する。この祭は日本の祭の核心を、ものの見事に具現するこの国を代表する祭礼だと僕は思っている。 先にも記したが、もみ合い、命綱を付けた男による救出といった 様式は明治以降に出来上がったものであろう。1200年の歴史を有し、生き身の男に厄いをなすり付ける生々しい神事を、この40年間、一人の死人も出さない守りの伝統の上に築きあげ、近代祭礼に昇華させた「鉄鉾会」と「手桶隊」に僕は深い敬意を抱いている。 |
2001年4月21日、僕達3名は、今年の「神男」沼田寿さんと神守りの伊藤さん、村松さん、山田さん、西尾さん、そして引上げ人の日置さんと会見した。もう18年神守りを勤めた日置さんは、「毎年、神男は亡くなった噂は流れますよ」と痛快に笑う。今年から神守りの隊長になった伊藤さんは「今年は幾らもらったとよく聞かれますが、それは一切ありませんね」とキッパリ。滅法酒の強い 6名の鉄鉾会を相手に僕達3名は体面を保つのに精一杯でしたが、貴重な時間をすごさせていただきました。 酒宴に入る前に、基本的な事実関係を確認したので報告しておきます。 本年、「神男」が参道に出た時刻 16:45 追儺殿に引き上げられた時刻 17:55 祭礼後、「神男」沼田寿さんの出演したラジオ番組 2月24日(土)東海ラジオ サタデ−パ−ク.アマチン通り7:00〜10:00神守と金について補足しておきます。毎年大鏡餅奉納を近隣のどこかの奉賛会が行い ます。これ以外に大小の鏡餅が各地の奉賛会から集まります。裸祭の翌日、これを拝殿で切り出し、 すこし大き目のサイコロ大にして袋に入れ200円で分けられます。これがこの祭礼の経済基盤です。 それ以外に寄付等もあるでしょうし、裸祭の前日に「神男」との会見があり、僕たちも清酒二升 を手土産として持参することにしています。多少ですが寸志の意味があります。この様な奉仕を受け 「鉄鉾会」が自らの奉仕作業で取り仕切ることになっています。伊藤さんの「神守りのために金が 動くということはない」とキッパリおっしゃる背景にはこの伝統があります。 さて、歓談の3時間は、アッと言う間におわりました。握手で別れた沼田さんの握力の 強かったこと。心からお疲れ様でしたと申しあげました。最後に、印象に残った日置さんの言葉を 皆様にお伝えしておきます。 「この祭は、参加して頂く裸男の皆さんの熱気に支えられています。毎年そのことは肌身で感じます。」 2001.4.21 「鉄鉾会」 日置一二氏 談 |